1945年7月26日、米・英・中華民国は、日本国軍隊の即時無条件降伏を求め、その後の日本の体制を示したポツダム宣言が発表されますが、日本政府はポツダム宣言に対する対応を引き延ばしていました。ソ連が参戦を米英と密約していることを知らずに、日本はソ連の仲介を頼っていたこと、そして日本軍、特に陸軍が本土決戦を辞さず抗戦を唱えていたことがその要因とされています。かくして8月6日広島に原子爆弾が投下され、8日にはソ連が日ソ不可侵条約を破って宣戦布告、9日は長崎への原子爆弾投下、これで日本はポツダム宣言を受け入れ、降伏に向かうことになります。
降伏に向けた会議では、やはり陸軍が抵抗しますが、8月14日、昭和天皇の裁可により無条件降伏が決まり、いわゆる玉音放送が録音され、8月15日正午にラジオを通じて天皇の肉声で国民に終戦が知らされます。8月14日夜、徹底抗戦を訴える畑中少佐ら近衛師団の若手将校は、森近衛師団長に決起を直訴しますが、受け入れられなかったため、畑中少佐は森師団長を殺害し、石原少佐が偽の師団長命令を出し、東部方面軍の一斉蜂起を期待し、近衛師団は皇居を武装占拠します。そして玉音放送の録音盤を奪還し、終戦の放送を阻止しようとしますが、録音盤を保管していた徳川侍従の機転で玉音盤の奪還は果たせず、応援に蜂起する部隊もなくこのクーデターは未遂に終わります。
語るまでもない「日本の一番長い日」として小説や映画で有名なこの一夜の翌日の8月16日、「陸軍水戸教導航空師団」の抗戦派は本部のあった水戸徳川邸において武装蜂起し「敵に神国日本は渡せない」のビラを撒きながら、水戸市内を隊列行進していました。尊王攘夷の復活です。夜、航空本部から終戦受領書が届くも、これを受け入れない者たちは、先の近衛師団石原少佐の呼びかけに呼応し「暁部隊」を結成します。17日未明、林慶紀少尉は、師団の徹底抗戦を師団第二隊長田中少佐に直訴しますが、受け入れられず、その場で田中師団隊長を射殺します。
暁部隊は17日夜、水戸駅において上野から来た常磐線を乗っ取り、方向転換させて上野に向かわせます。皇居に向かい夷狄から天皇を守り、放送局を占拠し国民に号令し、筑波に駐屯していた部隊には那須に疎開している皇太子昭仁殿下を奉じて上京するように指令を出すという壮大な計画を持って、近衛師団クーデターの失敗を知らない一行は首都を目指しました。これは全く具体的な計画のない行動で、東京の地理に疎く、放送局の場所もわからない始末。鶯谷で常磐線を降りた一行は、とりあえず上野公園の西郷隆盛像の前に集結し、東京美術学校を宿舎として、ここに水戸から岡島少佐率いる第二陣も到着します。
ところが、時すでに遅し、近衛師団のクーデターも失敗に終わり、陸軍東部方面各部隊はすでに終戦で決していて、暁部隊は振り上げたこぶしにやりどころのない状態になっていたところに、近衛師団の石原少佐が部隊を解散し、水戸に帰るように説得にやってきます。石原少佐はクーデター失敗により憲兵隊に拘束されていましたが、岡島少佐が石原少佐の陸軍士官学区時代の教え子だったため、石原少佐が交渉役を任されたのです。自らの蜂起の失敗を伝え、敗戦を受け入れるようにという石原少佐の説得に、暁部隊の多くは撤収を受け入れるのですが、田中師団隊長を射殺した林少尉が、帰りかける石原少佐一行を射殺し、自らの腹部にも銃弾を撃ち込み、上野美術学校正門前は血の海となりました。水戸に隊を戻して、岡島少佐が自害して事件は終結しますが、この「水戸事件、あるいは上野事件」と呼ばれる「日本で一番長い日」の翌日からの事件は、今ではほとんど忘れ去られています。
降伏に向けた会議では、やはり陸軍が抵抗しますが、8月14日、昭和天皇の裁可により無条件降伏が決まり、いわゆる玉音放送が録音され、8月15日正午にラジオを通じて天皇の肉声で国民に終戦が知らされます。8月14日夜、徹底抗戦を訴える畑中少佐ら近衛師団の若手将校は、森近衛師団長に決起を直訴しますが、受け入れられなかったため、畑中少佐は森師団長を殺害し、石原少佐が偽の師団長命令を出し、東部方面軍の一斉蜂起を期待し、近衛師団は皇居を武装占拠します。そして玉音放送の録音盤を奪還し、終戦の放送を阻止しようとしますが、録音盤を保管していた徳川侍従の機転で玉音盤の奪還は果たせず、応援に蜂起する部隊もなくこのクーデターは未遂に終わります。
語るまでもない「日本の一番長い日」として小説や映画で有名なこの一夜の翌日の8月16日、「陸軍水戸教導航空師団」の抗戦派は本部のあった水戸徳川邸において武装蜂起し「敵に神国日本は渡せない」のビラを撒きながら、水戸市内を隊列行進していました。尊王攘夷の復活です。夜、航空本部から終戦受領書が届くも、これを受け入れない者たちは、先の近衛師団石原少佐の呼びかけに呼応し「暁部隊」を結成します。17日未明、林慶紀少尉は、師団の徹底抗戦を師団第二隊長田中少佐に直訴しますが、受け入れられず、その場で田中師団隊長を射殺します。
暁部隊は17日夜、水戸駅において上野から来た常磐線を乗っ取り、方向転換させて上野に向かわせます。皇居に向かい夷狄から天皇を守り、放送局を占拠し国民に号令し、筑波に駐屯していた部隊には那須に疎開している皇太子昭仁殿下を奉じて上京するように指令を出すという壮大な計画を持って、近衛師団クーデターの失敗を知らない一行は首都を目指しました。これは全く具体的な計画のない行動で、東京の地理に疎く、放送局の場所もわからない始末。鶯谷で常磐線を降りた一行は、とりあえず上野公園の西郷隆盛像の前に集結し、東京美術学校を宿舎として、ここに水戸から岡島少佐率いる第二陣も到着します。
ところが、時すでに遅し、近衛師団のクーデターも失敗に終わり、陸軍東部方面各部隊はすでに終戦で決していて、暁部隊は振り上げたこぶしにやりどころのない状態になっていたところに、近衛師団の石原少佐が部隊を解散し、水戸に帰るように説得にやってきます。石原少佐はクーデター失敗により憲兵隊に拘束されていましたが、岡島少佐が石原少佐の陸軍士官学区時代の教え子だったため、石原少佐が交渉役を任されたのです。自らの蜂起の失敗を伝え、敗戦を受け入れるようにという石原少佐の説得に、暁部隊の多くは撤収を受け入れるのですが、田中師団隊長を射殺した林少尉が、帰りかける石原少佐一行を射殺し、自らの腹部にも銃弾を撃ち込み、上野美術学校正門前は血の海となりました。水戸に隊を戻して、岡島少佐が自害して事件は終結しますが、この「水戸事件、あるいは上野事件」と呼ばれる「日本で一番長い日」の翌日からの事件は、今ではほとんど忘れ去られています。