インフルエンザワクチン接種実施状況

2023年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
 ※新型コロナワクチン接種状況はこちら

 インフルエンザワクチンの在庫あります。接種を実施しています。
 診療時間内にご来院ください。

 費用:1回3,500円(税込)
  12才以下は2回接種、13才以上は1回接種が推奨されています。

 ※目黒区(他東京23区も可)発行の問診票をお持ちの65才以上の方、障害のある60才以上の方は、ご記載の上持参してください。
  昭和29年1月2日以降に生まれたかたは2,500円(ただし、生活保護受給者及び中国残留邦人等支援金受給者は費用が免除)。
  昭和29年1月1日以前に生まれた方は無料です。

 ※接種日現在、生後6か月から中学校3年生までの区内在住者は区から接種費用助成(1回あたり1,000円)が受けられます。専用の問診票がありますので、当院まで事前に取りに来ていただき、記載して接種日にご持参ください。

 ※ご勤務先や健保組合の補助が受けられる方は、受付にてご相談ください。

9月20日から、新型コロナワクチンの型が変わります~当院でも接種を実施しています

2023年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
 9月20日から、新型コロナワクチンの型が変わります。これまでは初回接種は従来株のBA.4の1価ワクチン、2回目以降の接種はBA.4およびBA.5の2価ワクチンを使用していましたが、9月20日以降は初回接種。2回目以降接種とも、現在流行しているオミクロン株のXBB系統に対応した新たな1価ワクチンを接種いたします。
 米FDA諮問委員会は「現在の2価ワクチンにより、XBB系統を含むオミクロン株に対して効果が持続しているが、接種後、時間が経過すると有効性が低減する。現行の2価ワクチンで誘導されるXBB/XBB.1.5系統に対する中和抗体価がBA4/5に対する抗体価より低い」などとして、2023-2024年におけるワクチンの株構成は、1価のXBB系統を推奨しています。
 年齢6か月以降のすべてのかたが接種対象です。

●接種時期
令和5年9月20日から令和6年3月31日まで
●接種対象者
目黒区に住民票がある新型コロナワクチンの初回接種※を完了した生後6か月以上のすべてのかた
※5歳以上のかたは1・2回目接種、4歳以下のかたは1から3回目接種を指します。
●接種間隔
直近の接種から3か月後以降
●接種回数
1人1回に限り接種できます。
初回接種(5歳以上のかたは1・2回目、6か月から4歳までのかたは1回目から3回目)がまだのかたは、引き続き接種を実施します。2回目接種は原則、1回目接種から3週間後、追加接種(3回目接種以降)は直近の接種から3か月後以降、オミクロン株XBB対応ワクチンを接種いたします。
接種券は9月15日以降、接種可能な時期が近づいたかたへ順次発送します。
●接種を受ける際の同意の取得
接種を受けるかたの同意がある場合に限り接種を行います。15歳までのかたは、接種時に保護者の同伴および予診票「接種希望書欄」への保護者の署名が必要です。
●問い合わせ先
目黒区新型コロナ予防接種課 電話0120-102-654

当院推奨の「水素サプリメント」、「水素入浴剤」を販売いたします

2023年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
 メーカーのご協力により、私が信頼して使用している水素スプリメント、水素入浴剤の販売を開始いたします。

〇水素サプリメント「シェルアッシュ ピュア」
 水素焼成サンゴ末100%のサプリメントです。原料は風化サンゴと呼ばれる、化石化したサンゴです。沖縄などのサンゴ礁では寿命を終えたサンゴが化石化し、ばらばらになって海底に蓄積しています。これが風化サンゴで、これを許可された海域で採集して原料としています。主成分は炭酸カルシウムですが、多孔性の組成をしているため、体積あたりの表面積が極めて大きく、物質の吸着力が大きいのです。サンゴ礁の海水がきれいなのは、表面積の大きいサンゴが天然のフィルターになっているためです。
 風化サンゴ末を水素ガスと一緒に密閉し、高温焼成することで、サンゴ末に水素ガスを大量に吸着吸蔵させたのが、水素焼成サンゴ末です。
 水素焼成サンゴ末のカプセル「シェルアッシュ ピュア」を服用すると、小腸内でカプセルが溶けてサンゴ末が腸内の水分に溶けて水素を発生します。
 私が「シェルアッシュ ピュア」を選択している理由は、原料の風化サンゴ末が高品質で、水素吸着の技術が高いことです。水素の効果だけでなく、サンゴ末には炭酸カルシウム他、多種の天然のミネラルが豊富に含まれており、骨粗しょう症予防、皮膚や頭髪の栄養などの健康効果が期待できます。

「シェルアッシュ ピュア」60粒(1粒450mg)、販売価格5,400円(税込) 標準服用量は1日2~8粒です。

〇水素入浴剤「HGバブルバスパウダー」
 水素入浴剤の評価は難しいのですが、価格と水素の発生量のバランスと入浴感から、私は「HGバブルバスパウダー」を使っています。
 化粧品の成分としても使われている水素化マグネシウムと水の化学反応により、浴槽内に水素が発生します。
 200Lの浴槽に、付属のスプーンで標準投与量(約25g)を溶かした場合、水素濃度が最低1.2ppmという高発生量で、投与後約3時間程度は十分な水素濃度を持続します。何よりもそのようなデータを公開していることが大切です。1回の入浴原価が約130円ですが、大きな浴槽の場合や、短時間の入浴で効果を得たい場合には、投与量を増やす必要があります。

「HGバブルバスパウダー」700g(約30回分) 販売価格3,850円(税込)

 ご希望の方は、当院受付まで。
 水素発生機器の購入を検討の方も、お気軽にご相談ください。

大丈夫じゃないコーヒブレイク

2023年09月02日 | 日記・エッセイ・コラム
 夜のコンビニエンスストアでのこと。
 買い物のついでにコーヒーが飲みたくなって、ドリップコーヒーを注文しました。
 レジでカップを受け取って、入り口の近くのコーヒーマシンに向かい、扉を開けてカップをセットします。どこのコンビニでも200円程度で淹れたてのコーヒーが飲めるようになって、とても感謝しているのですが、今夜は機械の調子が悪いのか、ボタンをいくら押しても抽出が始まりません。
 私の様子を見て、店員さんがやってきてくれて、鍵を挿して機械を開けました。初めて見る自動コーヒー抽出マシンの内部です。私も店員さんと一緒に覗き込みます。
 店員さんが中を確かめて、私に振り返り、「洗浄ランプがついてますが、大丈夫っすか?」
 大丈夫かと言われても、私は機械のことはわからないので、黙っていると、
「洗浄しなくちゃならないんで、大丈夫っすか?」と繰り返します。
「大丈夫かと言われても・・・」と私も困ってしまいました。
そこに、別の年嵩の店員さんがやってきて、
「ご返金しますんで、大丈夫ですか?」と私に220円を渡しました。
 私はどう返答すればいいのかわからず、お金を受け取り黙って店を出たのですが、それで大丈夫だったのかしら・・・。
 丈は長さの単位で1丈は10尺で約3メートル、丈夫というの立派な男子という意味で、堅牢堅固と言う意味で使われるようになり、それに大をつけた大丈夫は、危険の心配がなく安心、という意味になったのですが、今夜の大丈夫のやりとりは、日本語の将来を考えると大丈夫ではありませんね。

一筆啓上せしめ候41 尊王攘夷再び

2023年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
 1945年7月26日、米・英・中華民国は、日本国軍隊の即時無条件降伏を求め、その後の日本の体制を示したポツダム宣言が発表されますが、日本政府はポツダム宣言に対する対応を引き延ばしていました。ソ連が参戦を米英と密約していることを知らずに、日本はソ連の仲介を頼っていたこと、そして日本軍、特に陸軍が本土決戦を辞さず抗戦を唱えていたことがその要因とされています。かくして8月6日広島に原子爆弾が投下され、8日にはソ連が日ソ不可侵条約を破って宣戦布告、9日は長崎への原子爆弾投下、これで日本はポツダム宣言を受け入れ、降伏に向かうことになります。
 降伏に向けた会議では、やはり陸軍が抵抗しますが、8月14日、昭和天皇の裁可により無条件降伏が決まり、いわゆる玉音放送が録音され、8月15日正午にラジオを通じて天皇の肉声で国民に終戦が知らされます。8月14日夜、徹底抗戦を訴える畑中少佐ら近衛師団の若手将校は、森近衛師団長に決起を直訴しますが、受け入れられなかったため、畑中少佐は森師団長を殺害し、石原少佐が偽の師団長命令を出し、東部方面軍の一斉蜂起を期待し、近衛師団は皇居を武装占拠します。そして玉音放送の録音盤を奪還し、終戦の放送を阻止しようとしますが、録音盤を保管していた徳川侍従の機転で玉音盤の奪還は果たせず、応援に蜂起する部隊もなくこのクーデターは未遂に終わります。
 語るまでもない「日本の一番長い日」として小説や映画で有名なこの一夜の翌日の8月16日、「陸軍水戸教導航空師団」の抗戦派は本部のあった水戸徳川邸において武装蜂起し「敵に神国日本は渡せない」のビラを撒きながら、水戸市内を隊列行進していました。尊王攘夷の復活です。夜、航空本部から終戦受領書が届くも、これを受け入れない者たちは、先の近衛師団石原少佐の呼びかけに呼応し「暁部隊」を結成します。17日未明、林慶紀少尉は、師団の徹底抗戦を師団第二隊長田中少佐に直訴しますが、受け入れられず、その場で田中師団隊長を射殺します。
 暁部隊は17日夜、水戸駅において上野から来た常磐線を乗っ取り、方向転換させて上野に向かわせます。皇居に向かい夷狄から天皇を守り、放送局を占拠し国民に号令し、筑波に駐屯していた部隊には那須に疎開している皇太子昭仁殿下を奉じて上京するように指令を出すという壮大な計画を持って、近衛師団クーデターの失敗を知らない一行は首都を目指しました。これは全く具体的な計画のない行動で、東京の地理に疎く、放送局の場所もわからない始末。鶯谷で常磐線を降りた一行は、とりあえず上野公園の西郷隆盛像の前に集結し、東京美術学校を宿舎として、ここに水戸から岡島少佐率いる第二陣も到着します。
 ところが、時すでに遅し、近衛師団のクーデターも失敗に終わり、陸軍東部方面各部隊はすでに終戦で決していて、暁部隊は振り上げたこぶしにやりどころのない状態になっていたところに、近衛師団の石原少佐が部隊を解散し、水戸に帰るように説得にやってきます。石原少佐はクーデター失敗により憲兵隊に拘束されていましたが、岡島少佐が石原少佐の陸軍士官学区時代の教え子だったため、石原少佐が交渉役を任されたのです。自らの蜂起の失敗を伝え、敗戦を受け入れるようにという石原少佐の説得に、暁部隊の多くは撤収を受け入れるのですが、田中師団隊長を射殺した林少尉が、帰りかける石原少佐一行を射殺し、自らの腹部にも銃弾を撃ち込み、上野美術学校正門前は血の海となりました。水戸に隊を戻して、岡島少佐が自害して事件は終結しますが、この「水戸事件、あるいは上野事件」と呼ばれる「日本で一番長い日」の翌日からの事件は、今ではほとんど忘れ去られています。

一筆啓上せしめ候40 食い物の恨みの幕切れは

2023年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
 水戸光圀の「大日本史」の編纂を通じて尊王思想を醸成した水戸藩ですが、外圧が高まった幕末になると、尊王と攘夷の思想が結びつき、水戸藩は尊王思想の総本山となります。それをけん引したのが水戸藩で改革派と呼ばれる身分の低かった藩士たちです。一方、藩内には御三家として朝廷よりも幕府を優先する保守派が家老として藩政の中心にいました。9代藩主徳川斉昭は改革派の後ろ盾で家督を継いだため、尊王攘夷派が幅を利かせるようになります。斉昭の取り巻きの下級藩士たちは、斉昭の威光で天狗になっていると揶揄されます。
 尊王攘夷を旗印に大老井伊直弼の暗殺も成功させた改革派の水戸藩士ですが、斉昭の死後は藩内での形勢は逆転し、幕府との結びつきを強めた保守派が尊王攘夷派を弾圧します。それに対して尊王攘夷派は揶揄された呼び名「水戸天狗党」を自ら名乗り、筑波山に立て籠もります。水戸天狗党には水戸藩以外からも有象無象が集結して大軍団となってしまいます。藩の後ろ盾のない反乱軍で、軍資金のない天狗党は、水戸藩の威光と尊王攘夷の実現を建前に、北関東一円で農家や商人を脅して金品を強奪するようになります。また天狗党を騙って狼藉を働く偽天狗党も現れる始末。2012年にお隣の国で反日運動と称して「抗日有理、愛国無罪」を旗印に日系の企業や商店を破壊して略奪を行ったような状況だったわけです。因みに天狗党に参じていた庄内藩士清河八郎はそんな状況に嫌気がさし、筑波山を降り、新選組の前身となる浪士組を結成します。初代新選組組長の芹沢鴨も天狗党と袂を分かった水戸藩士です。
 見かねた幕府は追討軍を送り、栃木県から茨城県で、幕府・水戸藩保守派VS天狗党の戦争となります。幕府にとっては大阪夏の陣以来の本格的な戦争です。激戦の末幕府側が勝利するのですが、武田耕雲斎率いる天狗党の残党たちは奥久慈の大子に逃げ、そこから京都を目指します。京都では斉昭の息子である一橋慶喜が、禁裏御守衛総督として御所を守っていましたので、慶喜を頼り朝廷に尊王攘夷の志を伝えるべく遠路行軍したのですが、慶喜にしてみれば、公武合体の方針がすすみ、過激な尊王攘夷はすでに時代遅れになっていた上に、民衆に狼藉を働き、幕府に弓引いた反乱軍の天狗党をいかに水戸藩士といえども受け入れることはできず、天狗党追討の命令を出します。それを知った天狗党一行は越前で投降し、耕雲斎以下352名が処刑され、水戸天狗党の乱は終結します。
 水戸藩では乱が終結した後も、保守派による改革派に対する弾圧が続き、天狗党の子女を含む一族郎党を惨殺してしまいます。それに対して斬首を免れ小浜藩で謹慎していた耕雲斎の孫、武田金次郎は、慶喜が将軍になると許されて水戸に戻り、朝廷の威光により藩の実権を掌握し、仇敵の保守派に復讐を開始します。それにより水戸藩は再び混乱し、長きに渡る内部抗争の結果、藩政を担う人材は枯渇してしまいます。
 薩長対幕府、慶喜の大政奉還、そして朝廷を守っていた幕府側が朝敵となった戊辰戦争、そして明治の新体制が生まれるという、水戸藩の尊王攘夷に端を発した国を挙げての革命のクライマックスに、主役だった水戸藩はその舞台に立つことなく内乱に明け暮れた結果、明治新政府を担う人材も出せずに終わります。実は大戦争だったこの「水戸天狗党の乱」も、今日では日本史上の重大な事件として教えられることもほとんどなく、天狗党は新選組のように美化されて語り継がれることもなく、かろうじて納豆に名前を残すだけです。
 牛肉に始まり、納豆に終わった水戸ですが、明治維新から80年後、懲りずにまたやらかしてしまうのです。

一筆啓上せしめ候39 粘り強く食い物の話を続けます

2023年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
 幕末の日本に大きな影響を与えた水戸藩ですが、今、水戸と言えば納豆ぐらいしかおもい浮かばない方も多いとおもいます。
 もちろん茨城県は納豆の生産量は毎年全国1位であり、その歴史は古く、永保3年(1083年)、源義家が後三年の役で奥州に向かう途中、水戸の一盛長者の屋敷に泊まり、義家軍は盛大な酒宴で接待を受けるのですが、このときに馬の飼料である煮豆の残りが発酵して納豆ができ、これが納豆の起源とされています。この話には後日談があり、納豆のおかげで奥州を平定した義家は帰路でも一盛長者の屋敷に立ち寄り、前回に増しての豪華なもてなしを受けます。一盛長者の勢力の大きさに危険を感じた義家は、長者の屋敷に火を放ち、一族を全滅させてしまいます。その後に源義家の末弟・源義光の子孫が常陸国に入り、徳川以前の常陸の覇者、佐竹氏となります。
 納豆の起源にはこれ以外にも諸説あり、横手市では、奥州に入った源義家軍が、寛治元年(1087年)に難攻不落といわれた金沢柵に立て籠もる清原家衡・武衡(きよはらのたけひら)軍を兵糧攻めにした際、長期戦で義家側も食料難となり、農民に豆を煮て俵に詰めて供出させたところ、数日経ってこれが納豆になっていたというもので、横手市には「納豆発祥の地」の碑もあります。これに対抗して?水戸駅南口には「水戸の納豆記念碑」があります。立てた藁苞の隙間から黄金色の納豆の粒粒が顔を出しているという、ゲゲゲの鬼太郎の妖怪かとおもうような、一度見たら忘れられないオブジェです。他には、下って南北朝時代に、北朝の光厳天皇が、京都の常照寺で修行の際、村人から新藁の苞に煮豆を入たものを献上され、それが発酵したのが始まりとする京都・発祥説もあるのですが、そもそも納豆は日本オリジナルの食品ではなく、アフリカではバオバブの実の納豆が食されていますし、ミャンマーでは干し納豆が保存食としてつくられていたりと、世界中の土地土地で自然発生したものが作り続けられてきた発酵食品です。
 水戸での納豆の製造が盛んになるのは江戸時代で、産業としての納豆生産は、明治22年(1889年)、水戸市柵町において初代笹沼清左衛門が「天狗納豆」を創業したのが始まりです。天狗のお面のラベルで目立つ、藁苞に入った「天狗納豆」は水戸の土産物としても定着しています。
 この「天狗納豆」の由来になった「天狗」こそが、現在の水戸を、納豆ぐらいしかおもい浮かばない土地にしてしまった元凶です。

一筆啓上せしめ候38 食い物の恨みの前、後の徳川アポトーシス

2023年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム
 幕府に弓引き、クーデターを成功させた徳川御三家の1つの水戸藩ですが、尊王攘夷思想は斉昭の代から急に始まったわけではありません。
 1619年に徳川家康の十男の頼宣が水戸藩から和歌山藩に転封され、紀伊徳川家の祖となり、家康十一男の徳川頼房が藩主になって以降を「水戸徳川家」と呼ぶようになりますが、御三家と呼ばれるようになるのは三代将軍家光の代になってからです。家光には同母弟の徳川忠長がいて、家光より容貌も能力も優れていたために父親の将軍秀忠も母の江も忠長のほうをかわいがり、幕臣にも忠長に次期将軍を期待する空気もあったのですが、乳母の春日局の暗躍もあり、無事3代将軍に就任します。忠長は甲府藩主にして駿河・遠江を含む55万石を知行し「駿河大納言」と呼ばれ、紀伊徳川家、尾張徳川家に匹敵する家格でしたが、乱政を理由に、家光は忠長の全所領を没収し高崎に蟄居させ、寛永10年(1634)12月、28歳で自刃させます。
 その一方で家光は、7才下の異母弟の保科正之を会津藩主に据え、重用します。また24才下の従弟である徳川光圀をかわいがり、元服に際し家光の光を与えて光圀と改名させて、光圀の同母兄頼重を差し置いて水戸徳川家の世子とします。ここから水戸徳川家は家格としては中納言で、大納言の紀伊、尾張よりも劣るものの御三家の一つとされ、また水戸徳川家は参勤交代のない江戸定府と定められていたこともあり、水戸徳川家は天下の「副将軍」と呼ばれるようになるわけです。水戸黄門誕生です。黄門とは中納言の唐名です。
 水戸藩2代藩徳川光圀は、藩の事業として『大日本史』の編纂を開始します。大日本史の最大の特徴は中国の「史記」や「三国志」を倣い、天皇ごとに出来事を記述する紀伝体で編集されている点で、時代を追って記述される編年体の『日本書紀』以下六国史などの史書とは異なっています。この大日本史の編纂事業が水戸家の尊王の精神の根幹となり、水戸学というジャンルに発展していきます。なおこの大日本史編纂事業は光圀の構想から260年後の1906年(明治39年)に、10代藩主慶篤の孫の徳川圀順により完成します。
 さて幕府は家光の長男家綱が将軍となりますが後継男子がなく、次兄の綱重も亡くなっていたため、延宝8年(1680年)5月に家光四男の徳川綱吉が、光圀の後ろ盾で将軍となります。綱吉は光圀同様尊皇心が厚く公家の領地を増やし、忠臣蔵の発端になる勅使饗応役の浅野内匠頭を即日切腹させたも、綱吉の朝廷重視の姿勢の表れです。戦国が終わり武断政治から文治政治へ移行するという点で、綱吉と光圀は考えが一致していたのですが、「生類憐みの令」がエスカレートして市民の不満が高まったときには、家康直系の孫である「副将軍」光圀が綱吉へ「犬の毛皮」を献上して批判し、庶民は喝采を送ります。これが水戸黄門人気の原点ですが、テレビドラマでもお馴染みの、光圀が全国を旅して諸国の悪を正す「水戸黄門漫遊記」は、幕末の講談師らの創作です。光圀自身は江戸と領地の水戸以外を旅したことはなく、水戸藩士が大日本史編纂のために、長年諸国に出向いて調査を行っていたことが、黄門さまの全国行脚物語のベースになっているといわれています。この水戸黄門の世直し譚は、斉昭が徳川水戸家が政権を握る正当性を世間に広めるために演出したようです。
 さて綱吉も後継男子がなく、娘婿の徳川綱教(紀州徳川家)が候補に挙がりますが、光圀の反対により、6代将軍は早世した綱吉の兄綱重の子で甲府徳川家の綱豊(のちの徳川家宣)になります。光圀自身も水戸藩3代藩主を、高松藩の初代藩主となっていた兄、松平頼重の長男徳川綱條に譲ります。
 尊王、そして筋を通して幕府批判も厭わない水戸藩の姿勢は、2代藩主水戸光圀の時代に確立されていたのです。
 そして時代が下って、三代将軍家光の後ろ盾で御三家の一角となった水戸藩が、幕末にクーデターを起こし、斉昭の息子、15代将軍慶喜が幕府の幕引きを行う、そして保科正之を祖とする松平会津藩が最後まで幕府に殉じたというのは、徳川幕府のアポトーシスが実にうまく機能した結果だとおもいます。

一筆啓上せしめ候37 食い物の恨みを晴らす

2023年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
 嘉永6年(1853年)、ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀に来航した年に、12代将軍・徳川家慶が死去し四男家定が13代将軍となりますが、病弱の家定の後継として、井伊直弼ら南紀派は紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を推し、徳川斉昭ら一橋派は、斉昭の七男で一橋徳川家の一橋慶喜(徳川慶喜)を推し立てていました。皮肉なことに慶福は従三位「常陸介」を任官していました。南紀派は開国を主張し、一橋派は尊王攘夷を訴え対立が深まる中、翌安政5年(1858年)4月、井伊直弼が大老に就任すると、直弼は孝明天皇の勅許が得られないまま、同6月22日に米国総領事ハリスと、日本が極めて不利な不平等条約である「日米修好通商条約」を結んでしまいます。これに激怒した斉昭は、同年6月24日長男水戸藩主・徳川慶篤、甥の尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平慶永を伴って江戸城に登城し、直弼を詰問します。いわゆる「江戸城不時登城事件」です。勢いに乗って翌日にも不時登城を決行しようとする一橋派に対し、直弼は、将軍家定から慶福(後の家茂)を将軍継嗣にするという意向を発表させて防戦し、家定は8月13日に一橋派の諸大名の処分を発表してその翌日に亡くなり、家茂が14代将軍となります。直弼による攘夷派の弾圧、「安政の大獄」の始まりです。井伊直弼は吉田松陰ら尊王攘夷派の要人を次々と粛清していきます。
 この一連の動きに対して、孝明天皇が9月14日水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜します。「戊午の密勅」です。幕府は水戸藩に対して、この勅書の諸藩への回送取り止めを命じた上、勅書そのものの朝廷への返納を求めますが、水戸藩内では、返納に反対する改革派(尊皇攘夷派)と、幕府との関係を重視する保守派(諸生党)が対立していました。安政6年(1859年)9月23日、幕府は、密勅は天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、井伊直弼は密勅降下に関わったとして水戸藩家老を斬首や切腹させ、斉昭は水戸での永蟄居、藩主慶篤は謹慎処分となります。同年12月には幕府が朝廷に働きかけ、水戸藩に対し勅書を幕府に返納する事を命じ、水戸藩内でも返納論が主流となっていき、安政7年(1856年)2月に勅書返納が正式に決まると、返納反対派の中の過激派の一部は脱藩して江戸へ向かい、安政7年(1860年)3月24日、江戸城桜田門の前で、登城中の大老井伊直弼を襲撃するというクーデターに成功します。「桜田門外の変」です。
 次いで水戸浪士は文久2年(1862年)2月13日直弼の後を継いだ、開国派の老中、磐城平藩主安藤信正を坂下門外で襲い、こちらは負傷させただけで未遂に終わるのですが、幕府の権威は失墜します。大老の暗殺、次いで老中の暗殺未遂と、最近の我が国のような状況ですね。
 これにより文久2年(1862年)5月、勅命を受けて慶喜が将軍後見職に、松平春嶽(慶永)が政事総裁職に就任し、政権交代が実現し、いわゆる「文久の改革」が実行されていくのですが、これが徳川幕府の終わりの始まりで、主役の徳川斉昭は桜田門外の変の翌年、水戸城蟄居中に亡くなり、そして尊王攘夷の中心だった水戸藩は、わが国の歴史の大きな流れから逸れていってしまうのです。

一筆啓上せしめ候36 食い物の恨みの続き

2023年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム
 文政12年(1829年)兄の斉脩の死去により水戸徳川家の家督を継いだ斉昭ですが、斉脩の御簾中・峰姫が11代将軍徳川家斉の娘で、斉脩の間に子女がなかったため、その弟、家斉の第20子恒之丞(後の紀伊和歌山藩12代藩主徳川斉彊)を養子に迎え、斉昭の長女・賢姫と結婚させて水戸藩を継がせる計画がありました。幕府との関係を深めたい水戸藩上士層が画策していたのですが、斉脩の治世で冷遇された下士層は斉昭を担ぎ、激しく対立しました。斉脩の死後遺書が見つかり、斉昭が家督を相続することになりましたが、この対立の禍根は後々まで続くことになります。
 9代藩主となった斉昭は、藤田東湖や武田耕雲斎など、斉昭を擁立した軽輩の藩士たちと次々と藩政改革を実施していきます。藩校弘道館を設立して広く人材を登用し、領内の検地を行い税収を安定させ、西洋近代兵器による軍備を行い、幕府にも提言します。ところが、寺院の釣鐘や仏像、金属製の仏具を供出させ、海防のための大砲鋳造の原料にしたことが幕府の不評を買い、弘化元年(1844年)家督を嫡男の慶篤に譲り強制隠居させられます。
 ちょうどそのころ我が国には外圧が迫っていました。天保13年(1842年)アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことをきっかけに、恐れをなした幕府は異国船打払令を廃止していたため、海外から日本に続々と捕鯨船、商船、そして軍艦がやってくるようになります。
 斉昭は支持する下士層の復権運動の甲斐あって、弘化3年(1846年)に謹慎を解かれ、嘉永2年(1849年)に藩政関与が許されました。そして、嘉永6年(1853年)6月、ペリーの浦賀来航に際して、老中首座阿部正弘の要請により、斉昭は海防参与として幕政に関わります。斉昭はペリー暗殺も含む強硬な攘夷論を主張し、江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上、江戸の石川島で洋式軍艦「旭日丸」建造し幕府に差し出ました。水を得た魚のように張り切る斉昭の姿が目に浮かびます。安政2年(1855年)には那珂湊反射炉が完成、鉄製大砲を鋳造するのですが、安政2年10月2日(1855年11月11日)の大地震で、小石川の水戸藩邸は倒壊し、腹心の藤田東湖も死んでしまいます。安政4年(1857年)には阿部正弘も亡くなり、開国派の堀田正睦が老中首座となると、斉昭はますます攘夷論を展開し、開国を推進する彦根藩主井伊直弼と激しく対立します。今度は国の将来を賭けた抗争、牛肉の恨みどころではありません。さらに将軍徳川家定の継嗣を巡っても、斉昭は井伊直弼と対立することになります。