平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2004年10月24日 聖なる者となりさい

2006-06-04 14:01:58 | 2004年
I ペトロ1:13~25
     聖なる者となりさい

 「ペトロの手紙」を書いた著者は、「生活のすべての面で聖なる者となりなさい」と勧めています。この手紙を書いたのは、あのイエス様の弟子だったペトロということですが、これには諸説があって、どうもそうではないというのが、大方の見解のようです。しかし、文字通り、ペトロというように考えてみますと、これはとても励まされる話ではないでしょうか。
 それは、あのとても弱かったペトロが、私たちにある意味では完全さの勧めをしているからです。ペトロは、「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って」そうなりなさい、と言っています。真の神様を知らずに、生活していた頃、欲望のままに生活していたかもしれませんが、今はそうであってはなりません、神様のみ言葉に従順となり、あなたを救いに招いてくださった神様、或いは、イエス様を模範として生活をしなさいと勧めています。
 神様に倣うというのは、もちろん無理ですが、イエス・キリストもまた、肉なる人としてこの世に来られたのですが、人間のなかで唯一罪を犯さなかったお方ですから、この方に倣うということも至難の業というものです。この手紙は、ローマにいるぺトロから小アジアに住むキリスト者たちに送られています。
 2章の12節に「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなた方の立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」とあり、キリスト者たちが悪人呼ばわりされていることがわかります。それは、どのような理由から、そのように言っているかと言いますと、予想されることの一つとしては、キリスト者たちがまもる礼拝があったでしょう。
 異教徒たちからすると、それは閉鎖的であったでしょうから、奇異な目でみられ、偏見や差別の対象になったということは考えられます。もう一つには、4章4節にもありますように、「あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」ということだったようです。ひどい乱行というのは、「好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝」などを挙げています。
 そういうことをしなくなったので、自分たちとは違う異質なものになったという理解でしょう。しかし、こういうことは私たちの日常生活のなかではいろいろな場面で起こりうることです。
 しかし、それすらもだめと私たちは勧めをいただいているのです。乱れた行いをしなくなったというのは、立派なことのように思えますが、一方では、そういう清い生活をしなさいといいながら、もう一方では、厳格に聖なる者となるための努力をすれば、それがまた、かえって、異邦人社会のなかでは孤立を招き、周りから爪はじきされることになるということになっていたのです。
 ですから、立派な生活をみて、彼らが神様を、終末のときにあがめるようになるというのは、一方ではそうだとしても、現在彼らが生きているこの世にあっては、迫害を受ける要因になっているのでした。
 これは、現代の私たちもまた同じでしょう。他の人と同じようにしなければ、爪はじきされる、嫌がらせをうける、そういうことはあります。警察やお役所、会社などでも、組織ぐるみで裏金を作ったり、裏帳簿をつけていたり、問題がわかっているのに隠ぺい工作をしていたりしていたことが明るみにでます。
 おそらく、そういうとき、組織の中にいる人間の中には、それは悪いことだとはっきりとわかっていて、良心がとがめながらも、それをしないと左遷されるとか、降格されるとか、そういうことを恐れて、それに踏み切れないでいた人もいるのでしょう。
 好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝、そういうことは、私たちの日常生活のなかで、いろいろな場面でなされることなのです。これらのことはよくないことだから、自分は一切これらのことをしませんと言えば、付き合いが悪い奴だとぐらいは言われるでしょう。既に救われたわたしたちは、偶像礼拝は、しないとしても、他のことはどうでしょうか。泥酔をしたりされる方は、いらっしゃいませんか。情欲をもって、連れ合い以外の異性をみることはありませんか。酒宴をよくされる方はいませんか。気がつけば、今日も暴飲暴食になってしまっていたという方はいませんか。
 私たちは、どれもこれも毎日ではないけれども、ときおり該当するような内容のことをしているのです。それは、聖なる者としての生き方ではないということになります。牧師あなたはできるかと言われたらできないと答えます。自分もできないことを言うなと言うなら、私は、それは違うと言います。
 私の務めは、私がどうこうというのではなく、そういった意味では、説教を語る者が一番、そのみ言葉の前に、真っ先に立たされているということはありますが、聖書のメッセージを伝えることが私の務めなのだということです。
 ですから、自分ができないから、これこれは伝えられないということでは、説教者として立てるものなど、いません。ときがよくても悪くても、み言葉を語ることが私の説教者の務めです。ただし、先ほども言いましたように、語る者が真っ先にそのみ言葉の前にたたされているのだということだけはおぼえておいていただきたいと思います。
 また、2章の1、2節には、「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」とありまして、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口などもまた、聖なるものになるのを妨げる要因であることがわかります。
 しかし、偽りは、意識的にやめることは可能ですが、悪意、ねたみ、悪口などは、どうでしょうか、これもまた日常茶飯事に犯していることがらです。どうしても、押さえ難くわいてくる感情というものがありますから、これを出ないようにするのは、無理と言わねばなりません。出てしまった感情をどうコントロールするのかは、ある程度の努力でどうにかなるとは思われますが、自然にわいてくる感情を出ないようにするというのは、非常に難しいのです。
 当時のキリスト者たちは、迫害にあっています。公の権力からの弾圧ということも考えられます。キリスト者たちは、ローマ帝国の厳しい迫害を幾人かの皇帝の時代に受けました。そして、この手紙は示しているように生活領域を同じくする人々による異教徒たちから受ける迫害もありました。その迫害が強ければ、それで棄教(キリスト教信仰を捨てる)する人々も出てきます。
 あるいは、耐え切れずに、そうした誘惑のなかで前のような生活にもどる者たちもでてきます。手紙の著者は、何とか耐えるよう、聖なる者としての生活をまっとうするように勧めます。
 5章の8節、9節には、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるライオンのように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」そう教えています。私たちは、あまりにもひどい迫害、今の日本の社会では、ひどい迫害というものはないでしょうが、あっても、おそらく、地域のある方々から無視されるといった程度です。
 しかし、個人的なことを考えてみますと、嫌がらせ、いじわるといったことが続くとさすがに私たちの気持ちはねじれ、敵意や悪意を抱いてしまうといったことも起こってきます。学校や職場でも嫌がらせやいじわるというものはあるでしょう。今は、家庭においても幼児に対する、あるいは、ご高齢の方々への虐待というものがありますから、問題は深刻です。そうしますと、聖なる者としての立ち方ができなくなります。「信仰にしっかりと踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」これが教えです。
 それで、耐えうる方法をみ言葉のなかからいくつか考えてみたいと思います。一つは、5章の9節にありますように、信仰にしっかりと踏みとどまることです。ある意味では、それはイエス・キリストの教会を離れないことです。また、1章の2節に「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられたご計画に基づいて、霊によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」とあって、キリスト者たちが、まず、神様のご計画に基づいて、霊によって聖なる者とされたと言います。
 ですから、私たちの努力でもって、その努力が認められて聖なる者とされたのではありません。神様の側の一方的な選びというお恵みにより、聖なるものとさせられたことが述べられています。そして、聖なる者とさせられたのは、イエス・キリストに従い、その血を注ぎかけていただくためにそうさせられたというのです。ここには、順番のようなものがはっきりと書かれておりまして、まずは、神様の選びが先にあったということなのです。
 キリスト者たちは、神様の恵みにより一方的に聖なる者とされた、それで、もともと聖なる者なのであるから、その聖なる者としての立場を貫くように、というのです。一生懸命努力して聖なる者となるのではありません。もしそうであれば、とてもそれは人には難しいでしょう。しかし、すでに聖なるものとされたのであれば、それをキープするだけです。
 それから、1章の2節には、「あなたがたは、終りの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」。終末における救いに与ることができるように神様の力で、信仰を媒介にして守られています、とそのように述べています。
 ここでも、神様がすでにおのおのに与えられた神様を信じる思いをとおして、神様の力で、それぞれを覆ってくださることがわかります。こちら側の信仰を固く守りとうそうという姿勢も大切ですが、それよりも先に、神様がその信仰がなくならないように守っておられるということです。
 また、先ほどの「混ざりけのない霊の乳」を慕い求めることです。救われるために、これを飲んで成長します。聖霊のお力により頼むことの勧めがなされています。今生きて働いてくださる神様のお力に信頼することです。
 私たちの望ましい姿は、1章の8節、9節に、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」とありますように、キリストを信じて、言葉にあらわせないほどの喜びに溢れている姿です。信仰の実りとしての魂の救いを受けているならば、そうなるというのですから、日々そのようでありたいものです。
 再び「聖なる者となりなさい」に返ります。22節に「あなたがたは真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」、これもまた、聖なる者としての歩みの一つと言えます。清い心で愛し合う、その前提には、真理を受け入れた、つまり、イエス・キリストを受け入れたということがあります。イエス・キリストを受け入れたことは、魂を清めたことになりました。ですから、その清い心で互に愛し合うように、それがまた、聖なる者としての歩みになるのです。
 1章23節には、「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、つまり、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と書かれています。キリスト者とは、神様の変わることのない生きた言葉によって、新たに生まれた者たちです。これまた、聖なる者としてのありようです。聖書のみ言葉に生かされる毎日でありたいと思います。そしてそれはまた、聖なる者としてのありようではないでしょうか。

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