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迷歩録   たくしょう

2017-04-21 13:57:13 | 日記
  雲重く  春や足踏み  耕雨の前  田んぼ耕す  トラクターの音


                                 <strong>ひのひら  ろくべえ





    「たくしょう」とは、一蓮托生の托生である。結果の良しあしにかかわらず、互いに行動や運命をともにすること(広辞苑)

    とある。今の世の中、このことが守られているのかといえば、そうでもないように感じられる。特に政治の世界では、大臣や

    政党員の不祥事や失敗は、任命責任者や、党首などその責任者も「一蓮托生」のはずだが、なかなかそうはいかずに、その本

    人、個人に辞任とか、辞職を求めて幕引きが行われる傾向にあるようだ。人事というものはその地位や役職というものを与え

    た者にこそ一番の責任があるのだが、そのことからは逃げ延びる傾向が強いのではないだろうか。

     このことは政治家だけではなく、日本のありとあらゆる所に蔓延しているのではないかと懸念する。例えば一般的な企業で

    も、売り上げの上限をすべての責任はスタッフにありとして、コンビニスタッフが訴えたという事件も耳に新しい、つまり責

    任を預かる者が、命令をしたり、任命するがその後の事は本人の責任というスタンスをとりすぎではないだろうか。政治家で

    あろうと、サラリーマンであろうと、技術者であろうと、雇う側と経営者は「一蓮托生」のはずなのに、経営者は個人的資質

    という事にすり替えて、責任逃れをしてしまう傾向にないだろうか。その傾向が強かれば強いほど、経営者は全体の質の向上

    には関与しなくなり、研修なども疎かとなってしまう。今の政権政党を見ていればそのことがよくわかる。組織というもの質

    というものは、組織内が「一蓮托生」でまとまっているか否かで、その強さは比例するのではないだろうか。

     個人での責任範囲と組織としての責任範囲をうやむやにしてしまう傾向にないだろうか?森友学園問題でも、一度は名誉校

    長ととして名を連ねたり、関与したものは「一蓮托生」のはずだが、そんなことはお構いなしに、蜘蛛の子を散らすように、

    我には関係ないことと言い張って、去って行ってしまった人たち、あたたがたの責任はと問いたいものである。日本のある

    べき姿はチームワークの強さではないかと思うが、「一蓮托生」の考え方が薄まれば薄まるほどチームワークというものは弱

    くなって、組織の内部崩壊という道を歩き始めているという事にもなろう。

     内部崩壊が進めば外交からの攻撃や侵略というものを受けずとも、壊れていくことになる。日本人の強さの象徴である「一

    蓮托生」の精神を今一度見直し、組織の中心の考え方にしていくことが大切ではないだろうか。

     特に対人援助がメイの仕事の職場では、「一蓮托生」の精神が、一人一人のケア責任を支えていることを知らなければ、責

    任所在が不明確となるばかりか、不祥事ばかりの組織となってしまう事もある。

     福祉の精神に、一人は皆のためにみんなは一人のためにというのがあるが、そのことを実践する考え方が、「一蓮托生」の

    精神ではないだろうか。いずれにしても、互いに支えられながら、生きていることを自覚したいものである