2面ホームの磐城石川駅を出発した列車は里山の中を走り、棒線駅の里白石駅に到着。出発するとすぐ気動車はエンジン音を高めて勾配のある線路を上っていきます。次の磐城浅川駅は水郡線の中で最も標高の高い場所に位置する駅です。ここ石川郡浅川町は、医学者吉田富蔵の生まれた町です。福島県の医学者といえば1876年猪苗代町出身、千円札にもなった野口英世が有名ですが、1903年浅川町出身で、1929年に発がん物質の経口投与でラットに人工的に肝がんを発生させることに成功した吉田富蔵先生を忘れてはいけません。町には吉田富蔵記念館もあります。今日のがん研究に直接つながる吉田先生の事績に手を合わせながら、磐城浅川駅を出発します。
八溝山地の山並みを遠く正面にみながら、田園風景の中を列車は進み、磐城棚倉駅に到着します。
磐城棚倉駅は広い敷地に島式2面ホームがあり、少し離れた駅舎とホームを跨線橋が結んでいます。この跨線橋の下は、かつて磐城棚倉と白河を結んでいた白棚線のホームでした。棚倉藩の城下町で東白川郡の中心地の棚倉町は、近隣に炭鉱もあることから、1916年に悲願であった鉄道開通を成し遂げ、それが白棚線になりました。ちなみに町名はタナグラですが、駅名は濁らずイワキタナクラ、路線名はハクホウセンです。1932年に水郡線が磐城棚倉駅に繋がると流動は白棚線から水郡線に奪われていき、1944年に戦時下の「不要不急線」として白棚線は休止され、レールは撤去されて武器や弾薬になって消えてしまいました。不要不急という言葉が使われる時代には気を付けなくてはいけませんね。戦後鉄路の復活やレールバスでの再開の運動もあったのですが、鉄道の再敷設は行われず、1957年に線路跡地を舗装した専用道を走るバス路線になりました。元祖BRT(Bus Rapid Transit)です!現在鉄道廃止後の交通手段として、線路をバス専用道とするBRTが注目されており、すでに気仙沼線で運用が始まりましたし、今年8月には九州の日田彦山線が開業します。現在白棚線のバス専用道は一部を残すのみで、多くの区間で一般道を走っています。専用道区間は元々が単線線路なので道路幅が狭くバスのすれ違いができません。路面は整備の遅れで荒れていてバスは揺れが大きく、また幹線道路から外れているため利便性も低いことから専用道は徐々に廃止されていく予定とのこと。このバス路線が「白棚線」と呼ばれ続けていることが救いですが、BRTの未来も明るくはないことを白棚線の歴史が教えてくれます。
さて、人口13,000人の小さな棚倉町ですが、古い歴史のある城下町です。坂上田村麻呂所縁の神社や空海が開いた寺院などもあり、戦国期までは陸奥国の伊達氏と常陸国の佐竹氏が対峙し幾度も戦場になりましたが、江戸期に入り棚倉藩となり、丹羽長重の棚倉城築城から明治4年(1871年)まで246年続きました。
そんな棚倉町を揺るがす事件が1977年10月に起きました。当時第二のビートルズと言われ、人気絶頂だったイギリスのアイドルロックバンド「ベイシティ・ローラーズ」がやってきたのです!ローラーズは札幌、名古屋、そして日本武道館で2夜のコンサートの翌日に、郡山で公演を予定したのですが、風紀上の理由から郡山市が市民会館の貸し出しを拒否したため、急遽棚倉町総合体育館に会場が変更されました。まだロックは不良の風潮が残っていた時代、特にローラーズは熱狂的な女性ファンが多く、世界中のコンサート会場で黄色い声を上げていたのですが、当時の棚倉町町長はよく知らずにOKしてしまったとのこと。コンサート当日は県内外から、ローラーズのトレードマークであるタータンチェックに身を包んだティーンが棚倉町に押し寄せ、大量の警備員、補導員も投入されました。33人の失神者と76人の補導者を出して、コンサートは無事?終了し、タータンハリケーンは棚倉町から去っていったとのことです。その後ローラーズの人気はあっという間に鎮静化し、わが国では黄色い声の向けられる先はジャニーズ事務所に移っていきます。今、若い世代でベイシティ・ローラーズを知っている人はほとんどいませんが、有名なあの曲を口ずさむとたいてい、聞いたことある!と言ってくれます。昨年ローラーズのリードボーカルのレスリーマッコーエンさんがひっそりと亡くなりました。レスリーも晩年マネージャーからの性被害を告白していました。
八溝山地の山並みを遠く正面にみながら、田園風景の中を列車は進み、磐城棚倉駅に到着します。
磐城棚倉駅は広い敷地に島式2面ホームがあり、少し離れた駅舎とホームを跨線橋が結んでいます。この跨線橋の下は、かつて磐城棚倉と白河を結んでいた白棚線のホームでした。棚倉藩の城下町で東白川郡の中心地の棚倉町は、近隣に炭鉱もあることから、1916年に悲願であった鉄道開通を成し遂げ、それが白棚線になりました。ちなみに町名はタナグラですが、駅名は濁らずイワキタナクラ、路線名はハクホウセンです。1932年に水郡線が磐城棚倉駅に繋がると流動は白棚線から水郡線に奪われていき、1944年に戦時下の「不要不急線」として白棚線は休止され、レールは撤去されて武器や弾薬になって消えてしまいました。不要不急という言葉が使われる時代には気を付けなくてはいけませんね。戦後鉄路の復活やレールバスでの再開の運動もあったのですが、鉄道の再敷設は行われず、1957年に線路跡地を舗装した専用道を走るバス路線になりました。元祖BRT(Bus Rapid Transit)です!現在鉄道廃止後の交通手段として、線路をバス専用道とするBRTが注目されており、すでに気仙沼線で運用が始まりましたし、今年8月には九州の日田彦山線が開業します。現在白棚線のバス専用道は一部を残すのみで、多くの区間で一般道を走っています。専用道区間は元々が単線線路なので道路幅が狭くバスのすれ違いができません。路面は整備の遅れで荒れていてバスは揺れが大きく、また幹線道路から外れているため利便性も低いことから専用道は徐々に廃止されていく予定とのこと。このバス路線が「白棚線」と呼ばれ続けていることが救いですが、BRTの未来も明るくはないことを白棚線の歴史が教えてくれます。
さて、人口13,000人の小さな棚倉町ですが、古い歴史のある城下町です。坂上田村麻呂所縁の神社や空海が開いた寺院などもあり、戦国期までは陸奥国の伊達氏と常陸国の佐竹氏が対峙し幾度も戦場になりましたが、江戸期に入り棚倉藩となり、丹羽長重の棚倉城築城から明治4年(1871年)まで246年続きました。
そんな棚倉町を揺るがす事件が1977年10月に起きました。当時第二のビートルズと言われ、人気絶頂だったイギリスのアイドルロックバンド「ベイシティ・ローラーズ」がやってきたのです!ローラーズは札幌、名古屋、そして日本武道館で2夜のコンサートの翌日に、郡山で公演を予定したのですが、風紀上の理由から郡山市が市民会館の貸し出しを拒否したため、急遽棚倉町総合体育館に会場が変更されました。まだロックは不良の風潮が残っていた時代、特にローラーズは熱狂的な女性ファンが多く、世界中のコンサート会場で黄色い声を上げていたのですが、当時の棚倉町町長はよく知らずにOKしてしまったとのこと。コンサート当日は県内外から、ローラーズのトレードマークであるタータンチェックに身を包んだティーンが棚倉町に押し寄せ、大量の警備員、補導員も投入されました。33人の失神者と76人の補導者を出して、コンサートは無事?終了し、タータンハリケーンは棚倉町から去っていったとのことです。その後ローラーズの人気はあっという間に鎮静化し、わが国では黄色い声の向けられる先はジャニーズ事務所に移っていきます。今、若い世代でベイシティ・ローラーズを知っている人はほとんどいませんが、有名なあの曲を口ずさむとたいてい、聞いたことある!と言ってくれます。昨年ローラーズのリードボーカルのレスリーマッコーエンさんがひっそりと亡くなりました。レスリーも晩年マネージャーからの性被害を告白していました。