大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書19章38~42節

2020-04-05 12:26:51 | ヨハネによる福音書

2020年4月5日 大阪東教会主日礼拝(棕櫚の主日)説教 「信仰の弱さをも用いられる」吉浦玲子

【聖書】ヨハネによる福音書19章38~42節

 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行ってイエスの遺体を取り降ろした。 前に、夜イエスのもとに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜた物を百リトラばかり持って来た。 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、誰もまだ葬られたことのない新しい墓があった。 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。 

説教

<主イエスはたしかに死なれた>

 不正な裁判によって主イエスは十字架刑にかかられ、息を引き取られました。イスカリオテのユダの裏切りに始まり、ユダヤの権力者たちの策略、ローマ兵たちの残忍さ、さらにはペトロの裏切りもありました。十字架で苦しむ人間の下でくじを引いて服を取り合う人間のあさましさなども、聖書に克明に記されています。十字架を取り巻く人間の姿は、醜悪な罪の姿そのものでした。

 私たちはできれば、そのような十字架の場面を読みたくはありません。遠い昔の遠い国の悪い人たちの話として読み飛ばすことができれば良いのですが、神がこれらのことを通して私たちに語られるのは、私たち自身の罪の姿、罪の現実です。

しかし一方で、罪を知らされることは、恵みでもあります。十字架に示された神の愛の光の中でこそ、私たちは私たちの罪を知ることができるからです。私たちの罪が深ければ深いほど、十字架から注がれる神の愛の光のまぶしさを私たちは知らされます。

それでもなお、私たちは十字架の出来事を読む時、やはり痛みと悲しみを覚えざるを得ません。その痛みと悲しみの十字架の出来事ののち、今日の聖書箇所は、少し慰めを覚えるところでもあります。残酷な場面ののちの、悲しい亡骸との対面の場面ではあるのですが、いくつかの意味でここには神の恵みがあふれていると思うのです。その恵みを共に読んでいきたいと思います。

 

 さて、今日の聖書箇所は人間の罪のゆえに肉体の死を迎えられた主イエスの亡骸が墓に納められる場面です。私たちが礼拝の中で信仰告白をしています使徒信条では「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」と十字架からそののちのことが全体としては短い信仰告白のなかにあって、こまかに告白されています。逆に主イエスの宣教活動などについては触れられていないのに、十字架から陰府に至ることは詳細に語られるのです。

 これはまさに主イエスが肉体において死なれたということがはっきり語られているということです。主イエスは確かに死なれたのです。仮死状態であったわけではない、あるいは、もともと主イエスの肉体は仮のもので、十字架から魂だけが天に昇ったというようなものでもない、ということです。心臓が停止し、脳の働きも停止し、さまざまな肉体の機能も死を迎えたということです。人間としての死を迎えられたということです。

 肉親や近しい方の死に接したとき、もう言葉も発することもない体温を失った亡骸の前で、私たちははっきりと死というものを知らされます。いやというほど知らされるのです。信じたくはないけれども、死が現実だということを知らされます。主イエスの死もまた現実だったのです。今日の聖書箇所は、その現実を表しています。

<二人の人>

この場面では、特に二人の人が主イエスの亡骸と向き合ったことが記されています。一人はアリマタヤ出身のヨセフという人でした。この人は他の福音書を読むと、金持ちであったとか議員であったと記されています。身分の高い人で、公には主イエスの弟子とは言っていなかったようです。主イエスの関係者だと知られると立場上まずいところがある人だったのでしょう。しかし、そのヨセフがピラトに主イエスの遺体を取り下ろしたいと願いました。他の福音書には「勇気を出してピラトのところに行き」とも記されています。自分の立場が不利になるかもしれません、しかし彼は、勇気を出して、覚悟を決めてピラトのもとに行ったのです。本来は、十字架で死んだ罪人の遺体は墓に葬ることはできませんでした。しかし、アリマタヤのヨセフは身分が高い人であったせいでしょうか、彼はピラトから主イエスの遺体を受け取ることを許されたのです。

 同様に、ニコデモという人もやってきました。ニコデモはヨハネによる福音書3章に出てくる人です。この人もまた、身分の高い人で、公には弟子とはならなかったと考えられる人物です。ヨハネによる福音書3章で主イエスを訪ねて来た時も、人目をはばかって夜にやってきた人でした。しかしこの人もまた、アリマタヤのヨセフ同様、主イエスの死に際し、駆けつけて来たのです。

 アリマタヤのヨセフにしてもニコデモにしても、主イエスを信じる信仰者としては、もともとあまりはっきりしない態度をとっていた人です。厳しく言えば、中途半端な信仰姿勢であった人たちとも言えます。もちろん彼らは神の国を求めてはいたのです。ファリサイ派や律法学者、ユダヤの権力者たちの語ることに満足ができませんでした。一方で、力ある言葉を語られた主イエスに特別な思いを抱いていたのです。主イエスの十字架のことについても、自分たちも権力側の人間でありながら、権力者たちに同調はできなかったのです。とはいっても彼らは、一歩を踏み出せなかった人たちでもありました。

当然ながら、彼らは主イエスの復活や贖罪ということはこの時点では分かっていなかったでしょう。彼らの心には「主イエスという人に期待をしたけれど、その期待は果たされなかった」というがっかりした思いもあったことでしょう。そうであっても、彼らはリスクを冒しても、主イエスの遺体を引き取ったのです。そこに彼らの不思議な誠実さがあります。主イエスが存命の頃は発揮できなかった勇気を振り絞って、今となっては、先の希望が無くなったはずの状況の中で主イエスの亡骸のもとにやってきたのです。主イエスと生活を共にし、宣教をしていた弟子たちですらほとんどが逃げ、彼らもまた、希望が潰えたと感じているそのとき、この二人の人たちはやってきたのです。彼らは善良な人間だったのです。勇気を振り絞ってやってきた。しかし、善良だった、それだけではありません。彼らは、彼らの意志を越えて神に選ばれた人々でありました。彼らの、主イエスが存命の頃の信仰姿勢は中途半端なものではありながら、神はこの二人を用いられました。それも大きく用いられました。彼らの誠実さ善良さを越えて彼らには神の力が働いていたのです。

<備えられた葬り>

 この遺体が取り下ろされる場面は、母マリアが主イエスの亡骸を抱く「ピエタ」と呼ばれる彫刻や絵画で有名です。特にミケランジェロのピエタ像は最高傑作と名高いものです。母マリアに抱かれる主イエスの図は、母マリアの深い悲しみと慈愛にあふれたものです。 母マリアが息子の亡骸を抱くということは聖書には記されていませんが、そのようなことはあったであろうということは想像できます。母として、自分より先立ってしまった、それも悲惨な死に方をした息子の亡骸を抱くということは母親の感情としては十分に考えられることです。

 しかし、この場面は、ただそんな死の悲しみに沈んでいるだけではありません。ここにも神の救いの計画が進んでいるのです。なんといっても主イエスの亡骸が取り下ろされたことによって、そのご遺体を墓に葬ることが可能になったのです。復活において墓は特別な意味を持ちます。主イエスの遺体が墓ではなく、埋葬もされずどこかに投げ捨てられたとしたら、復活の出来事は曖昧なことになってしまうのです。

 主イエスの遺体は亜麻布で包まれました。他の福音書によるとこれは高価なものでアリマタヤのヨセフが持ってきたもののようです。そしてまた死者に塗るための没薬と沈香をニコデモは持ってきました。100リトラとありますから、30キロばかりも持ってきたのです。本来は埋葬も許されなかったはずの主イエスの亡骸は、とても丁寧に扱われたのです。そしてまた葬られた墓は新しいものであった、ということも復活の出来事を明確にするために重要なことだったと考えられます。墓には主イエスの亡骸だけが安置されたのです。

 ある方がこの聖書箇所についてこういうことを語っておられます。ニコデモが30キロ余りもの没薬と沈香を持ってきたのは、これはニコデモ自身のためにあらかじめニコデモが用意していたものではなかったのかと。没薬と沈香は混ぜてあったとあります。突然のことで急いできたはずなのに混ぜられていた。ニコデモの年齢ははっきりとは分からないのですが、ヨハネによる福音書3章から、高齢の人とも読めます。ですから、その高齢のニコデモが自分が死んだ時のためにもともと準備をしていたものをここで差し出したのだと説明されます。確かに急にそれだけの没薬と沈香が混ぜた状態で準備できたというのは、むしろ以前から準備されていたものだと考えるとしっくりくることでもあります。

 また、近くに墓があったとありますが、それはアリマタヤのヨセフの持ち物ではなかったのかと推測されます。彼はお金持ちで、園のなかにある立派な墓をもっていたと考えることもできます。その立派な墓もアリマタヤのヨセフ自身のために準備していたものではなかったのではないかと考える人もあります。アリマタヤのヨセフもまた、自分のために準備をしていた立派な墓を、主イエスのために差し出したのだとも考えられます。

かつて、主イエスの誕生の時、東方からの博士たちが、没薬、乳香、黄金を捧げたように、主イエスの死に際して、アリマタヤのヨセフとニコデモが心からなる捧げものをしたのです。ちなみに、占星術をしていた東方の博士たちの贈り物は占星術をするための道具であったとも考えられます。つまり博士たちは自分たちのもっとも大事なものを差し出したのだと説明されます。それと同様に、主イエスの死に際しても、二人の人は、自分自身のための大事なものを差し出したのです。

 没薬と沈香、立派な亜麻布、墓、と主イエスの葬りのためにすべてのものが整えられました。これは二人の人の捧げものであると同時に、神が備えられたものでした。復活に続くべき重要なことが神のご計画のうちに、二人の人を用いられてなされました。不十分な信仰者であり、公に弟子とは言えていなかったような二人が、大きく用いられました。ここに神のご計画と、恵みがあります。

振り返りますと、私たちもどこまでもいっても不十分な信仰者でしかありません。キリストの十字架の前で右に左に逸れるような者でしかありません。しかしなお、神は、そのような弱い信仰者である私たちの上に豊かな恵みを与えてくださるお方なのです。

<新しいことへ向かって>

 さて、アリマタヤのヨセフとニコデモは、主イエスの死に際し、人間として精いっぱいのことをしました。葬りとは、亡くなった方に対して、ある意味、最後の誠実さを示す場でもあります。そしてその死を受け入れていくプロセスでもあります。次週の復活祭の日、本来であれば、墓前礼拝を行い、昨年、天に召された姉妹の遺骨の納骨式を行う予定でした。残念ながら、今年は墓前礼拝を中止しますので、納骨は別途行うことになります。ご遺族の方にとって残念なことであろうと思います。葬儀から納骨という手続きを経て、残された人は、愛する者の死ということに対して、気持ちの区切りをつけます。もちろん実際は区切りなどはつかないのです。悲しみは深く残ります。しかし悲しみは残りながら、そこから自分たちの日常へと戻っていきます。私自身、七年前の春に母の納骨を行いました。たいへん急な死であり、私も家族も動揺しました。しかし、奈良の王子の教区墓地に母の遺骨を納めた時、悲しみや混乱の中から、ようやく、新しい一歩を踏み出せそうな気がしたことを覚えています。

 しかし、聖書は、これから驚くべきことを語ります。人間の側の気持ちの区切りや新しい一歩ということを越えた驚くべきことが起こるのです。主イエスの亡骸が立派なお墓に、高価な亜麻布でくるまれ納められた。人間的にはここで一区切りです。いうなれば墓というのは人間の命の終着点でした。しかし、そうではない、死では終わりではない、ここから新しい物語が始まるのです。もうおしまいだ、最後だ、だれもがそう思っていました。十字架の元にいた母マリアも他の女性たちも、愛する弟子も。そしてアリマタヤのヨセフもニコデモも。最後に、最後だからこそ、彼らは誠実にふるまいました。しかし、それで終わりではなかった。人間の誠実さを越えた神の驚くべき業がすでに始まっています。

 いま新型コロナ肺炎の猛威の中、例年とは異なる形での受難週を迎えています。私たちはこの週、洗足木曜日、最後の晩餐、十字架の出来事を、それぞれの場で振り返りましょう。それは悲しむためではありません。絶望するためでもありません。私たちは死では終わらない希望が与えられている、そのことを確認するためです。次週には洗礼式も予定されています。まさに新しい希望が与えられています。実際のことろ、復活の朝の前、たしかに夜は暗かったのです。どん底に暗かったのです。しかしその暗さを打ち破る希望を私たちは、信じます。死では終わりではない、新しい命へ至る希望をこの受難週に待ち望みましょう。



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