大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書第5章31~40節

2023-12-12 16:19:16 | ヨハネによる福音書

2023年12月10日 大阪東教会主日礼拝説教「ここに命がある」吉浦玲子

<イエスについての証し>

 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」こうイエス様は語られます。イエス様はカナにおける婚礼の場で水をぶどう酒に変えられ、直接会うことなく役人の息子を癒され、ベトザダの池で38年間病であった人を癒されました。38年間病であった人を癒されたのが律法で働くことを禁じられている安息日であったこと、そして主イエスが神のことを「わたしの父」と呼ばれたことから、ユダヤの権力者たちは主イエスを殺そうと考えました。安息日の問題は簡単には言えませんが、安息日に病を癒すことを批判することは権力者たちの内に愛がないことを示します。しかしまた一方、神を「わたしの父」などと呼ぶことは神への冒涜と考えて主イエスを憎むということは、理解できないことではありません。

 現代でも自分は再臨のキリストだとか、自分は全能の神だとか自称する人はおかしな人だと思われます。まして主イエスの時代、聖書の神を大事にしてきたユダヤ人にとって、神を「わたしの父」などと呼び、自分の神の子であるなどと自称することは許されざることです。

 そのような流れの中で今日の聖書箇所になります。「自分は何者か」ということを主イエスが語られているのが今日の箇所です。主イエスは、自分で自分を証しをしてもそれは真実ではないとおっしゃいます。たしかにそうでしょう。「私は立派な人間です」と自分で言って、相手が信用するわけがありません。でもいろいろな人が「あの人は素晴らしい」と評価しているならば、ああそうかもしれないと信用するでしょう。そもそも当時、律法においても、二人以上の証言がなければ、裁判でも証拠として採用されませんでした。主イエスはそのことも踏まえておっしゃっているのです。

 ここで主イエスを証言する証言者としてまず洗礼者ヨハネが挙げられています。主イエスに先立ち、救い主が来られることを証ししたヨハネについて、主イエスご自身も自分を証しする者として語っておられます。「ヨハネは燃えて輝くともし火であった」と語られます。ヨハネはたしかに輝いたのです。しかし、人間ですから永遠に輝き続けることはできません。ヨハネは殺されてしまいます。「あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」と主イエスはおっしゃいます。しかし、その光は「しらばくの間」しか輝かなかったのです。そして、主イエスは「わたしは、人間による証しは受けない」とおっしゃっています。これはヨハネに対して少し厳しい言葉ではないか感じられるかもしれません。ヨハネは神に選ばれ、たしかに主イエスの道を整えるという大きな役割を果たしたのです。しかし、ここで主イエスがおっしゃるのは、厳然とした人間の限界です。たしかにヨハネは偉大な人物でした。しかしどれほど偉大な人間であっても、人間は人間から永遠に良きものを得ることはできないのです。人間も輝くことがありますがそれは「しばらくの間」です。そんな人間により頼もうとすることがあやまっているのです。主イエスはけっして洗礼者ヨハネを貶めておられるのではなく、むしろ洗礼者ヨハネをしっかり人々が理解できていないことを残念に思っておられるのです。

<主イエスの業による証し>

そもそも人間は人間の理性を超えた出来事や存在を証明することはできません。そして人間の理性で証明できるような範疇でしか神が存在しないのならそれは神ではありません。ですから主イエスは、人間を超えた証しを語られます。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」これは、冒頭に申し上げました婚礼の席でのことや病の癒しの業のことです。こういった奇跡によって主イエスが父なる神のもとから遣わされていることが分かるとおっしゃっています。

 でも、私たちはこれらの奇跡を現実に目の前で見ているわけではありません。信仰のない人や、残念ながら教会にも時々いる自称クリスチャンは聖書に書かれている奇跡を「作り話」「捏造」ととらえています。そしてそれらの奇跡を非科学的と言います。聖書に記されている奇跡を非科学的という人たちは実際目の前で奇跡を見てもトリックだと思うでしょう。

 しかし、私たちはこれらの奇跡を神の業として信じています。それは一つには聖霊の働きのゆえです。聖霊によって主イエスの働きを理解させていただけるからです。同時に、実際、私たちはわたしたちの身の上に神の奇跡を体験しているから聖書に書かれている奇跡も理解することができます。私たちは水がぶどう酒になるような奇跡は体験していないかもしれません。また、自分や家族の病気が奇跡的に癒される経験を必ずしもしていないかもしれません。しかしやはり、私たちは「ああ神に助けていただいた」「神に恵みを受けた」ということをおりおりに体験します。驚くような体験をします。最初は偶然だった、単にラッキーだったと思っていても少しずつ、神の恵みであったこと、神の助けであったことが分かってきます。でも、ひょっとしたら皆さんの中に自分は神の奇跡を経験していないと思っておられる方もおられるかもしれません。でも、そのことをなにかひけめに感じたり、自分の信仰は駄目なのではないかと考えられる必要はまったくありません。それは実際に起こっている奇跡に気づいていないだけですし、私たちが分かっていようが分かっていまいが、神は私たちに恵みを与え、助けてくださるからです。そして本当に必要な時は神御自身がご自分の業であることを示してくださるからです。そして実際のところ、あああれは奇跡だったと私たちが分かっていたとしても、それは、私たちに与えられるおびただしい神の業の一部にすぎないのです。御国に行ったとき、私たちは改めて知らされるのです。あああのことも神の業だったのか、あのときも神が助けてくださっていたのかと

<父による証し>

 「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。」 主イエスはご自身の業によって自分が父なる神のもとから遣わされた者であることが証しされると語られると同時に、父ご自身がご自分が父から遣わされた者であることを証ししてくださるともお語りになっています。父なる神が主イエスが神の御子であることを証ししてくださる、それは十字架と復活においてです。父なる神が主イエスを十字架につけられ、そしてまた復活をさせてくださいました。それが主イエスが父なる神のもとから遣わされたことの証だと主イエスはおっしゃるのです。

「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである」

この箇所は、主イエスを理解せず、敵対する当時のユダヤ人に語られたことであると同時に、ヨハネによる福音書が編集された時代、迫害に揺れる教会に向けて語られていることでもあります。そしてまた、折々に信仰が揺れ動く私たちにも向けられています。

ここでは少し話が入れ子になっていると言いますか、どちらか先が分からないことになります。主イエスの証をしてくださるのが父なる神であるとおっしゃりながら、あなたたちが父なる神の言葉をとどめていないのは、「父がお遣わしになった者を、信じないから」と語られます。主イエスを証しなさるのが父なる神ですが、その父なる神の言葉がきけていないのは、「遣わされた者」つまり主イエスを信じないからだとおっしゃるのです。主イエスを信じるのが先か、父なる神の証を聞くのが先かよく分からないのです。主イエスを信じるには主イエスがどなたか証しされていなければならず、そのために父なる神の言葉を聞きたいと思っても主イエスを信じていなければ、父なる神の言葉をとどめることができないと読めてしまいます

実際のところ、どちらが先ということはないのです。順序だてて父なる神の言葉をとどめたから主イエスを知ったということではなく、三位一体の神は、父、子、聖霊がそれぞれに私たちに働いてくださり、ある時、聖霊によって、主イエスを信じる者とされ、同時に、父なる神の言葉を心にとどめる者とされるのです。

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 昨日は、教会のガレージで北浜の飲食店さんや雑貨屋さん、古本屋さんなどが小さなマーケットをなさいました。小さなマーケットといっても、出展された10店舗が、それぞれが集客力のある有名店であったこともあり、一番混んでいた時間帯は、朝の地下鉄並みの混雑でした。実は私自身は、十年間、この教会で伝道牧会をしてきていくつかの取り組みもしてきて、イベント的な取り組みについては厳密な考えを持っています。イベントをやって、教会の敷居を低くして皆が教会に入りやすくしたら伝道になるとは思っていません。といいますのは教会は、キリストと出会う場所だからです。キリストと出会う第一は礼拝だからです。礼拝でみ言葉を聞いてキリストと出会うのです。キリストと出会うことなく教会に来ても、救いが得られるわけではないからです。

昨日のイベントは、そういう意味では、直接的なキリスト教の伝道をするイベントではありませんでした。ではなぜそんなイベントをしたのかというと、教会が地域に開かれていることをアピールするためです。教会は礼拝を第一とする共同体であると当時に、この世にあります。この世にありながら、教会はこの世から取り分けられている聖別されている存在です。聖別されているのは第一に神を礼拝する共同体としてです。礼拝以外のところに伝道の本質はありません。しかしまた教会はこの世から切り離された存在ではありません。ですから地域にあって、この世に対して扉を開くのです。

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

 主イエスはおっしゃいます。聖書をただ頭の学問として研究をしても、そこに命はないのだと。もちろん聖書の教理の基礎を学ぶこと、神学研究はとても大事なことです。しかし、生けるキリストと出会わなければ、命を得ることはできない、そう主イエスは語っておられます。主イエスに敵対している律法学者たちが救われることがないように、キリストと出会わなければ滅びるのです。

 今、ここにおられる皆さんは、イエス・キリストのもとに来られた方たちです。キリストのもとに来るということは、ためになる話を聞くということではなく、生きる命を得るということです。礼拝に来ることはけっして楽なことではありません。せっかくの日曜日に時間をやりくりしないといけません。足腰に不自由があったり目が見えにくい耳が聞こえにくい、そのようなことと戦いつつ来ることにもなります。

 しかしなお、礼拝に来る者を主イエスはとらえてくださいます。その豊かな命の中に入れてくださいます。週日のさまざまな事柄、思い、試練、そのすべてを受け止めてくださり、一時的な気分転換や癒しではなく、新しく生きる力を与えてくださいます。世俗的なお楽しみとは異なる主にある交わりを与えてくださいます。

 ところで、私自身が、初めて教会に行ったとき、イエス・キリストのもとに行くという意識はありませんでした。教会というキリスト教の集まりの場所に行くと思っていました。何かのセミナーや講演に行くように、キリスト教の話を聞いたり、行事に参加するような意識でした。しかし、最初はそうであったとしても、私も皆さんもキリストに招かれたのです。誰かに連れられて教会に来たという人も、私のように何となく興味本位で教会に行ってみたという者も、最初からキリストが招いてくださっていたのです。最初はなんだかよくわからなくても、私たちはキリストに招かれて礼拝に来て、生けるキリストと出会い、命をいただいています。最初はなんだかよく分からない、そういう人が入って来ることのできるための扉を教会はこの世に対して開けておかねばなりません。それは直接的な伝道や敷居を低くするということとは違います。教会において、まことに礼拝が捧げられ、祈りが捧げられ、御言葉を求める人々が集う時、教会から光が放たれるのです。小さく開かれた扉から、たしかにキリストご自身の光がこぼれていくのです。私たちもかつてその光に導かれたように、キリストの光が放たれます。アドベント、私たちはキリストのもとに来ます。そして御言葉を求め、命をいただきます。そのとき、キリストの光がこの世へとあふれます。その光に触れた人々が礼拝をする者に変えられていきます。私たちがいまキリストの命のもとで礼拝をお捧げしているように。このアドベント、キリストにあって共に喜ぶ者が増し加えられますように。



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