一筆啓上せしめ候37 食い物の恨みを晴らす

2023年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
 嘉永6年(1853年)、ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀に来航した年に、12代将軍・徳川家慶が死去し四男家定が13代将軍となりますが、病弱の家定の後継として、井伊直弼ら南紀派は紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を推し、徳川斉昭ら一橋派は、斉昭の七男で一橋徳川家の一橋慶喜(徳川慶喜)を推し立てていました。皮肉なことに慶福は従三位「常陸介」を任官していました。南紀派は開国を主張し、一橋派は尊王攘夷を訴え対立が深まる中、翌安政5年(1858年)4月、井伊直弼が大老に就任すると、直弼は孝明天皇の勅許が得られないまま、同6月22日に米国総領事ハリスと、日本が極めて不利な不平等条約である「日米修好通商条約」を結んでしまいます。これに激怒した斉昭は、同年6月24日長男水戸藩主・徳川慶篤、甥の尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平慶永を伴って江戸城に登城し、直弼を詰問します。いわゆる「江戸城不時登城事件」です。勢いに乗って翌日にも不時登城を決行しようとする一橋派に対し、直弼は、将軍家定から慶福(後の家茂)を将軍継嗣にするという意向を発表させて防戦し、家定は8月13日に一橋派の諸大名の処分を発表してその翌日に亡くなり、家茂が14代将軍となります。直弼による攘夷派の弾圧、「安政の大獄」の始まりです。井伊直弼は吉田松陰ら尊王攘夷派の要人を次々と粛清していきます。
 この一連の動きに対して、孝明天皇が9月14日水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜します。「戊午の密勅」です。幕府は水戸藩に対して、この勅書の諸藩への回送取り止めを命じた上、勅書そのものの朝廷への返納を求めますが、水戸藩内では、返納に反対する改革派(尊皇攘夷派)と、幕府との関係を重視する保守派(諸生党)が対立していました。安政6年(1859年)9月23日、幕府は、密勅は天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、井伊直弼は密勅降下に関わったとして水戸藩家老を斬首や切腹させ、斉昭は水戸での永蟄居、藩主慶篤は謹慎処分となります。同年12月には幕府が朝廷に働きかけ、水戸藩に対し勅書を幕府に返納する事を命じ、水戸藩内でも返納論が主流となっていき、安政7年(1856年)2月に勅書返納が正式に決まると、返納反対派の中の過激派の一部は脱藩して江戸へ向かい、安政7年(1860年)3月24日、江戸城桜田門の前で、登城中の大老井伊直弼を襲撃するというクーデターに成功します。「桜田門外の変」です。
 次いで水戸浪士は文久2年(1862年)2月13日直弼の後を継いだ、開国派の老中、磐城平藩主安藤信正を坂下門外で襲い、こちらは負傷させただけで未遂に終わるのですが、幕府の権威は失墜します。大老の暗殺、次いで老中の暗殺未遂と、最近の我が国のような状況ですね。
 これにより文久2年(1862年)5月、勅命を受けて慶喜が将軍後見職に、松平春嶽(慶永)が政事総裁職に就任し、政権交代が実現し、いわゆる「文久の改革」が実行されていくのですが、これが徳川幕府の終わりの始まりで、主役の徳川斉昭は桜田門外の変の翌年、水戸城蟄居中に亡くなり、そして尊王攘夷の中心だった水戸藩は、わが国の歴史の大きな流れから逸れていってしまうのです。

一筆啓上せしめ候36 食い物の恨みの続き

2023年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム
 文政12年(1829年)兄の斉脩の死去により水戸徳川家の家督を継いだ斉昭ですが、斉脩の御簾中・峰姫が11代将軍徳川家斉の娘で、斉脩の間に子女がなかったため、その弟、家斉の第20子恒之丞(後の紀伊和歌山藩12代藩主徳川斉彊)を養子に迎え、斉昭の長女・賢姫と結婚させて水戸藩を継がせる計画がありました。幕府との関係を深めたい水戸藩上士層が画策していたのですが、斉脩の治世で冷遇された下士層は斉昭を担ぎ、激しく対立しました。斉脩の死後遺書が見つかり、斉昭が家督を相続することになりましたが、この対立の禍根は後々まで続くことになります。
 9代藩主となった斉昭は、藤田東湖や武田耕雲斎など、斉昭を擁立した軽輩の藩士たちと次々と藩政改革を実施していきます。藩校弘道館を設立して広く人材を登用し、領内の検地を行い税収を安定させ、西洋近代兵器による軍備を行い、幕府にも提言します。ところが、寺院の釣鐘や仏像、金属製の仏具を供出させ、海防のための大砲鋳造の原料にしたことが幕府の不評を買い、弘化元年(1844年)家督を嫡男の慶篤に譲り強制隠居させられます。
 ちょうどそのころ我が国には外圧が迫っていました。天保13年(1842年)アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことをきっかけに、恐れをなした幕府は異国船打払令を廃止していたため、海外から日本に続々と捕鯨船、商船、そして軍艦がやってくるようになります。
 斉昭は支持する下士層の復権運動の甲斐あって、弘化3年(1846年)に謹慎を解かれ、嘉永2年(1849年)に藩政関与が許されました。そして、嘉永6年(1853年)6月、ペリーの浦賀来航に際して、老中首座阿部正弘の要請により、斉昭は海防参与として幕政に関わります。斉昭はペリー暗殺も含む強硬な攘夷論を主張し、江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上、江戸の石川島で洋式軍艦「旭日丸」建造し幕府に差し出ました。水を得た魚のように張り切る斉昭の姿が目に浮かびます。安政2年(1855年)には那珂湊反射炉が完成、鉄製大砲を鋳造するのですが、安政2年10月2日(1855年11月11日)の大地震で、小石川の水戸藩邸は倒壊し、腹心の藤田東湖も死んでしまいます。安政4年(1857年)には阿部正弘も亡くなり、開国派の堀田正睦が老中首座となると、斉昭はますます攘夷論を展開し、開国を推進する彦根藩主井伊直弼と激しく対立します。今度は国の将来を賭けた抗争、牛肉の恨みどころではありません。さらに将軍徳川家定の継嗣を巡っても、斉昭は井伊直弼と対立することになります。

一筆啓上せしめ候35 食い物の恨み

2023年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
 水戸の繁華街、泉町にある牛鍋屋「開花亭」さんに伺いました。ニス塗の木を贅沢に使った店内は明治のハイカラ調で、窓にはステンドグラスが使われています。靴を脱いで座る掘りごたつ式のカウンターで、文明開化の象徴であるすき焼きを頂きます。和服に割烹着の女給さんのサービスで、地元の常陸牛のすき焼きに地酒が進みます。
 水戸と牛肉には深い因縁があり、牛肉が幕末の水戸藩の運命を決したのです。
 江戸時代はまだ牛肉食が忌避されていましたが、9代藩主の徳川斉昭は大の牛肉好きでした。当時は彦根藩だけが太鼓用の牛皮生産のために牛の屠畜が認められていて、彦根藩主の井伊家では、毎年太鼓の張り替え用の5枚の生皮と一緒に、牛肉を「薬」として幕府、将軍家に献上、御三家や老中などにも進呈していました。ところが井伊直弼が彦根藩の16代藩主になると、藩内での牛の屠畜を一切禁止してしまいました。井伊直弼は兄の死で家督を継ぐ前は、井伊家菩提寺の僧侶だったため殺生を嫌ったのです。彦根藩の牛肉がなくなり、困った斉昭は使いを出して、彦根藩領外で屠畜して自分にだけ送ってくれと何度も頼みますが、受け入れらません。幕府海防参与の斉昭と、後に大老となる井伊直弼との確執の原因は牛肉だったのです。
 斉昭は自衛手段?として、桜野牧(現・水戸市見川町)で黒牛の飼育を開始し、これが今食している茨城県産の優秀な黒毛和種「常陸牛」の生産に繋がっています。2022年度の黒毛和牛の生産量は茨城県が30,100頭、近江牛を擁する滋賀県は17,100頭で茨城県が勝り、斉昭は溜飲を下げているとおもいますが、松坂牛の三重県が26,500頭ですので、生産量だけが勝負ではありませんね。それはさておき大老井伊直弼と、直弼を陰で「愛牛先生」と呼んでいた徳川斉昭一派との対立はどんどん深まっていき、いわゆる安政の大獄で一派は直弼に粛清され、斉昭も水戸に永蟄居を命じられます。
 そしてこの牛肉を巡る争いは、天下揺るがす事件に発展していくのです。

一筆啓上せしめ候34 酒は呑め呑め、試飲ならば

2023年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム
 茨城県の2020年度の清酒製造量は2595㎘で、量的には全国の都道府県では27位なのですが、酒蔵の数は関東地方で一番多く、小さな醸造所が県内に54か所もあり、少量多種の日本酒造りが行われています。少量生産のため入手困難な銘柄も多いのですが、ここ水戸駅構内の「いばらき地酒バー水戸」では県内の醸造組合35蔵の日本酒が、コイン式サーバーで有料試飲ができるのです。
 受付でコインを買って、酒器をもらって試飲開始です。コインは1枚300円、1枚でサーバーからお猪口1杯分30㏄が注がれます。この試飲という言葉で酒呑みのハードルがうんと下がります。私が勝手にそう言っているのではなく、お店が有料「試飲」とおっしゃっているので、悪しからず。
 まずは、これまで通ってきた久慈川水系の銘酒、常陸大宮市の根本酒造「久慈の山」。茨城県の酒蔵はそれぞれ久慈川水系、那珂川水系、筑波山水系、鬼怒川水系、利根川水系と豊かな5つの水系の恩恵を受けて、酒造りをしています。
 次は笠間市の須藤本店「郷乃誉」。須藤本店は純米大吟醸の生酒のみを造っている酒蔵で、日本で初めて生酒を販売しました。日本酒は糖度が高いため腐りやすいので、醸造直後と、出荷の直前の2回火入れといって、約65℃(ほとんどの微生物が死滅する温度)に加熱殺菌するが一般的なのですが、加熱は酒の風味や香りに影響してしまいます。腐敗のリスクの高い生酒は、温度管理が徹底した流通経路にあるお店でしか吞めません。
 茨城県石岡市の廣瀬商店の「白菊 ひたち錦」は、茨城県オリジナルの酒造好適米「ひたち錦」を使っています。酒米は飯米に比べて粒が大きい(でんぷんが多くアルコール発酵に向いている)のが特徴ですが、そのため稲穂が重くなり倒れやすくなります。また収穫時期が遅いため、台風などの天候被害にあうリスクも高まります。稲の背丈が低い方が倒れにくくなりますが、穂が地面に近くなるために背が低いと病気になりやすくなります。茨城県農業研究所で開発された「ひたち錦」は長稈ですが、稈が太く強いので倒れにくく、病気への抵抗性も高く、収穫量も多い酒米です。
 花酵母で有名な筑西市来福酒蔵の「来福」。ナデシコ・ツルバラ・日々草・ベゴニアなどの花から分離した清酒酵母を使っているため醸造が難しく、入手が困難です。
 酵母と言えば、絶対に忘れてはいけないのは「小川酵母(きょうかい10号酵母)」発祥の酒蔵、水戸市の明利酒類株式会社です。明治時代に安定した日本酒造り(による酒税収入の安定)を目指して、国立醸造試験所が全国の蔵を周り優良な酵母を選抜し、培養して全国の酒蔵に配る事業を始めました。選抜された時間の順に番号が振られ、明利酒類の前身である、安政年間創業の加藤酒造店の蔵から分離培養されたのが、きょうかい10号酵母です。10号酵母は茨城県だけでなく、東日本を中心に多くの酒蔵で採用されています。そんな明利酒類の代表銘柄「副将軍」を頂きます。
 ・・・と試飲解説はいくらでも書いていけるのですが、最後に商売柄、日本酒と健康について。
 これまでも、赤ワインの健康効果(高脂肪食のフランス人に心臓病が少ないという、いわゆるフレンチパラドックスなど)や、ビールのホップに認知症予防効果があるなど、お酒が健康に良いという研究発表を日夜目を皿のようにして探し出し、見つけ次第ご紹介してきました。日本酒に関しては、まず美肌、美白効果が言われています。これは杜氏さんの手が綺麗、ということから研究がはじめられ、こうじ酸が皮膚によいということがわかり、酒粕クリームやパックなどが商品化されています。残念ながら飲んで内側からの効果、ではなく皮膚からの吸収によるものです。
 また、日本酒は他の酒類にくらべてアミノ酸が豊富であることが特徴です。生物の身体は摂取したアミノ酸から合成されたたんぱく質で出来ているので、我々が生きていくにはアミノ酸を外から取り入れることが必須です。米の外側部分にはたんぱく質が多く含まれているので、精米歩合の低いお米を原料にすると、アミノ酸の多い酒になります。アミノ酸の多い酒はコクがありまろやかですが、多すぎると雑味、臭みの多い酒になってしまいます。大吟醸など高級なお酒は精米歩合の高い米を使っていますので、アミノ酸含有量は少ない傾向にあります。というわけで、精米歩合の少ない(比較的安価な)純米酒をたくさん呑むのが身体によい、という何ともうれしい結論になります。日本酒の呑めない方もご安心ください。玄米ご飯をほんの少し食べていただくだけで、純米酒を大量試飲するよりも多くの米由来アミノ酸を摂取できます。
 日本酒は段仕込みといって、酵母の増殖度合いをみながら蒸米を投入していく手間のかかる醸造法をとるため、ワインやビールなどの他の醸造酒よりも高いアルコール度数を得ることができます。しかし原料の米のでんぷんがすべてアルコールに発酵するわけではありませんので、出来上がった日本酒にはでんぷん由来の糖が残っているため、他のお酒に比べて高カロリーです。
 そんな高アルコールで高カロリーの日本酒の健康へメリットは、酩酊で気持ちがリラックスして、活性酸素の発生が減る「抗酸化作用」に尽きるとおもいます。
 木内酒造の「常陸野ネストビール」で「水素カプセル」を飲み下し、抗酸化作用の上積みです。これから水戸の街で「試飲」の成果を発揮したいとおもいます。

一筆啓上せしめ候33 何度も言うよ 濁らず言うよ 迷わずに SAY IBARAKI

2023年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム
 薄暮の中、上菅谷駅を出発します。この駅では多くの乗客がありました。上菅谷駅から水戸駅までは、水郡線で一番輸送密度の高い区間です。棒線駅の「中菅谷駅」の次は、真新しい跨線橋が目立つ2面2線の「下菅谷駅」に到着します。ここで水戸からの列車と入れ替えですが、下り列車には立っている乗客もたくさんいるのが車窓から見えました。頼もしい限りです。
 次の「後台駅」までが那珂市内で、そこから先の「常陸津田駅」、「常陸青柳駅」はひたちなか市内の駅です。小さな棒線駅ながら乗降客があり、水戸近郊の足としての存在感を感じます。
 常陸青柳駅を出ると、ほどなくコンクリートで守られた高規格路線となり、そのまま那珂川を渡る橋梁に続き、橋を渡ると水戸市に入ります。複線化計画があったのか、橋から先には使われていない線路が並行に走り、それを眺めていると常磐線の線路たちも現れて、たくさんの線路が束になって、列車は水戸駅に到着します。
 水郡線の旅もこれでおしまい、列車からホームに降りると日はとっぷりと暮れています。
 水戸駅の改札を出ると、一目散に向かったのは茨城県がJR水戸駅に設置している「いばらき地酒バー水戸」です。ここでは茨城県内の酒蔵のほとんどの日本酒がお猪口一杯から有料試飲でき、買うこともできます。ちなみに茨城の読みはイバラキ、濁らずに、キです。イバラギ県と濁る人があまりに多いので、面と向かっていちいち訂正する気持ちはすでに失せていますが、テレビの出演者にいばらぎ、いばらぎと連呼されると、本当に悲しくなります。大阪の茨木市も濁らないので、日本にはいばらぎと濁る地名はないのです。ワープロソフトも、「I・BA・RA・GI」では「茨城」と変換されないようにしてほしいものです。何度でもいいます、茨城はいばらきです。