熱あるカタは爪を隠さないで

2022年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム
 新型コロナ診療が始まってから、患者さんの指先を拝見することが多くなっています。
 指先にパルスオキシメーターを付けて動脈血酸素飽和度を測定して、呼吸状態を確認しているからなのですが、爪にネイルアートを施していると、メーターがうまく装着できず、測定に難儀します。すべての指の爪にこんもりとお飾りが盛られていて、お手上げ、ということもしばしばあります。
 マスク時代で、お顔の化粧に対するエネルギーがすべて指先に向かってしまうのか、この指でどうやって生活しているのか心配になるような方もいらっしゃいます。
 服装や化粧、ヘアスタイルが自分には見えないの対し、爪は常に自分に見えているので、エスカレートしやすいのかもしれません。
 指は顔や髪の毛と違って作業の道具、最も鋭敏なセンサーですから、それに手を加えることは機能に影響を及ぼします。少なくとも医療現場や飲食業では、ネイルアートはご法度だとおもっています。ネイルアートは指輪のようにすぐに外せるわけではないので、そのままの状態で作業しなくてなりません。何かが引っかかったり、それ以上に何よりも不衛生。デコレーションの隙間にどれだけ細菌が増殖してしているか想像すると、そんな指で調理されたものを食べる気にはなれない。
 お一人暮らしでご自分の作ったものを他人に食べさせる機会がないとか、炊事はすべて他の人の任せられるというのであれば構いませんが、もし他人に自分の指で触ったものを食べさせる機会があるなら、そのお爪はやめた方がいい。これから気温も湿度も上がって食中毒が増えます。ネイルアートは自分の指を使って働く必要が全くない、自分のお尻も召使に拭いてもらえる貴族の文化です。
 パルスオキシメーターが使えないぐらいは大したことではありませんが、ネイルアートに使う薬剤やそれを外すときの溶剤の毒性や、爪を削ったりする際の感染などは、健康に直接悪影響を及ぼします。
 ネイルアートの重さが、指先の筋肉のトレーニングに効果があるのかもしれませんが、ネイル装着に何時間も座って指先を眺めているよりも、鏡で全身を見てスクワットするほうが、健康にも美容にも優先課題なのでは?とおもわれる方も少なからずいらっしゃいますよ。
 

私はカツ活しています

2022年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
 予防接種会場で、
「ニンカツの方は大丈夫でしょうか?」と質問され、返答に窮してしまいました。
日常生活は体調次第で、特に制限はございません
 ニンカツという言葉が耳から離れず、しどろもどろな答えになってしまいました。
 ~活、という言葉が氾濫して、すでに定着しているものもあります。
 おそらく、就職活動が言いにくいので、「就活」と略されたのが始まりだとおもうのですが、いまや婚活、上記の妊活、就活をもじった「終活」、そして何を短縮したのかわからない「パパ活」なんても現れました。
 「~活」が滑稽なのは、「就活」の定着を契機に、~の部分があからさまだとちょっと言いにくい事柄を、活動をつけることで一般化し、それを短縮してあからさまさを緩和して、雑誌の記事などで面白おかしく使ったことから広まったからです。
 元々~活動というのは、火山活動のように、傍から観た状態の表現であって、自分が~活動をしている、というのは違和感があります。私は芸能活動をしている、救助活動をしているなど、その活動が特殊な場合なら通用するかもしれませんが、私は医療活動をしている、とは普通は言わない。それが「~活」の氾濫で、私は婚活中です、妊活中です、といった会話が無防備になされるようになってしまっていて、二重におかしいわけです。
 昔からある~活は、生活、これは短縮形ではなく漢語、映画会社の日活は日本活動写真、ホームルームの学活は学級活動の短縮で今の~活の元祖ですが、学活なんて言葉は今も使ってるのかしら?、このぐらいしかおもいつかないぐらい~活は一般的ではなかった。
 現代の「~活」の急速な普及の背景には、あのカツの存在も一役買っているとおもいます。
 カツは西洋料理のcutletがカツレツになり、カツと呼ばれるようになった料理ですが、代表選手のトンカツは語呂が良く、日本人では知らない人がいないぐらい一般化した料理です。「~活」の代表選手の「婚活」「妊活」も語呂だけでなく、中身もトンカツの衣に包まれて言いやすくなっているのではないかしら?
 ちなみにトンカツなど、肉類を油で揚げたものがカツで、魚類や野菜はフライになるようですが、串に刺さっていれば、野菜でも魚でも串カツになるようです。フライはfryで、野球のフライも上げるものですが、こちらはflyです。

バカ田大学はバカボンのパパの母校でイイノダ

2022年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム
 今活躍中のスポーツ選手の卒業校が「××校は〇〇選手の母校です」という横断幕を校舎に掛けていたことに、何となく違和感を感じました。ひっくり返して「〇〇選手は××校の卒業生です」であれば違和感はありませんが、これを「××校は〇〇選手の出身校です」というと、〇〇選手を応援している気分がだいぶ失せてしまいますね。
 違和感の元は母校、という言葉の使い方にあるようです。
 母校という言葉は、卒業生や在籍歴のある人が自分の出身校を「私の母校です」というとか、同じ卒業生同士で、「彼は母校の教授になった」とか、「彼は母校の誉だ」、逆に「母校の歴史に泥を塗った」みたいな使い方に限られ、母校には卒業生の自分(たち)にとってかけがえのないもの、という前提があるようで、卒業した学校が母校かどうかは、卒業や在籍といった客観的な事実に加えて、卒業生が母校とおもうかどうかが大事であって、学校側は出身者に母校であることを押し付けられないのです。
 バカボンのパパが先輩たちと肩を組んで、「我が母校、バカ田大学」と叫ぶのはいいけれど、「バカ田大学はバカボンのパパの母校です」と校舎に横断幕を出すのは・・・あれ?ハンタイノサンセイ、これはこれでイイノダ?
 バカボンのパパが卒業した(という設定になっている)熊本県菊池市立七城中学校にはバカボンのパパの石碑が立っています。でも「バカボンのパパの母校」とは書かれていませんでした。