こんな日もあった・・・
炭鉱華やかりし頃の、三井三池鉱業所発行
”くろだいや新聞”
写真は当時
右は、 三井鉱山社長
左は、 三池鉱業所・所長
(幸いにも我が家に保存していた、21年前発行の新聞より)
昭和38年11月9日
一瞬にして458人の尊い命が、炭塵爆発で吹き飛んだあの日
839人の一酸化炭素中毒患者を発生させたあの日。
悲しい炭鉱事故の記憶は、50年を経過してもこの脳裏から消え去ることはない。
まもなく11月9日、 50年前の三池炭鉱、運命の日をむかえる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E4%B8%89%E6%B1%A0%E7%82%AD%E9%89%B1
チップで整地された三川鉱中庭、松ぼっくりは何を語るのか・・・
あの日の惨事は、わたしがどれほど身をけずったにしても決して書き表すことは叶わない。
詳細は別項(上)に譲り、わたしなりの記憶をたどってみた。
また、次の大事故にも、夫は遭遇している。
1984年(昭和59年)1月18日
有明坑坑内火災事故(三井有明鉱火災事故)が発生し83人が死亡している。
この火災によって83人が死亡し、日本における最後の大規模な坑内火災災害となった。
この事故は
九州にはめずらしい大雪の日に発生した・・・
あの日、テレビニュースで放映された有明炭鉱事故の福岡県大牟田市を、
雪国と誤解された人々が多かったそうだ。
ちょうどその頃、わたしは夫の勤務する三池炭鉱・職員婦人会の役員をしていた。
事故で亡くなられたご家族の家を、長靴を履き降り積もった冷たい雪の道を
一軒ずつ、弔問のご挨拶にうかがった。
辛い出来事が、まるで昨日の事のように甦る・・・
話を昭和38年11月9日に戻そう。
当時(50年前) 私は24才、経理担当で大手の建設会社・大牟田出張所に勤務。
午後3時過ぎ、算盤をもつ手に激震が走った。
事務所の窓ガラス全てが、木端微塵に吹き飛ぶような衝撃と振動に皆の顔がひきつった。
数分後、急を知った上司の声がわたしの耳に飛び込んだ。
「杏子ちゃんの婚約者(A)が、勤務しとる炭鉱の事故じゃないか?! はよ行って来い!」
怒鳴るような声に押されながら、社の車で約30分ほどかかかるだろうか?
Aの自宅、荒尾へかけつけた。
田舎道を土煙りをあげて走る車の中、頭の中はなにも考える余裕はなく
ひたすら、どうぞ家に居てほしいとだけ願っていた。
玄関の戸をたたいた。
返事がない、さらにたたき続けてようやく眠そうな目をしたAが現われた。
「あ、いましたか!・・・」
「あ、杏子さん、どげんしたとですか?」
「三池炭鉱で、事故があったらしいですよ」
「えぇっ!・・・」
将来の伴侶となるAは、中学・高校時代の親友 Yちゃんの兄。
婚約中とは名ばかりで、言葉使いはまだ他人行儀でぎこちなかった。
三井鉱山学校卒業後、三池炭鉱・三川鉱に勤務。当時は坑内作業に従事中だった。
三交代勤務中のAは、その時は幸運にも3番方で大事故からは免れたが、
顔をみるまでは悪いことばかりが胸をしめつけていた。
3番方は、午後9時から翌日の午前6時までの勤務だ。
まだ、テレビは一般家庭にはなくて、せめてのニュース源はラジオ位だった
まして夜勤あけ仮眠中のAは、事故発生を知る由もなかったろう。
すぐに救助隊として、三川鉱坑口に駆けつけた時、Aが目にしたのは
「炭鉱電車で地下から運ばれてきたばかりの、真っ黒い粉じんにまみれた
遺体の山やった」と・・・。
50年を経過した今
多くを語らない夫が、初めて口にした言葉をわたしは鉛のように胸に受けとめた。
もしあの日、1番方(朝の6時から15時)か、 2番方(午後13時から22時まで)勤務だったら、夫は爆発事故に遭っていたかもしれない。
そして・・・
今のわたしたち夫婦の姿は、決して在りえないことだったろう・・・
杏子さんにとっても、忘れられない日なのですね~
ひとつ勤務がズレていたら・・・と想像すると、こわいです。
なにごともなかったから、今がある。ご夫婦がいると思うと
運命を感じずにはおれません。
沢山の方のご命日11月9日に合掌させていただきます。
ずっしりと響く重さだ。
11月9日には、慰霊祭が催されますので、
また二人で出席して哀悼の気持を捧げて参りたいと
思っています。
いまの幸せに深く感謝して・・・
悔いのないように。
1963年(昭和38年)11月9日、日本で2つの大事故が同日に起こり、600人以上の人が亡くなった[血塗られた土曜日と呼ばれました。
15時12分に発生した三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故、21時40分頃に発生した東海道線鶴見列車脱線多重衝突事故が発生しました。
さらに、11月22日(金曜日)現地時間12時30分に、ケネディ大統領暗がダラス市内をパレード中に銃撃され、暗殺されました。
三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故は、1番方(朝の6時から15時)と2番方(午後13時から22時まで)の交代時期に発生したため、死者458名、一酸化炭素中毒(別名CO中毒)患者839名を出しました。この事故は、戦後最悪の炭鉱事故・労災事故と言われています。
私の従兄弟は1番方でしたが、運転免許証更新のため休んだためで大事故からは免れた。事故を聞きすぐに三川鉱坑口に駆けつけた時、従兄弟が目にしたのは坑内電車(人炭兼用車)で運ばれ来る被害者でした。「 被害者は皆ぼたもちみたいに真っ黒だった。」と言っていました。
従兄弟は、大事故からは免れたももの「自分だけ助かった。」という自責の念にかられ退職しました。
話は変わりますが、ご主人は、三井鉱山学校卒業後、三池炭鉱・三川鉱に勤務だったそうですが、私の兄は、昭和21年4月に三井三池鉱業学校(通称:鉱山学校)に入学、昭和24年3月に卒業して、三井三池鉱業所水道課に配属されましたが、昭和25年12月に当時不治の病と恐れられていた肺結核に罹り休職になり、昭和28年12月に退職し、、昭和32年6月に亡くなりました。
この、鉱山学校について資料探していますが、ほとんどありません。
ご主人から分かる範囲で聞いてください。
1.この鉱山学校はいつ開校したのか?
昭和21年3月 三井鉱山技術員養成所閉所閉所
昭和21年4月 三井工業学校内に三井三池鉱業学校開校?
2.三井鉱山技術員養成所と三井三池鉱業学校との関係は?
鉱山学校の最初の卒業生は昭和何年か?
3.昭和25年4月 (財)三池工業高等学校(三井工業学校)福岡県に移管
に伴い三井三池鉱業学校開校転出:転出先は?
転出先:大牟田市旭町2-33?
昭和28年4月 荒尾市万152に校舎建設
昭和35年10月 大牟田高体連運動会に三井三池鉱業学校3年生が最後の出場
荒尾市にある学校が何故大牟田高体連運動会に出られたのか?
4.鉱山学校の生徒の身分は?
養成工で賃金が支払われていた? 厚生年金は?
生徒で奨学金が支払われていた?
5.昭和36年3月 三井三池鉱業学校 閉校
おおむたの歴史10 1960年代の大牟田 に記載あり
おさるでござる
ありがとうございました。
お尋ねの件ですが、夫に聞いてみて記憶をたぐりましたがご希望に添えがたいお返事とあいなりました。
一応わかる範囲でお答えいたします。
夫は、昭和12年生まれで鉱山学校の9期生。昭和28年入学、昭和31年卒業です。3年間の学科と実習では高校卒業の資格はとれませんでしたので
夜間の定時制高校の4年間を同時にがんばって
高卒の資格を有することができました。
在校時の奨学金は月額1,900円~2,600円。当時とし佳いほうでしょうね。
厚生年金は3年間加算されました。
その他のことについてはわからないそうです。
鉱山学校についてのご返事ありがとうございました。
ご主人は、昼間鉱山学校夜は定時制高校と大変な勉強家だったようですね。
「三井三池鉱業学校は、昭和28年4月、万田鉱のすぐ前にあった桜寮の跡を改造して
発足した。当 初、生徒は約100名。採鉱科・機械科・電気科の三科に分かれ、修業期間
は3年。実習場は各坑にあった。」を投稿された方とご主人は、同年代の方のようです。
昭和21年4月入学で昭和24年3月卒業の私の兄が1期生かと思っていましたが、昭和
23年3月卒業が1期生のようです。
昭和21年3月 三井鉱山技術員養成所が閉所し、残りの生徒が三井三池鉱業学校に移行
したものと考えられます。
鉱山学校設立当時の先生は、三井工業学校の先生で県立に移管時に先生も一緒に県立に
移られたため、鉱山学校設立の経緯や歴史などがよく分からない状態だと思います。
私の三池工業のに入学式の時、母が「兄の担任の先生が居られた。」と言っていました。
なお、三井工業学校の先生の給与は三井の課長クラスの給与だったのが県に移管すると
給与が大幅に下がることになり、ずいぶんもめたそうです。
三井鉱山は、各事業所ごとに「三井鉱山技術員養成所」を設置しており、三池鉱業所は
三井工業学校内に、三井串木野鉱山(串木野金山)の現場技術者を養成するために「三井
金山技術員養成所」を設置していたが、戦時中に軍需資源優先のため昭和17年4月 に「三
井鉱山技術員養成所」に改称した。
戦後、各事業所の「三井鉱山技術員養成所」の教育レベルを上げるため「三井○○鉱業
学校」に移行した。
中でも、三井芦別鉱業学校は、三井芦別高等鉱業学校として高校卒業の資格を習得した。
鉱山学校については、「三池工業高等学校創立100周年記念誌」の80頁に「三井工業学
校寄宿舎 戦後は鉱山学校仮校舎から実習工場へと変換」と写真があります。
「大牟田市高体連十周年記念体育大会 昭和35年10月9日の記念誌」に「三井三池鉱業
学校を聖火出発」の写真があります。(学校の場所は分かりません)
厚生労働大臣が指定する各種学校一覧{技能検定受検資格関係)に「三井三池鉱業学校」
の記載があります。
兄は、鉱山学校に入学し、給料他に食料品や日用品の配給があり、母が戦後の混乱期に
大変助かったと言ってました。
私が覚えているのは、兄が会社から支給されるクリスマスプレゼントに、チョコレート
などのお菓子の詰め合わせやウイスキーやシロップ、缶詰など沢山有ったことです。
私の5歳の誕生日の直ぐ後の昭和25年2月に父が亡くなり、同年12月に兄が当時死の
病と恐れられていた肺結核に罹り休職になり、どん底の生活になりましたが、昭和28年
まで石炭の配給があり、昭和33年6月に兄が亡くなるまで年金の支給がありました。
母は「兄が5年間三池炭鉱に勤めた。」と言っていたのは、鉱山学校の生徒の時も給料
が支給されていたためだったのでしょう。
私が幼い頃母に連れられてバスで三池工業高校の前を通るとき「ここが兄が卒業した学
校だ。」といつも言っていました。
夫は小学2年生で父親を戦争でなくしました。
残された4人の子供を母親は必至で育て、長男であった夫は、生活を助けるために、定時制高校からの大学への推薦入学、教師への道をあきらめて
炭鉱への道を選びました。幼いころの悲惨な生活をあまり語りません。
無事に定年を迎え、豊富な経験をもとに現在は
”明治世界遺産の三池炭鉱”のガイドを
同期の仲間とともに元気に務めています。85才まではがんばるとも。
立派なお兄様の後輩として、これからの人生を誇りをもって生きていくことでしょう。
毎日暑い日が続き、庭の畑にやる天水が無くなり、雨が恋しくなりますが、お元気ですか。
杏子様のご主人は、努力家で生命力の強い方ですね。
三池争議の人員整理にも残られ、三池炭鉱三川鉱・炭塵爆発と有明坑坑内火災事故にも遭われず、定年まで勤められました。
今後、大きな病気や怪我に罹られても回復され100歳位までは元気に過ごされことでしょう。しかし、人間だからその後は徐々に弱られることと思います。
杏子様は、それまで元気にお過ごし下さい。
私の兄は、生命力のない人でした。鉱山学校卒業後2年足らずで病気になりました。
兄が勤めている頃に、兄が私を延命公園に連れて行ってくれたことしか思い出せません。
私は結核こそ発症しませんでしたが、首、腰、膝が悪く、甲状腺ガン前立腺ガンを手術したほかに大腸ポリープの切除、胃のピロリ菌の駆除など病と戦い続けています。
生命力の強い方の例は、家内の妹の義父です。戦前に満州に渡り満鉄に勤めておられたが、戦時中に引き上げられた。終戦まで残っておられたらソ連兵に捕まりシベリアに送られたことでしょう。
引き上げ後に熊本市内の陸軍練習機飛行場に整備士として勤めておられたが、飛行場米軍の偵察機に見つかり米軍の爆撃を受け、命からがら逃げ帰られたそうです。
戦後は、焼滅した熊本市内の復興に必要な材木屋を始めて儲かったそうです。
、
92歳の頃町内の医院で胃ガンが見つかり、医者から「こんなに大きくなるまで何で放っておいたのか。」義妹が怒られ、熊本市内のS病院に入院し手術したら回復された。
2年後くらいに柿の木に登り木を切っていたら落ちて腰の骨を折、S病院に運ばれたが、病院が「自信がない。」としてN病院に回され手術され回復されました。
現在97歳、義妹夫婦とは別棟に住んで居られ、自転車でスーパーに買い物に行かれたり、草取りをされたりして、お元気です。
三井工業学校と 三井三池鉱業学校は、三井三池鉱業所の一部です。”明治世界遺産の三池炭鉱”のガイドとして、ご主人も85歳までと言わず、95歳位までは頑張って下さい。
おさるでござる
コメントをいただき、ありがとうございました。
酷暑のなかでしたが、久しぶりに鉱山学校跡にいってみました。夏草が生い茂り、昔の面影をみつけるのには少し難しく、華やかだった石炭産業を守るために育てる若い人達の姿を想像してみていました。
昭和24年5月、昭和天皇の大牟田市へのご巡幸、三川坑におりられたあの白いキャップランプ姿の写真が今も脳裏に焼きついています。
あの時、大正小学校で一市民として日の丸の旗を振ってお迎えしたのが私が小学4年生のときでした。
おさるさんは、終戦近くに誕生されたと拝察いたします。実弟も同じころでやがて76才になります。これといって大した病気もせずに元気でいます。
おさるでござるさんは、いろいろの大病をも見事に克服されてご養生のたまものですね。
ご兄様の分まで末永くご長命でありますことを
心より祈ります。