黒川橋梁を挟んで、栃木県側の駅は、黒磯→黒田原→豊原、福島県側に渡ると白坂→新白河(→白河)、黒川も栃木県の河川なので、なぜか栃木は黒組、福島は白組です。
このエリアの地名は「那須」、なすの色からチームカラーを黒にしたのか?でも海だったはずはないのになぜ「黒磯」?そうか白河の向こうを張って、黒い磯か!と膝を叩いたのですが、1185年に黒館五郎、磯勝光らが黒磯を開いたと那須塩原市のホームぺージに書かれており、なんだかバドミントンのコンビみたいな安易なネーミングでがっかりしました。これでは歌枕にもなっている白河とは勝負になりません。
かの有名な屋島の戦いで、源義経に参じた「那須与一」が、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落としたのが同じ1185年です。このパフォーマンスで名を上げた与一は十一男ながら那須氏の家督を継ぎ、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされているので、もしかしたら黒磯は屋島の戦いの報奨金で開拓されたのかもしれません。
ともあれ、今までのところ人権団体や米国大使のデモや抗議もなく、黒磯と白河の間には平和に黒川が流れています。
白河夜船ならぬ黒川昼電で、心もとなき御託を重ぬるままに、白河の関にかかりて、旅心定まりぬ。
このエリアの地名は「那須」、なすの色からチームカラーを黒にしたのか?でも海だったはずはないのになぜ「黒磯」?そうか白河の向こうを張って、黒い磯か!と膝を叩いたのですが、1185年に黒館五郎、磯勝光らが黒磯を開いたと那須塩原市のホームぺージに書かれており、なんだかバドミントンのコンビみたいな安易なネーミングでがっかりしました。これでは歌枕にもなっている白河とは勝負になりません。
かの有名な屋島の戦いで、源義経に参じた「那須与一」が、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落としたのが同じ1185年です。このパフォーマンスで名を上げた与一は十一男ながら那須氏の家督を継ぎ、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされているので、もしかしたら黒磯は屋島の戦いの報奨金で開拓されたのかもしれません。
ともあれ、今までのところ人権団体や米国大使のデモや抗議もなく、黒磯と白河の間には平和に黒川が流れています。
白河夜船ならぬ黒川昼電で、心もとなき御託を重ぬるままに、白河の関にかかりて、旅心定まりぬ。