一筆啓上せしめ候41 尊王攘夷再び

2023年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
 1945年7月26日、米・英・中華民国は、日本国軍隊の即時無条件降伏を求め、その後の日本の体制を示したポツダム宣言が発表されますが、日本政府はポツダム宣言に対する対応を引き延ばしていました。ソ連が参戦を米英と密約していることを知らずに、日本はソ連の仲介を頼っていたこと、そして日本軍、特に陸軍が本土決戦を辞さず抗戦を唱えていたことがその要因とされています。かくして8月6日広島に原子爆弾が投下され、8日にはソ連が日ソ不可侵条約を破って宣戦布告、9日は長崎への原子爆弾投下、これで日本はポツダム宣言を受け入れ、降伏に向かうことになります。
 降伏に向けた会議では、やはり陸軍が抵抗しますが、8月14日、昭和天皇の裁可により無条件降伏が決まり、いわゆる玉音放送が録音され、8月15日正午にラジオを通じて天皇の肉声で国民に終戦が知らされます。8月14日夜、徹底抗戦を訴える畑中少佐ら近衛師団の若手将校は、森近衛師団長に決起を直訴しますが、受け入れられなかったため、畑中少佐は森師団長を殺害し、石原少佐が偽の師団長命令を出し、東部方面軍の一斉蜂起を期待し、近衛師団は皇居を武装占拠します。そして玉音放送の録音盤を奪還し、終戦の放送を阻止しようとしますが、録音盤を保管していた徳川侍従の機転で玉音盤の奪還は果たせず、応援に蜂起する部隊もなくこのクーデターは未遂に終わります。
 語るまでもない「日本の一番長い日」として小説や映画で有名なこの一夜の翌日の8月16日、「陸軍水戸教導航空師団」の抗戦派は本部のあった水戸徳川邸において武装蜂起し「敵に神国日本は渡せない」のビラを撒きながら、水戸市内を隊列行進していました。尊王攘夷の復活です。夜、航空本部から終戦受領書が届くも、これを受け入れない者たちは、先の近衛師団石原少佐の呼びかけに呼応し「暁部隊」を結成します。17日未明、林慶紀少尉は、師団の徹底抗戦を師団第二隊長田中少佐に直訴しますが、受け入れられず、その場で田中師団隊長を射殺します。
 暁部隊は17日夜、水戸駅において上野から来た常磐線を乗っ取り、方向転換させて上野に向かわせます。皇居に向かい夷狄から天皇を守り、放送局を占拠し国民に号令し、筑波に駐屯していた部隊には那須に疎開している皇太子昭仁殿下を奉じて上京するように指令を出すという壮大な計画を持って、近衛師団クーデターの失敗を知らない一行は首都を目指しました。これは全く具体的な計画のない行動で、東京の地理に疎く、放送局の場所もわからない始末。鶯谷で常磐線を降りた一行は、とりあえず上野公園の西郷隆盛像の前に集結し、東京美術学校を宿舎として、ここに水戸から岡島少佐率いる第二陣も到着します。
 ところが、時すでに遅し、近衛師団のクーデターも失敗に終わり、陸軍東部方面各部隊はすでに終戦で決していて、暁部隊は振り上げたこぶしにやりどころのない状態になっていたところに、近衛師団の石原少佐が部隊を解散し、水戸に帰るように説得にやってきます。石原少佐はクーデター失敗により憲兵隊に拘束されていましたが、岡島少佐が石原少佐の陸軍士官学区時代の教え子だったため、石原少佐が交渉役を任されたのです。自らの蜂起の失敗を伝え、敗戦を受け入れるようにという石原少佐の説得に、暁部隊の多くは撤収を受け入れるのですが、田中師団隊長を射殺した林少尉が、帰りかける石原少佐一行を射殺し、自らの腹部にも銃弾を撃ち込み、上野美術学校正門前は血の海となりました。水戸に隊を戻して、岡島少佐が自害して事件は終結しますが、この「水戸事件、あるいは上野事件」と呼ばれる「日本で一番長い日」の翌日からの事件は、今ではほとんど忘れ去られています。

一筆啓上せしめ候40 食い物の恨みの幕切れは

2023年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
 水戸光圀の「大日本史」の編纂を通じて尊王思想を醸成した水戸藩ですが、外圧が高まった幕末になると、尊王と攘夷の思想が結びつき、水戸藩は尊王思想の総本山となります。それをけん引したのが水戸藩で改革派と呼ばれる身分の低かった藩士たちです。一方、藩内には御三家として朝廷よりも幕府を優先する保守派が家老として藩政の中心にいました。9代藩主徳川斉昭は改革派の後ろ盾で家督を継いだため、尊王攘夷派が幅を利かせるようになります。斉昭の取り巻きの下級藩士たちは、斉昭の威光で天狗になっていると揶揄されます。
 尊王攘夷を旗印に大老井伊直弼の暗殺も成功させた改革派の水戸藩士ですが、斉昭の死後は藩内での形勢は逆転し、幕府との結びつきを強めた保守派が尊王攘夷派を弾圧します。それに対して尊王攘夷派は揶揄された呼び名「水戸天狗党」を自ら名乗り、筑波山に立て籠もります。水戸天狗党には水戸藩以外からも有象無象が集結して大軍団となってしまいます。藩の後ろ盾のない反乱軍で、軍資金のない天狗党は、水戸藩の威光と尊王攘夷の実現を建前に、北関東一円で農家や商人を脅して金品を強奪するようになります。また天狗党を騙って狼藉を働く偽天狗党も現れる始末。2012年にお隣の国で反日運動と称して「抗日有理、愛国無罪」を旗印に日系の企業や商店を破壊して略奪を行ったような状況だったわけです。因みに天狗党に参じていた庄内藩士清河八郎はそんな状況に嫌気がさし、筑波山を降り、新選組の前身となる浪士組を結成します。初代新選組組長の芹沢鴨も天狗党と袂を分かった水戸藩士です。
 見かねた幕府は追討軍を送り、栃木県から茨城県で、幕府・水戸藩保守派VS天狗党の戦争となります。幕府にとっては大阪夏の陣以来の本格的な戦争です。激戦の末幕府側が勝利するのですが、武田耕雲斎率いる天狗党の残党たちは奥久慈の大子に逃げ、そこから京都を目指します。京都では斉昭の息子である一橋慶喜が、禁裏御守衛総督として御所を守っていましたので、慶喜を頼り朝廷に尊王攘夷の志を伝えるべく遠路行軍したのですが、慶喜にしてみれば、公武合体の方針がすすみ、過激な尊王攘夷はすでに時代遅れになっていた上に、民衆に狼藉を働き、幕府に弓引いた反乱軍の天狗党をいかに水戸藩士といえども受け入れることはできず、天狗党追討の命令を出します。それを知った天狗党一行は越前で投降し、耕雲斎以下352名が処刑され、水戸天狗党の乱は終結します。
 水戸藩では乱が終結した後も、保守派による改革派に対する弾圧が続き、天狗党の子女を含む一族郎党を惨殺してしまいます。それに対して斬首を免れ小浜藩で謹慎していた耕雲斎の孫、武田金次郎は、慶喜が将軍になると許されて水戸に戻り、朝廷の威光により藩の実権を掌握し、仇敵の保守派に復讐を開始します。それにより水戸藩は再び混乱し、長きに渡る内部抗争の結果、藩政を担う人材は枯渇してしまいます。
 薩長対幕府、慶喜の大政奉還、そして朝廷を守っていた幕府側が朝敵となった戊辰戦争、そして明治の新体制が生まれるという、水戸藩の尊王攘夷に端を発した国を挙げての革命のクライマックスに、主役だった水戸藩はその舞台に立つことなく内乱に明け暮れた結果、明治新政府を担う人材も出せずに終わります。実は大戦争だったこの「水戸天狗党の乱」も、今日では日本史上の重大な事件として教えられることもほとんどなく、天狗党は新選組のように美化されて語り継がれることもなく、かろうじて納豆に名前を残すだけです。
 牛肉に始まり、納豆に終わった水戸ですが、明治維新から80年後、懲りずにまたやらかしてしまうのです。

一筆啓上せしめ候39 粘り強く食い物の話を続けます

2023年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
 幕末の日本に大きな影響を与えた水戸藩ですが、今、水戸と言えば納豆ぐらいしかおもい浮かばない方も多いとおもいます。
 もちろん茨城県は納豆の生産量は毎年全国1位であり、その歴史は古く、永保3年(1083年)、源義家が後三年の役で奥州に向かう途中、水戸の一盛長者の屋敷に泊まり、義家軍は盛大な酒宴で接待を受けるのですが、このときに馬の飼料である煮豆の残りが発酵して納豆ができ、これが納豆の起源とされています。この話には後日談があり、納豆のおかげで奥州を平定した義家は帰路でも一盛長者の屋敷に立ち寄り、前回に増しての豪華なもてなしを受けます。一盛長者の勢力の大きさに危険を感じた義家は、長者の屋敷に火を放ち、一族を全滅させてしまいます。その後に源義家の末弟・源義光の子孫が常陸国に入り、徳川以前の常陸の覇者、佐竹氏となります。
 納豆の起源にはこれ以外にも諸説あり、横手市では、奥州に入った源義家軍が、寛治元年(1087年)に難攻不落といわれた金沢柵に立て籠もる清原家衡・武衡(きよはらのたけひら)軍を兵糧攻めにした際、長期戦で義家側も食料難となり、農民に豆を煮て俵に詰めて供出させたところ、数日経ってこれが納豆になっていたというもので、横手市には「納豆発祥の地」の碑もあります。これに対抗して?水戸駅南口には「水戸の納豆記念碑」があります。立てた藁苞の隙間から黄金色の納豆の粒粒が顔を出しているという、ゲゲゲの鬼太郎の妖怪かとおもうような、一度見たら忘れられないオブジェです。他には、下って南北朝時代に、北朝の光厳天皇が、京都の常照寺で修行の際、村人から新藁の苞に煮豆を入たものを献上され、それが発酵したのが始まりとする京都・発祥説もあるのですが、そもそも納豆は日本オリジナルの食品ではなく、アフリカではバオバブの実の納豆が食されていますし、ミャンマーでは干し納豆が保存食としてつくられていたりと、世界中の土地土地で自然発生したものが作り続けられてきた発酵食品です。
 水戸での納豆の製造が盛んになるのは江戸時代で、産業としての納豆生産は、明治22年(1889年)、水戸市柵町において初代笹沼清左衛門が「天狗納豆」を創業したのが始まりです。天狗のお面のラベルで目立つ、藁苞に入った「天狗納豆」は水戸の土産物としても定着しています。
 この「天狗納豆」の由来になった「天狗」こそが、現在の水戸を、納豆ぐらいしかおもい浮かばない土地にしてしまった元凶です。

一筆啓上せしめ候38 食い物の恨みの前、後の徳川アポトーシス

2023年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム
 幕府に弓引き、クーデターを成功させた徳川御三家の1つの水戸藩ですが、尊王攘夷思想は斉昭の代から急に始まったわけではありません。
 1619年に徳川家康の十男の頼宣が水戸藩から和歌山藩に転封され、紀伊徳川家の祖となり、家康十一男の徳川頼房が藩主になって以降を「水戸徳川家」と呼ぶようになりますが、御三家と呼ばれるようになるのは三代将軍家光の代になってからです。家光には同母弟の徳川忠長がいて、家光より容貌も能力も優れていたために父親の将軍秀忠も母の江も忠長のほうをかわいがり、幕臣にも忠長に次期将軍を期待する空気もあったのですが、乳母の春日局の暗躍もあり、無事3代将軍に就任します。忠長は甲府藩主にして駿河・遠江を含む55万石を知行し「駿河大納言」と呼ばれ、紀伊徳川家、尾張徳川家に匹敵する家格でしたが、乱政を理由に、家光は忠長の全所領を没収し高崎に蟄居させ、寛永10年(1634)12月、28歳で自刃させます。
 その一方で家光は、7才下の異母弟の保科正之を会津藩主に据え、重用します。また24才下の従弟である徳川光圀をかわいがり、元服に際し家光の光を与えて光圀と改名させて、光圀の同母兄頼重を差し置いて水戸徳川家の世子とします。ここから水戸徳川家は家格としては中納言で、大納言の紀伊、尾張よりも劣るものの御三家の一つとされ、また水戸徳川家は参勤交代のない江戸定府と定められていたこともあり、水戸徳川家は天下の「副将軍」と呼ばれるようになるわけです。水戸黄門誕生です。黄門とは中納言の唐名です。
 水戸藩2代藩徳川光圀は、藩の事業として『大日本史』の編纂を開始します。大日本史の最大の特徴は中国の「史記」や「三国志」を倣い、天皇ごとに出来事を記述する紀伝体で編集されている点で、時代を追って記述される編年体の『日本書紀』以下六国史などの史書とは異なっています。この大日本史の編纂事業が水戸家の尊王の精神の根幹となり、水戸学というジャンルに発展していきます。なおこの大日本史編纂事業は光圀の構想から260年後の1906年(明治39年)に、10代藩主慶篤の孫の徳川圀順により完成します。
 さて幕府は家光の長男家綱が将軍となりますが後継男子がなく、次兄の綱重も亡くなっていたため、延宝8年(1680年)5月に家光四男の徳川綱吉が、光圀の後ろ盾で将軍となります。綱吉は光圀同様尊皇心が厚く公家の領地を増やし、忠臣蔵の発端になる勅使饗応役の浅野内匠頭を即日切腹させたも、綱吉の朝廷重視の姿勢の表れです。戦国が終わり武断政治から文治政治へ移行するという点で、綱吉と光圀は考えが一致していたのですが、「生類憐みの令」がエスカレートして市民の不満が高まったときには、家康直系の孫である「副将軍」光圀が綱吉へ「犬の毛皮」を献上して批判し、庶民は喝采を送ります。これが水戸黄門人気の原点ですが、テレビドラマでもお馴染みの、光圀が全国を旅して諸国の悪を正す「水戸黄門漫遊記」は、幕末の講談師らの創作です。光圀自身は江戸と領地の水戸以外を旅したことはなく、水戸藩士が大日本史編纂のために、長年諸国に出向いて調査を行っていたことが、黄門さまの全国行脚物語のベースになっているといわれています。この水戸黄門の世直し譚は、斉昭が徳川水戸家が政権を握る正当性を世間に広めるために演出したようです。
 さて綱吉も後継男子がなく、娘婿の徳川綱教(紀州徳川家)が候補に挙がりますが、光圀の反対により、6代将軍は早世した綱吉の兄綱重の子で甲府徳川家の綱豊(のちの徳川家宣)になります。光圀自身も水戸藩3代藩主を、高松藩の初代藩主となっていた兄、松平頼重の長男徳川綱條に譲ります。
 尊王、そして筋を通して幕府批判も厭わない水戸藩の姿勢は、2代藩主水戸光圀の時代に確立されていたのです。
 そして時代が下って、三代将軍家光の後ろ盾で御三家の一角となった水戸藩が、幕末にクーデターを起こし、斉昭の息子、15代将軍慶喜が幕府の幕引きを行う、そして保科正之を祖とする松平会津藩が最後まで幕府に殉じたというのは、徳川幕府のアポトーシスが実にうまく機能した結果だとおもいます。