新幹線は栃木福島県境の黒川に差し掛かります。新幹線の那須塩原から新白河間の約10分はほとんどトンネルですが、黒川を渡る第二黒川橋梁の手前で一瞬地上に出て、数秒間ですが進行方向左側の車窓から黒川を見ることができます。右側は壁です。関東と東北、かつての大和の国と蝦夷地の境界というには、黒川は控えめな佇まいです。在来線の黒川橋梁は上路トラス(鉄骨の梁が下側から橋桁を支える構造)のため、梁に邪魔されることなく那須連峰をバックに橋上を走る列車を眺めることができ、撮り鉄には有名な撮影スポットです。
5世紀ごろにヤマト政権が北方の蝦夷に対抗するために建立したという文献記録の残っている白河の関ですが、実在の場所ははっきりしておらず、寛政の改革を行った老中、白河藩主松平定信が1800年に白河神社の建つ場所を白河の関跡と定め、その後の調査でも関の遺構・遺物、遺跡らしきものがみつかっため、ここを国史跡の「白河関跡」としたようです。東北新幹線の第二黒川橋梁から15キロほど東側です。
朝廷支配が東北地方まで及んだことで、軍事的な拠点としての意義を失った白河の関ですが、平安時代には歌枕として都人の憧景の地となり、白河の関を詠み込んだ和歌がたくさん残されています。白河の名称は付近を流れる白川に由来すると言われていますが、福島県に「白川」という名前の川は残っていません。「白河関跡」の近くに細い川が流れていて、これを昔白川と呼んでいたのかもしれませんが、それにしても川ではなく大河を意味する河の字を当てたのは、都人の誇大妄想だったような気がします。京都にも白河という地名があり、白河法皇、後白河法皇など天皇の諡号にもなっていますが、洛外にある天皇の隠居場所、高級リゾート地を憧景の地白河に見立てたのでは?と私はおもっています。明治になると東北地方は戊辰戦争に敗れた「賊地」として蔑視され、薩長土肥などの官軍側からは「白河以北一山百文」と言われました。仙台に本社のある東北の地方新聞「河北新報」の社名はこの「白河以北」から。地下鉄半蔵門線の駅「清澄白河」のある江東区白河は、町内の霊巌寺に松平定信の墓所があることが町名の由来です。
それにしても、栃木福島県境のこの川が「黒川」というのは腑に落ちません。白河の清きに魚も棲みかねて黒川になったのでしょうか?
5世紀ごろにヤマト政権が北方の蝦夷に対抗するために建立したという文献記録の残っている白河の関ですが、実在の場所ははっきりしておらず、寛政の改革を行った老中、白河藩主松平定信が1800年に白河神社の建つ場所を白河の関跡と定め、その後の調査でも関の遺構・遺物、遺跡らしきものがみつかっため、ここを国史跡の「白河関跡」としたようです。東北新幹線の第二黒川橋梁から15キロほど東側です。
朝廷支配が東北地方まで及んだことで、軍事的な拠点としての意義を失った白河の関ですが、平安時代には歌枕として都人の憧景の地となり、白河の関を詠み込んだ和歌がたくさん残されています。白河の名称は付近を流れる白川に由来すると言われていますが、福島県に「白川」という名前の川は残っていません。「白河関跡」の近くに細い川が流れていて、これを昔白川と呼んでいたのかもしれませんが、それにしても川ではなく大河を意味する河の字を当てたのは、都人の誇大妄想だったような気がします。京都にも白河という地名があり、白河法皇、後白河法皇など天皇の諡号にもなっていますが、洛外にある天皇の隠居場所、高級リゾート地を憧景の地白河に見立てたのでは?と私はおもっています。明治になると東北地方は戊辰戦争に敗れた「賊地」として蔑視され、薩長土肥などの官軍側からは「白河以北一山百文」と言われました。仙台に本社のある東北の地方新聞「河北新報」の社名はこの「白河以北」から。地下鉄半蔵門線の駅「清澄白河」のある江東区白河は、町内の霊巌寺に松平定信の墓所があることが町名の由来です。
それにしても、栃木福島県境のこの川が「黒川」というのは腑に落ちません。白河の清きに魚も棲みかねて黒川になったのでしょうか?