売国無罪?

2023年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
 今月の国会で「出入国管理及び難民認定法」改正が審議され、反対する議員の暴力行為や傍聴席の新聞記者の暴言がありながらも成立しました。
 法律はルールを守らない人を守るためのものではなく、ルールを守らない人からの被害を防ぐためのものだとおもいます。赤信号を渡ってはいけないのは、信号無視で事故被害者を出さないためのルールです。信号無視する側にも事情があるのかもしれませんが、病院から呼び出されて急いでいるお医者さんなら許されるわけではありません。
 不法滞在者は犯罪に巻き込まれる率が高く、スパイ活動や工作活動の温床になりますので取り締まらなくてはなりません。国内に住む人の安全を守るためです。不法滞在している方にもそれぞれ事情があるとはおもいますが、違法は違法です。信号無視を擁護すれば、これに甘えて悪用して信号無視する輩が増え、交通事故の危険度が高まってしまいます。法律を守らない人を守ると、国民及びルールを守って滞在している外国人の安全が脅かされるリスクが高くなる、ということを想像しなくてはいけませんね。
 さて、参議院法務委員会で暴力行為を行った国会議員や、暴言を吐いた新聞記者がどう処分されるかに注目しているのですが、今のところ何のお咎めもないようです。
 2012年に日本政府が尖閣諸島を国有化することを閣議決定したことに端を発して、中国国内で反日デモが発生し、日系企業の工場が放火され、多くの日系の商店が襲撃、略奪され、日本車が破壊されたりしましたが、このときの中国人暴徒のスローガンが「愛国無罪」でした。国おもっての行動ならば何をしても許されるということで、中国政府もこの暴動を厳しく取り締まらず、日本側も泣き寝入りで、この大事件はうやむやになってしまいました。
 出入国管理の最大の不手際といえる拉致事件も、40年以上たって未だ解決できないわが国では「売国無罪」が通用するようです。

一筆啓上せしめ候19 相変わらずの川河問題

2023年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム
磐城棚倉駅から茨城県との県境の矢祭山駅までのエリアは福島県東白川郡で、白河市の東側に位置します。白河市の西側には西白河郡があります。すでにお気づきのように、川河問題です。江戸時代の寛文年間(1661年~1673年)に白河・高野・石川の三郡を統合し白川郡としたが、元禄年間(1688年~1704年)に、白河・白川(元の高野)・石川の三郡に再分割され、以後若干の郡境変更を経て、明治12年(1879年) 郡区町村編制法により白川郡の区域をもって東白川郡が発足し、白河郡の区域は白川郡との区別するために西白河郡と改称され、現在に至っています。白河、白川、そして石川と、この川河の使い分けに何か深い意味があるのではとおもって調べているのですが、よくわかりません。江戸時代以前から、白河郡を白川郡と記した文書が残されるなど紛らわしかったようで、もしかしたら、昔の役人が適当に書いたのがそのまま残ってしまっただけなのかもしれません。
 棚倉町から以東、東白川郡は阿武隈川水系から久慈川水系となります。陸奥の国を流れる阿武隈川が大きい河で、常陸の国に向かって流れる久慈川は小さい川、と区別したのかもしれないなあと、などと相変わらずこだわり続けているうちに、阿武隈水系の銘酒「大七」も尽きてしまい、ビールでつなぐことに。
 線路は久慈川に沿い、列車は左手に阿武隈山地、右手の八溝山地の間の田園の中を進んでいきます。中豊駅を出て近津駅に到着すると、駅前の広場に山積みにされた材木が目に入ります。この辺りは製材業の町で、かつては鉄道を使って木材が輸送されていましたが、水郡線の貨物輸送は1987年に終了しています。
 列車は2面2線のホームの磐城塙駅に到着します。木の町塙をイメージしたかわいらしい駅舎は、タカラのおもちゃ「こえだちゃんの木のおうち」のよう。「塙」は土の高いところという意味の和製漢字で、福島県や茨城県には、「台地の端(はな)」を表すハナワという方言があり、これに「塙」という字をあてた、という東白川郡にしては納得のいく由来が町のホームぺージにありました。この地は陸奥と常陸の国の境で常陸の佐竹氏と陸奥の伊達氏が拮抗していた歴史があり、木材供給の要衝でもあるため、徳川幕府は直轄地として代官を置き管理していました。現在人口8,000人の塙町の新しいセールスポイントはダリヤです。大きな花弁の色鮮やかなダリアは、塙町の町名「はなわ」にふさわしく、はな=花 そして人の「わ・和・輪」で町おこしを目指しています。
 磐城塙では数名が降り、乗客はなし。車内の乗客はまばらになってしまいました。次の磐城石井までは水郡線で最も長い駅間です。

一筆啓上せしめ候18 磐城棚倉SATURDAYナイト♪

2023年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
 2面ホームの磐城石川駅を出発した列車は里山の中を走り、棒線駅の里白石駅に到着。出発するとすぐ気動車はエンジン音を高めて勾配のある線路を上っていきます。次の磐城浅川駅は水郡線の中で最も標高の高い場所に位置する駅です。ここ石川郡浅川町は、医学者吉田富蔵の生まれた町です。福島県の医学者といえば1876年猪苗代町出身、千円札にもなった野口英世が有名ですが、1903年浅川町出身で、1929年に発がん物質の経口投与でラットに人工的に肝がんを発生させることに成功した吉田富蔵先生を忘れてはいけません。町には吉田富蔵記念館もあります。今日のがん研究に直接つながる吉田先生の事績に手を合わせながら、磐城浅川駅を出発します。
 八溝山地の山並みを遠く正面にみながら、田園風景の中を列車は進み、磐城棚倉駅に到着します。
 磐城棚倉駅は広い敷地に島式2面ホームがあり、少し離れた駅舎とホームを跨線橋が結んでいます。この跨線橋の下は、かつて磐城棚倉と白河を結んでいた白棚線のホームでした。棚倉藩の城下町で東白川郡の中心地の棚倉町は、近隣に炭鉱もあることから、1916年に悲願であった鉄道開通を成し遂げ、それが白棚線になりました。ちなみに町名はタナグラですが、駅名は濁らずイワキタナクラ、路線名はハクホウセンです。1932年に水郡線が磐城棚倉駅に繋がると流動は白棚線から水郡線に奪われていき、1944年に戦時下の「不要不急線」として白棚線は休止され、レールは撤去されて武器や弾薬になって消えてしまいました。不要不急という言葉が使われる時代には気を付けなくてはいけませんね。戦後鉄路の復活やレールバスでの再開の運動もあったのですが、鉄道の再敷設は行われず、1957年に線路跡地を舗装した専用道を走るバス路線になりました。元祖BRT(Bus Rapid Transit)です!現在鉄道廃止後の交通手段として、線路をバス専用道とするBRTが注目されており、すでに気仙沼線で運用が始まりましたし、今年8月には九州の日田彦山線が開業します。現在白棚線のバス専用道は一部を残すのみで、多くの区間で一般道を走っています。専用道区間は元々が単線線路なので道路幅が狭くバスのすれ違いができません。路面は整備の遅れで荒れていてバスは揺れが大きく、また幹線道路から外れているため利便性も低いことから専用道は徐々に廃止されていく予定とのこと。このバス路線が「白棚線」と呼ばれ続けていることが救いですが、BRTの未来も明るくはないことを白棚線の歴史が教えてくれます。
 さて、人口13,000人の小さな棚倉町ですが、古い歴史のある城下町です。坂上田村麻呂所縁の神社や空海が開いた寺院などもあり、戦国期までは陸奥国の伊達氏と常陸国の佐竹氏が対峙し幾度も戦場になりましたが、江戸期に入り棚倉藩となり、丹羽長重の棚倉城築城から明治4年(1871年)まで246年続きました。
 そんな棚倉町を揺るがす事件が1977年10月に起きました。当時第二のビートルズと言われ、人気絶頂だったイギリスのアイドルロックバンド「ベイシティ・ローラーズ」がやってきたのです!ローラーズは札幌、名古屋、そして日本武道館で2夜のコンサートの翌日に、郡山で公演を予定したのですが、風紀上の理由から郡山市が市民会館の貸し出しを拒否したため、急遽棚倉町総合体育館に会場が変更されました。まだロックは不良の風潮が残っていた時代、特にローラーズは熱狂的な女性ファンが多く、世界中のコンサート会場で黄色い声を上げていたのですが、当時の棚倉町町長はよく知らずにOKしてしまったとのこと。コンサート当日は県内外から、ローラーズのトレードマークであるタータンチェックに身を包んだティーンが棚倉町に押し寄せ、大量の警備員、補導員も投入されました。33人の失神者と76人の補導者を出して、コンサートは無事?終了し、タータンハリケーンは棚倉町から去っていったとのことです。その後ローラーズの人気はあっという間に鎮静化し、わが国では黄色い声の向けられる先はジャニーズ事務所に移っていきます。今、若い世代でベイシティ・ローラーズを知っている人はほとんどいませんが、有名なあの曲を口ずさむとたいてい、聞いたことある!と言ってくれます。昨年ローラーズのリードボーカルのレスリーマッコーエンさんがひっそりと亡くなりました。レスリーも晩年マネージャーからの性被害を告白していました。

一筆啓上せしめ候17 福島空港アクセス線を

2023年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
 1993年に開港された福島空港は須賀川市・石川郡玉川村にまたがっており、一日に全日空の大阪便が4往復、札幌便が1往復就航しています。新型コロナ流行前の2019年の乗降客数は約28万人で、休航も含め全国に96ある空港中第49位です。それより下位のほとんどが離島空港で、基幹空港では61位の松本空港があるくらいです。国内線の搭乗率は58.5%です。ちなみにわが国で空港のない県は群馬、栃木、埼玉、神奈川、山梨、岐阜、三重、滋賀、京都、奈良の10府県だけで、空路は全国に張り巡らされています。地方鉄道同様、地方空港も厳しい状況にありますが、東日本大震災の際に福島空港は羽田便が臨時就航し、人や物資の輸送に力を発揮しましたので、交通インフラは通常時の採算性だけで評価することはできないとおもいます。福島空港からは離発着便に合わせて郡山、いわき、会津若松との間のリムジンバスが運行されていますが、最寄りの鉄道駅は、ここ泉郷駅です。泉郷駅から福島空港までは5キロ足らずですので、鉄道ファンとしては何とか水郡線から分岐して空港アクセス線をつくれないかとおもってしまうのですが、今のところ駅から空港まではバスなどの公共交通機関すらありません。
 泉郷駅を出発、次のカップ酒は阿武隈水系の水で醸す二本松市の銘酒「大七本醸造」です。大七の特徴は何と言っても「生酛造」です。米が発酵するには酵母が必要ですが、酵母は酸性の環境を好み、逆に他の雑菌は酸性下では死滅するため、日本酒の醸造の最初の段階では酵母の増殖に先立って乳酸菌を増やす必要があります。現在ほとんどの酒蔵では速醸法といって乳酸菌を添加しているのですが、大七酒造では天然の蔵付きの乳酸菌の増殖を待つ伝統的な「生酛造」で醸しています。そのため大七はヨーグルトのようなまろやかな酸味が魅力的なお酒になるのです。
 列車は単調な田園風景の中を進み、川辺沖駅に到着し、出発。
 大七のまろやかな酸味は、笹の川の爽やかな味わいとは好対照で、よい2杯目のセレクトと自己満足しながら飲み進めます。水田や畑の中を真っすぐに進む架線のない非電化の線路は遠近法の教科書のような風景で気持ちがよい、とおもっていたら、次の野木沢駅の手前、線路の至近の場所に里山を切り開いて太陽光パネルが設置されていました。線路や道路の近くに太陽光パネルを置くのは、台風など災害時を考えると危険です。その前に里山をつぶして太陽パネルはナンセンスなのですが、この話は酒がまずくなるのでこのぐらいにして、列車は野木沢駅を出発し、磐城石川駅に到着です。野球や各種スポーツの強豪校の学法石川高校の最寄り駅で通学需要があり、高校生たちが十名ぐらい乗り込んできました。

一筆啓上せしめ候16 M78星雲を10分で

2023年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
 棒線駅の小塩江でも乗降客はなく出発です。汽笛が「シュワッチ」と聞こえました。
 1901年に、ここ須賀川町に生まれた円谷英二は子供の頃から絵が得意でしたが、飛行機乗りに憧れて日本飛行学校入学するも在校中に閉校になり、東京電機大学に入学し、ここでの経験から国産初のオプチカルプリンター(画面合成装置)を発明し、特撮映像の第一人者となります。円谷が戦時中に製作した映像フィルムは、戦後にGHQが日本軍が撮影した実際の戦闘シーンと信じて接収したというエピソードがあるくらいです。戦意高揚映画を作っていたというかどで、円谷は公職追放されますが、追放が解除され東宝に復帰してからの映画ゴジラシリーズや、円谷プロダクションのウルトラシリーズでの活躍は、今日知られている通りです。
 田園と里山の間を抜けるようにして、川東駅に到着します。阿武隈川のすぐ東の駅は、片側のホームと線路は廃止されて棒線駅ですが、駅舎は、きれいな蔵作りに改装されています。駅前の大きな金木犀が車内からも見えます。秋に橙色の花が甘い香をふりまいて咲きほこる姿が思い浮かびます。この駅の近くには松尾芭蕉も立ち寄った「乙字が滝」があります。
 乙字が滝は阿武隈川が乙の字の形に蛇行したところにできた落差5メートルほどの滝ですが、水量の多い時には幅100メートルの迫力のある落水がみられます。芭蕉と曽良が訪ねたときは梅雨で、豪快な姿を堪能できたようです。「五月雨の 滝降りうづむ 水かさ哉」の句碑が建てられています。天候が良くなかったせいもありますが、芭蕉と曽良は須賀川に8日間も滞在し地元の俳人たちと交流しています。「風流の初や奥の田植えうた」も須賀川で詠んだ句です。
 川東駅では数名の乗降があって、出発です。芭蕉には申し訳ない晴天の下、田園、里山を蛇行しながら列車は進みます。同じような風景が繰り返し、笹の川カップも空になり、ちょっと眠くなってきたころ里山が途切れ広い田園が開けて、線路が前方に真っすぐ伸び、気動車は車体を震わせながら加速していきます。正面の青空に飛行機が見えました。須賀川基地に戻るウルトラホーク号ではなく、福島空港に着陸する札幌からの便です。1993年この地に空港ができて、円谷英二も喜んでいることでしょう。
 M78星雲を時速60キロメートルで駆け抜けて、石川郡玉川村にある泉郷駅に到着です。