大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第8章22~33節

2022-07-31 08:35:43 | マルコによる福音書

2022年7月24日大阪東教会主日礼拝説教「あなたは、メシアです」吉浦玲子

 主イエスは「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。それに対して弟子たちを代表してペトロは「あなたは、メシアです」とお答えしました。メシアとはもともとが「油注がれた者」という意味のヘブライ語で、王や預言者といった特別な役割に神から選ばれた人々を指しました。やがてその言葉は、イスラエルを救ってくださる救い主を指すようになりました。メシアをギリシャ語で言うとクリーストス、キリストです。口語訳聖書ではこの箇所は「あなたこそキリストです」と訳されていました。その主イエスとペトロの会話に先立ち、今日の聖書箇所には目の見えない人が癒される話があります。この話は少し前に読みました7章31節からの耳が聞こえず舌の回らない人が癒される話と対になっていると考えられます。そしてこの二つの箇所は、以前にも申しましたようにイザヤ書35章の5節の「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く」という旧約時代の預言者イザヤの預言の箇所とつながると考えられます。マルコによる福音書7章31節の耳の聞こえない人の癒し、そして今日の聖書箇所の目の見ない人の癒し、これらはいずれもイザヤが預言した救い主がやがて来られる時に起こる事柄です。ですから、まさに主イエスの到来によって、耳の聞こえない人、目の見えない人が癒された、これは主イエスがまさに救い主であることを示している出来事なのだとマルコは語っているのです。

ペトロは、主イエスに「わたしを何者だと言うのか」と問われた時、イザヤ書35章の預言と主イエスをつなげて考えていたかどうかは分かりません。しかし、主イエスのこれまでの数々の業を見て、主イエスは神から来られた救い主だとペトロはお答えしたのです。これは他の人々が洗礼者ヨハネの再来だとか、エリヤだ、あるいは預言者だと言っているのとはまったく質の異なる答えです。他の人々は主イエスが何か特別な力を持っているお方であるとは感じていました。そしてその言葉を聞いたり、あるいは助けをいただいたら、救いを得られると思っていました。主イエスは素晴らしい力や言葉で困っているところを助けてくださるお方だけれども、救いの主体はあくまでも自分の方にある、自分で自分を救うと多くの人々は考えていたのです。しかし、メシアだと告白するということは、救いというものが自分の側ではどうしようもないことであり、ただ救い主であるお方によらなければ救われないということを知っているということです。

救いはメシアであるお方からくる、そう考え、ペトロは「あなたは、メシアです」と答えました。これは信仰告白です。しかしまた問題は、メシア、救い主であるとは告白したものの、その救い主がどのようなお方であるかをペトロはまだ正確には知りませんでした。そもそも当時のユダヤにおいてメシアとはイスラエルを建て直してくださるダビデのような王と考えられていました。現実のイスラエルをローマ帝国の支配から回復し、ダビデの時代のように強くしてくださる王というイメージでした。ペトロもまたメシアとはそのようなお方だと思っていたと考えられます。

 そのようなペトロや弟子たちに主イエスは語られます。イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とおっしゃいました。「しかも、このことをはっきりとお話になった」とあります。自分は権力者たちから排斥される、殺される、復活する、これらのことを主イエスははっきりとおっしゃったのです。これは当時のユダヤ人が考えていたメシアの姿とは全く異なりました。ダビデのような強い王、敵を蹴散らすつわものとは程遠いものです。

 ペトロはたいへん驚き、主イエスをわきへお連れしていさめ始めました。実際、主イエスの言葉はまだ聖霊を受けていないペトロたちにとっては理解しがたいものでした。それはそうだと思います。神から来られたお方が、この世の権力者ごときに排斥されて殺されるなんて思いもよらないことだからです。そして復活についてもわからないことでした。当時のユダヤの人々は、サドカイ派の人々を除けば復活ということ自体は信じていたのです。それはこの世の終わりの時、つまり神による最後の審判の時、人間は皆復活して、神の裁きを受けることになるという考えでした。しかしその世の終わりの時ではないとき、救い主が復活するなどということは信じがたいことでした。

ペトロはいよいよこれから主イエスがイエスの王国をこの世において築かれると思っていたのです。ですから、排斥されるだの殺されるだのということを言ってはなりません、そんな弱気でどうするのですか?救い主らしく強くあってほしいのに、こともあろうに権力者たちに負けて殺されるなんてとんでもない、そういうことをおっしゃっては、ほかの弟子たちにも、また多くの人々にも示しがつきませんよ、そうペトロはお伝えしたかったのでしょう。現代の私たちはその後のことを知っていますからペトロは愚かだなあと感じます。しかし、私たちもまた、神を自分の思いや考えの中で、神様にはこうあって欲しいと思う者です。愛ある神はこうあるべき、正義の神はこうなさってくださるべき、と神を勝手に規定するのです。しかし、神のなさることや、この世のありさまを見て、神というものが自分の規定に外れていると、神へ失望したり、神なんていないとうそぶいたりするのです。

 そのようなペトロに対して主イエスは「振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」」たいへん、強烈な言葉です。この言葉を主イエスは振り返って弟子たちを見ながらおっしゃったのです。つまりこの言葉はペトロのみならず弟子たち皆に主イエスはおっしゃったのです。この時、位置関係としては、おそらくペトロが主イエスの前に出て、他の弟子たちから主イエスを引き離して主イエスに話していたのです。主イエスの前にペトロは出ていました。ですから「引き下がれ」と強く主イエスはおっしゃったのです。

 私たちもまた知らず知らずのうちに神の前に出ていっているかもしれません。自分の方が神の前に出て、神を振り返って、神様こっちにきてください、こうしてくださいと神に指示をしているかもしれません。何の悪意もなく、いやむしろ伝道のため、教会のため、みんなのため、家族のため、一生懸命にやっている、気がつくと神を放り出して、神より前に出て、自分で良かれと思ってやっている、そんなことがあるかもしれません。伝道のため、教会のためということであっても、神の前に出てやっているとき、それは神のことではなく人間のことを思っているのです。

 そんなとき、主イエスは「退け」とおっしゃってくださいます。私の後ろに行けとおっしゃってくださるのです。自分が神の前に出ていることを、そしてそれは道をそれて危ないところへ向かおうとしていることですが、それを止めてくださいます。愛をもって止めてくださいます。でも、その時は分からないことも多いのです。場合によっては自分は良いことをしているのに、物事がうまくいかないと感じるのです。さらには、悪しきものに妨害されているとすら思うのです。もちろんこの判断は難しいのです。ある神学者が信仰書を出版しようと企画をしていたのですが、出版社の都合やらさまざまなトラブルがあって、なかなか出版の作業が進まなかったそうです。その人は最初はそれこそ悪しき力による妨害かと思ったそうなのですが、後から考えたら、自分の中で、焦りがあったそうです。いろいろなトラブルの中で内容についても検討しなおして、その過程でそれまで見えなかったことが見えてきたそうです。そして当初より良い形での出版にこぎつけたそうです。神様が適切にストップをかけてくださったことが良い結果をもたらしたとその方はおっしゃっていました。私たちは時として、不本意であっても、神からの「退け」「ストップしろ」という声を聞き留めなければならないのです。

 さて、またここで信仰告白ということに戻ってお話をしたいと思います。信仰告白とは、三位一体の神への信仰を告白することですが、その核にあるのは主イエスとはどなたか?ということです。ペトロは「あなたは、メシアです」と告白しました。この告白は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと思うか」という主イエスご自身の問いに答えたものです。ここにいる洗礼をお受けになっている方は、皆、信仰告白をなさった方です。みなさんご自身の意思で告白をされました。しかしまた同時に、本人が意識するかどうかは別として、主イエスご自身から「わたしを何者だと思っているのか」と皆さんは問われたのです。主イエスは「何者だと思うのか」という問いの形で私たちを信仰告白へと招いてくださったのです。主イエスご自身から問われたとき、その問いが聞こえたからこそ、私たちは主イエスから引き出されるように「あなたはメシアです」と答えさせていただくのです。つまり主イエスから招かれて私たちは告白をさせていただいたのです。そこに私たちを招いてくださる主イエスの愛があります。愛の問いかけがあります。

しかしまた一方で、そのメシアがどういうお方かというのがあやふやなままということがあるかもしれません。今日の聖書箇所のペトロのように、自分のために苦しみをお受けになってくださり、十字架の上で死んでくださる救い主とは分からないのです。そしてそれはまた、キリストが神から来られた神ご自身ということが分かっていなかったからでもあります。ナザレ村の大工として育たれた主イエスをペトロはメシアだと申し上げました。ペトロだけではありません。キリスト者は、歴史上、たしかに存在し、歴史書にもその名を記されているイエスという一人の男性を、神のもとから来られた救い主、メシアだと告白した者たちです。そして告白した者はそのメシアが神ご自身なのだと知らねばなりません。

 それは人間である誰かを神として祀り上げることとは根本的に違います。人間を神に祀り上げるのではなく、神がこの世界に来られたと信じるのです。このナザレのイエスを神から来られた救い主、神その人だと信じる信仰が聖書の信仰なのです。しかしもちろん、実際主イエスは人間でもあられました。繰り返し繰り返し述べていることですが、これは主イエスは50%人間で50%神だということではなく、完全に人間であり、また完全に神であられるということです。なにか不思議なことでありますが、これはまさに信仰の事項なのです。基本信条で語られ2000年にわたり教会が信じてきたように主イエスは「まったき神にしてまったき人間」であるお方でした。いま、世間では宗教論議が沸き起こっていますが、主イエスを「まったき神にしてまったき人間」ではないと考えることは完全に異端です。聖書にもとづく正統的なキリスト教ではありません。しかしまた同時に、異端の新興宗教のみならず、正統的な教会の中にも繰り返し繰り返し、このような異端的な考えが入り込んできました。このような異端的な言説が教会を壊し、私たちの信仰の命を傷つけるのです。私たちは常にメシアとはどなたか、キリストは何者であられるのかという信仰の土台にしっかりと立たねばなりません。

ですから教会は繰り返し繰り返し信仰告白をするのです。教会では礼拝の中で毎週信仰告白をします。これは唱えるとご利益のあるありがたい言葉ではなくて、私たちの三位一体の神への心からなる告白です。実際のところ、あまり普段は内容を意識しておられないかもしれません。私自身、教会に通い始めたころは、使徒信条も日本基督教団信仰告白も内容は分かっていませんでした。しかしなお、私たちは毎週信仰告白をします。今はコロナ対策のため、声に出しては告白しませんが、心で告白します。ペトロはまだ聖霊を受けておらずメシアの意味を分かってはいませんでした。私たちは最初から救い主の意味がはっきり分かっていたわけではありません。分かったのちでも、私たちも揺れ動く弱いものです。揺れ動く弱い人間である私たちが繰り返し信仰を確認し、信仰の土台に立ち帰ることができるように毎週、告白して確認をするのです。「わたしを何者だと思うか」という主イエスの愛に満ちた問いかけがあるからです。今週も主イエスの愛のまなざしの中で私たちは問われます。「わたしを何者だと言うのか」。私たちもまた感謝と愛をもってお答えします。「あなたは、メシアです」「あなたこそキリストです」。そこから私たちは新しく救いの道を歩みはじめます。あなたこそ救い主ですという告白に確信を増し加えられ、救われた喜びの内に歩みます。



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