大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書12章44~50節

2019-07-11 09:33:11 | ヨハネによる福音書

2019年2月10日 大阪東教会主日礼拝説教 救いを拒んではならない吉浦玲子

<光と出会ったからこそ闇を知る>

 五年ほど前、ある祈りの会の席上で、ある青年と何回か話をしました。彼は信仰につまずいてしまっていたのです。彼はとても熱心な教派の教会に通っていたのですが、どうもその伝道のやり方に違和感を覚えたそうです。そこの教会では路傍伝道といって道端で大きな声を出して道行く人々に伝道をしていたそうです。その路傍伝道で、そこの教会の方々は道行く人々に「イエス・キリストを信じなければ、地獄に落ちまっせ」と叫んでいたそうです。青年はその伝道のあり方にとても疑問を感じて、だんだんとその教会に行くのが辛くなって教会から離れてしまったそうです。

 本日の聖書箇所でイエス様は「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」とおっしゃっています。その前には、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない」とおっしゃっています。主イエスの言葉を聞いて守らなかったとしても裁かれないのです。そういう言葉を読みますと、先ほど言った教派の人々が「信じなければ地獄に落ちまっせ」というようなことはないように感じます。では誰も裁かれないのかというと、別のところには微妙な言葉があります。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」ではやはり裁かれるのでしょうか?信じないからといってすぐに裁かれることはないけれど終わりの日に裁かれるのでしょうか?裁かれないためには、裁かれて地獄に落ちないために、はやはり主イエスを信じるべきなのでしょうか?

 ここで最初の主イエスの言葉にもう一度注目したいと思います。主イエスは「わたしは、裁くためではなく、世を救うために来た」とおっしゃっています。さらに少し前の箇所を読みますと「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」ともおっしゃっています。裁くためではなく救うために来た。暗闇の中の光としてきた。これは繰り返しヨハネによる福音書で語られてきたことです。クリスマスの季節は特に、闇の中に来られた光なる神としてイエス・キリストを語ります。クリスマスのクランツの光や夜のキャンドルの明かりは美しいものです。私たちはそのきれいな光を見ながら、光なる神を思いました。イブ礼拝のとき講壇の上から見下ろすとほんとうに闇の中に浮かぶ明かりがきれいなのです。しかしまた同時に講壇の上から思いました。光がなければ闇は闇として認識できないということを。

 光として来られたキリストを、まことに暗闇のなかに輝くともしびとして感じることなく、ちょっとおしゃれなきれいなライトやイルミネーションのように思っているとき、私たちにはこの世や自分の中の暗闇が見えません。たしかにそのライトやイルミネーションは美しくて見とれてしまいますが、その周りの闇は見えないのです。キリストと出会うということ、つまり光なる神と出会うということは自らの闇を知るということなしにはありえません。しかしそれは闇を知ったから光を知るのではありません。まことの光によって、闇を知るのです。光との出会いが先なのです。むかし、四国に出張をしたとき、バスで大阪まで帰ってきました。その帰りのバスは夜の暗い道を走っていました。出張が終わり、ひどく疲れていて、灯りのない暗い夜の景色をただぼーっと見るとはなく見ていました。ところが、突然、景色が開けました。本州に向かう海辺の道に出たのです。対岸には神戸の明かりが煌々と輝いていました。こういう経験は九州でもしたことがありましたが、神戸の輝く光を見たとき、それまでの夜道がとても暗かったことに改めて気がつきました。暗い景色に慣れっこになっていたのですが、まばゆい光によって、それまでの闇がはっきりと認識されたのでした。光によって闇をあとから知らされるのです。

<裁く心が暗闇へと連れ戻す>

 しかし、街の灯りやイルミネーションは永遠のものではありません。それに対してキリストの光は永遠です。永遠の光を知ったときはじめて、私たちは自分たちの闇を知らされますが、それは心おれるようなことではありません。むしろ自分が本当に光と出会ったという喜びと平安の方が何万倍も大きいのです。救いとはそういうものです。暗闇であった自分のところに光なる神が来られた。そのことをたしかに感じる時、そこに救いがあるのです。裁きへの恐れはこなごなに砕かれているのです。光と闇は対立するのではないのです。光を知ったものは闇へ戻ることはもうないのです。

 まことに光と出会った者は、裁かれません。だいじなことは光なる神と出会うことです。裁きを恐れて、地獄を恐れて、信仰に入ることは基本的にはないのです。私は知らなかったのですが、「地獄に落ちまっせ」というような伝道の言葉を「地獄の業火説教」と呼ぶのだそうです。どこかの新興宗教のような、あるいはカルト集団のような、人を恐れさせて信仰に引っ張り込むというのは結局それは人を本当の救いから遠ざけるものです。

 しかしまた、「地獄の業火説教」のようなものは、正統的なまっとうな教会の中にも、また信仰者一人一人の中にもときどきくすぶるものでもあります。主イエスは「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。」とおっしゃっていました。この言葉は、主イエスの言葉は守らないといけない決まりのようなものではないということです。主イエスの言葉は律法ではないということです。人を愛しなさいと主イエスはおっしゃいます。しかし、愛せないのが私たちたちです。わたしたちは主イエスの言葉を守れないのです。明日のことを思い煩うなと主イエスはおっしゃいます。しかし、私たちは明日のこともあさってもことも10年先のことも思い煩うものです。そのようなわたしたちであっても、主イエスは「言うことを聞かない奴だ」といって裁いたりはなさらないのです。しかし、私たちはどこか自分の信仰姿勢に対してうしろめたさを感じてしまう、そのようなところがあるかと思います。もちろんみ言葉によって罪を知らされ、罪を悔い改めることは必要ですが、主イエスの言葉を律法としてとらえて、それを守れない自分を自分で裁いてしまう、自分で自分に業火説教をしてしまう、そのようなところが私たちにはあります。

 キリストは光として来てくださったのに、自分の闇の方ばかり見てしまう、そのようなことに陥りがちです。しかし、キリストはすでにこられ、光は闇をくだかれました。光は救いの恵みです。その恵みを遮るものは「裁く心」です。キリストと出会った私たちはキリストに裁かれるのではありません。まず何より、自分に裁かれるのです。人間に裁かれるのです。自分が自分を裁き、また他者をも裁くのです。こんな私はダメな奴だと裁き、クリスチャンのくせにあんなことをしているあの人はけしからんと裁きます。繰り返しますが罪への悔い改めは必要です。しかしそれは罪にとどまることのないためのものです。恵みの喜びの中にとどまるためのものです。光の中に生き続けるためのものです。それに対して、裁く心は、人を罪の闇の中にとどまらせるものです。すでにキリストによって、恵みによって取り除かれている暗闇に引き戻すものです。

<父なる神の言葉を語られるイエス・キリスト>

 「わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」

 キリスト教の分かりにくさはイエス・キリストが実在の人物であるということです。実在の人物であるイエス・キリストがキリスト教の教祖であったり、修行を積んで特別な存在になったというのであれば分かりやすいのです。しかし、イエス・キリストは確かにこの地上を肉体を持った人間として歩まれましたが、父なる神から遣わされた神の御子でありました。キリストが神の御子だからといって、神が二人おられるわけではありません。ここから先は三位一体という話になっていくのですが、今日はただ、キリストの言葉は父なる神の言葉と一緒であるということにとどめます。イエス・キリストはこの地上に生きられ、父なる神のお命じになった言葉を語られました。イエス・キリストは父なる神を指し示すと言われます。それはまさに言葉において父なる神を指し示されたのです。言葉によって神とはこれこれこういうお方であると説明されたわけではありません。イエス・キリストの語る言葉がそのまま父なる神の言葉だったのです。

 父なる神の言葉と同じものである、そのキリストの言葉は、単に神に書かれた文字の連なりではありません。その言葉そのものに命があり、力があるのです。言葉そのものが神であるということです。父なる神が「光あれ」とおっしゃって、世界に光があるようになったように、世界は神の言葉によって存在をすると言ってよいのです。「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている」と主イエスはお語りになりました。それは父なる神がお命じになって語った言葉が永遠の命であるということです。その神の命の言葉を受け入れる時、私たちも命の中に入れられます。永遠の命の中に入れられるのです。その言葉を受け入れない時、言葉と離れている時、わたしたちは闇の中にとどまるのです。滅びへと向かうのです。言葉によって裁かれるということはそういうことです。

 初めに言があった、そうヨハネによる福音書は始まりました。言なる神であるイエス・キリストがこの世界に来られたのです。「光あれ」とおっしゃった父なる神の光の言葉をもってイエス・キリストは来られました。そのキリストと出会うということは言葉において出会うということです。聖書には、イエス・キリストの肉声を聞いた人々の証言が記されています。ヨハネによる福音書にもたくさんの人々の姿が描かれています。光なる神と出会いながら、言葉なる神の言葉、2000年前に生きておられたイエス・キリストの肉声をきいてもなお、信じない人々は多くありました。いえむしろ、言葉なる神の言葉によって、そして光の言葉によって、はっきりと光と闇が分けられたのです。まことの光の中に留まる者と、そうでない者がイエス・キリストの到来によって、イエス・キリストの言葉によって分けられました。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というマタイによる福音書の中の言葉は有名です。聖書のことを良く知らない人でも、この言葉を聞いて安らぎを感じる言葉かもしれません。20歳になったばかりのある女性は、淀川キリスト教病院の壁に書かれたこの言葉の前で立ち止まりました。その女性の育った家庭は深い傷を負っていました。父親がアルコール依存症で、いつも家の中は暗く荒れていました。辛い少女時代を彼女は送りました。家庭の中には安らげるところがなく、ただ、近所に住んでいたおばあさんだけが彼女のことを心から気にかけ、世話をしてくれていました。しかしそのおばあさんも重い病になり淀川キリスト教病院に入院していたのです。唯一の心の支えだったおばあさんがもしかしたら自分のそばからいなくなってしまうかもしれない。そんな不安で押しつぶされそうな心に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という言葉は飛び込んできました。命の言葉として飛び込んできたのです。暗かった彼女の心に光が射した瞬間でした。彼女は生まれて初めて教会に来ました。おばあさんは亡くなりましたが、彼女の心の中には新しい光が射していました。彼女はほどなく洗礼を受けました。洗礼式には父親も出席して見守りました。崩壊していた家庭に光が射した瞬間でした。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というクリスチャンならだれでも知っている言葉が、本当に力の言葉として人間を救い家庭に光をもたらしました。イエス・キリストの言葉は、父なる神の言葉であり、力の言葉、永遠の命の言葉だからです。

 神の言葉、み言葉とともに歩みましょう。暗闇の業である裁きを神にお返しして、光の言葉と共に、まことの春の光に向かって歩みましょう。



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