大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書 4章27~42節

2018-06-28 18:05:17 | ヨハネによる福音書

2018年6月17日大阪東教会主日礼拝 「信じる根拠」吉浦玲子

<主イエスと出会った者>

 主イエスは出会ってくださる神です。そして主イエスが出会ってくださったとき、そのとき、人間は、主イエスを伝えていく者とされます。まことに主イエスと出会った人は、出会ってくださった主イエスのことを語らざるを得なくなるのです。それは専門の牧師や伝道者になるということではなく、それぞれの場にあって、それぞれのあり方で出会ってくださった主イエスを語って行く者にされるのです。

 なぜなら、主イエスは私たちに尽きることのない泉をくださったからです。永遠の水をくださったからです。私たちは主イエスと出会う前、からからに渇いていました。渇いていることに気づかなかったかもしれませんが、実際、命の瀬戸際で私たちは渇いていました。その私たちを潤す永遠の水を主イエスはくださいました。からからに乾いていることすら気づいていなかった私たちを潤してくださいました。その水はとても豊かで、豊か過ぎて、自分の中でとどまるものではありません。あふれだしていくのです。主イエスの永遠の水があふれ出すので、私たちは主イエスを伝えます。もちろん福音書には主イエスの大宣教命令と呼ばれるものがあります。全世界へ出ていって、キリストの弟子にせよ、そう主イエスはおっしゃいました。しかし命令だから、しんどいけど、伝道をしないといけない、そういうことではないのです。キリストとまことに出会った者は、あふれ出す水の勢いによって、おのずと主イエスのことを語るのです。

 さて、少し前回の箇所の振り返りにもなりますが、サマリアの女と記されている女性と主イエスのやり取りを見てみたいと思います。サマリアの女性はスキャンダラスな女性でした。過去に5人の夫があり、現在は夫ではない男性と暮らしていました。言ってみれば、このサマリアの女は噂話のかっこうのタネになるような女性でした。普通に結婚をしている多くの人々が眉をひそめるような女性でした。女性はそのような世間の人々の自分に対する冷たい視線を痛いほど感じていました。ですから、なるべく人々と交際をしない生活をしていました。他の多くの女たちが水を汲みに来る朝ではなく、暑い正午にサマリアの女は水を汲みに来ていました。

 この女性は、心の奥底に満たされない思いがあったのでしょう。その満たされない思いを満たしてもらうことを人間に求めていたのでしょう。しかし、5人の夫を次々に持っても、サマリアの女の思いは満たされることはありませんでした。先週の聖書箇所では井戸の水について、女性と主イエスとの会話は始まりました。女性の心は、渇いていたのです。からからに渇いていたのです。井戸の水を汲んで飲めば肉体はうるおいます。しかし、それでも決して潤うことのできない心が女性にはありました。そしてその渇きは、そのサマリアの女性だけでなく、神を知らないすべての人間の渇きでもありました。私たちの渇きでした。罪による渇きでした。罪、すなわち父なる神と離れていることが渇きの根本的な原因でした。

 その渇いた人間が主イエスと出会いました。救い主である主イエスと出会ったのです。主イエスと出会った者は、父なる神との関係を回復させていただけます。主イエスの十字架と復活によって、私たちは父なる神と交わることができるようになったのです。ですから、深いところにある渇きを癒していただけるのです。聖霊をいただき、主イエスを通して父なる神との交わりを回復します。そして父なる神との関係が回復した者は、父なる神との関係を回復させてくださった主イエスを証せざるを得なくなります。最初にいいましたように、あふれるような思いに捉えられるのです。

<水がめを置いて>

 昼ごろ、人目を避けて水を汲みに来ていた女性は、28節を見ますと、「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。」とあります。女性は水を汲みに来ていたのです。肉体を潤し、生活になくてはならない水を汲みに来ていた、そうしなければ彼女の生活は成り立たなかったのです。暑い昼に重労働でした。でもやらざるを得ない大事なことでした。その大事なことを放り出して女性は町に出て行ったのです。ヤコブの井戸から町までは距離としては1.5キロぐらいだそうです。むちゃくちゃ遠いわけではありませんが、歩くにはそれなりの距離があります。そこを暑い昼に20分ほどもかけて歩いたのです。いや、女性は水がめを置いて行ったくらいですから、矢も盾もたまらず小走りで町まで行ったかもしれません。人目を避けていた女性が、もともとの大事な用事を放り出して、人々のところへ出て行ったのです。それは単にすごい人と出会った、聖書で伝えられていたメシアかもしれない人と出会った、そのことを皆に伝えたいというだけではありません。いうなれば、さっき道で有名人と出会ったことを誰彼に吹聴したいというような、そのような思いではありません。その程度のことであるならば人の目を気にしていた彼女がわざわざ出ていくことはないでしょう。

 彼女が出て行ったのは、彼女が変えられたからです。深いところの飢え渇きが癒され、力が与えられたからです。もう人の目に怯える必要はなくなったからです。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言いあてた人がいます。」と彼女は語りました。その姿は大胆でした。彼女は自分自身のこれまで日蔭の存在であったあり方をも臆することなく語っています。そして彼女は、なにか自分が立派な者として語っているのではないのです。この時点で彼女は自分の生活を変えたわけではありません。夫ではない男性との関係を解消したわけでもありません。まして過去を変えることはできません。ただただ、今のありのままの自分として語っているのです。

 主イエスの時代、ファリサイ派や律法学者たちは、人々の尊敬を受けていました。新約聖書の中では悪役的な存在ですが、実際には、人々から信仰深い人としてうやまわれていた人々でした。そしてファリサイ派や律法学者たちは基本的にはたしかにまじめで尊敬に値する生活をしていたのです。そしてその言葉は立派な人物が語る立派なこととして人々に聞かれました。しかし、サマリアの女は違います。もとより誇るような生活はしてこなかったのです。スキャンダラスな、人が眉をひそめるような生活をしていました。そんな自分のそのままで彼女は語りました。「さあ、見に来てください」と。

 世のなかには元やくざの牧師もいれば、元暴走族の頭の牧師もいます。元暴走族の頭の牧師は私自身、面識がある方です。有名な讃美歌AmazingGrace「いつくしみ深き」を作ったのは元奴隷商人でした。それらの人々は、すっかり自分が過去を清算して立派な人間になったから、主イエスのことを伝えているわけではありません。ただただ主イエスと出会っていただいた、そして変えられた、その喜びのゆえに主イエスのことを語っているのです。変えられた、というのは、まずその第一歩は、やくざから足を洗ったり、奴隷商人を辞めたということではなく、神の方向を向いて歩く歩みに変えられたということです。神に顔を向けて歩み出したということです。神の光の中を歩み出したということです。神の光の中を歩み出した時、それに続いて具体的な自分の生活も変わって行くのです。サマリアの女が、それまで人目を避けて生活をしていたのに、人々の前に出ていったように変えられます。光の中を歩んでいくとき、当然、やくざや暴走族の頭ではやっていけません。奴隷商人を続けることはできません。一人一人の生活は少しずつ、場合によっては劇的に変えられていきます。つまり、主イエスとの出会いと、主イエスについて語り出すことと、自分自身が変えられていくことは、同時進行的に起こることなのです。もっとも自分自身が変えられていく、それは一生かかって変えられていくということでもあります。変え続けられていくといっていいでしょう。どう変えられるのか?それはよく言われる言葉ですが「キリストに似た者」に変えられていくのです。一生かかって、少しずつ、私たちはキリストに似た者に変えていかれるのです。

<信じる根拠~ひとりひとりが出会う>

 主イエスとの出会いによって、新しく歩み始めたサマリアの女性は、「さあ、見に来てください」と語りました。繰り返しますが、世間的な評判の芳しくない女性の言葉です。通常なら、「ああ、あの女の言葉か」と聞いた人は聞き流すでしょう。ところが、驚くべきことに、39節を見ますと「さて、その町の多くのサマリア人は『この方が、わたしの行ったすべてのこととを言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。」とあります。つまり女性の言葉に力があったということです。女性自身に力があったわけではありません。主イエスと出会って変えられた女性に主イエスからの力が、そしてまた聖霊の力があったということです。律法学者やファリサイ派のように聖書に詳しいわけでもない一人の女性が、ただ主イエスとの出会いによって変えられた、その言葉に力があったのです。

 そして女性によって主イエスのことを知らされ、主イエスのもとに人々は行きました。「更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」とあります。そしてまた今日の聖書箇所の最後のところに、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と町の人々のサマリアの女への言葉が記されています。これはさらっと読むと、町の人々は、サマリアの女性へすこし意地悪なことを言っているようにも感じられます。しかし、そうではなく、人間はだれでも、一人一人が直接、主イエスと出会うのだということをここは語っているのです。最初に誰かから話を聞かされるかもしれません。主イエスを知るきっかけはさまざまあるのです。しかし、やがてひとりひとりが直接、主イエスと出会うことになるのです。主イエスを体験すると言ってもいいでしょう。今日においては、礼拝が主イエスとの出会いの場所となります。礼拝は、単に聖書の解釈を学ぶ場ではありません。聖霊が注がれ、ここで私たちは生ける主イエスと出会います。御言葉によって、聖餐によって、主イエスと出会います。永遠のいける水である聖霊が注がれ、私たちは主イエスを指し示されます。そして「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かる」のです。そして信じるのです。礼拝ごとに新たに信じるのです。

<豊かな刈り取りへ向けて>

 さて、主イエスとサマリアの女性、そして町の人々とのやり取りに挟まれるように、主イエスと弟子たちのやりとりが31節から記されています。弟子たちは、主イエスがサマリアの女性とのやり取りをし、そしてまたサマリアの女性を通じてサマリアの人々がやってきて多くの人々が主イエスを信じる者とされるという出来事において、なんら、具体的な役割を担ってはいません。

 ただ、たとえば27節に「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた」とあります。通常、「先生」と呼ばれる教師は、当時は女性とは話などはしなかったから弟子たちは驚いたのです。女性は数の内に入らなかったからです。話すに足りない者とされていたからです。しかし、弟子たちはサマリアの女性と話をされている主イエスのお姿に何かを感じたのでしょう。主イエスを止めたり、問いただす者はいなかったのです。そしてサマリアの女性が水がめを置いて町に行ったあと、弟子たちは主イエスに食事を進めますが、そこでの会話も主イエスと弟子たちの間はちぐはぐな感じです。主イエスは、サマリアの女性が御自身の言葉を信じて、人々に伝えにいったことを知っておられました。そして目の前にいる弟子たちもまた、やがて人々に自分のことを知らせに行く者となることを御存知でした。サマリアの女性は暑い中を町まで行きました。弟子たちもやがて迫害の中を伝道することになるのです。

 そのことを主イエスはよくよく御存知であって、御存知のゆえにおっしゃるのです。「あなたがたは『刈り入れまでまだ四カ月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」あなたたちの目の前にはまだ実っていない畑が見えているだろう、刈り入れはまだまだ先だと思っているだろう、しかし、そうではない、もう色づいている、刈り入れを待っているではないか?この色づくというのは、黄金色とも訳せる言葉です。あるいは白いとも訳せ、白く輝いているとも言える言葉です。私たちの現実は、多くの場合、黄金色でもなく輝いてもいないように見えるでしょう。しかし、主イエスの目にはそうではないのです。神の目にはそうではなく、すでにたわわに実っている、輝いているのです。私たちの日々も、また教会の置かれている状況も、現実においては厳しく多くの課題があります。しかしなお、顔を上げて見よ、それは輝いている、既に実っているのだと主イエスはおっしゃいます。暑い中を小走りに町に向かう女性へ、やがて宣教へと乗り出す弟子たちへ、あなたたちの道には豊かな実りがある、それはすでにもうここにあるのだと主イエスはおっしゃるのです。

 荒れ野のように見える現実が、主イエスが共のおられる時、豊かに実った畑とされるのだとおっしゃいます。私たちは、荒れ野のように見える現実の中で、しかし、主イエスが共におられる時、たしかに豊かに収穫させていただくのです。中庭に鉢植えのぶどうがあります。昨年の秋、実ったぶどうを皆で食べましたが、冬には枯れたようになっていました。特にこの間の冬は寒い日が続き、本当に、ぶどうの木は枯れてしまったのではないかと思いました。実際、葉はすべて落ち、幹や枝もばさばさな感じになり、例年の冬より、ボロボロの状態になっていたのです。ところが春になり、また緑の葉が茂り、いますでに何房かぶどうが実りつつあります。植物の生きる力はすごいものだと感じます。私たちは、葉は落ちて枝もばさばさしてる、その状態を見て、もうだめだと現実に考えてしまいます。しかし、主イエスはおっしゃるのです。顔を上げて見なさい、そこには違う現実がみえるはずだ、神の現実が見えるはずだとおっしゃるのです。神の現実は豊かに実っているのです。すでに実っているのです。そして私たちはその刈り取りをさせていただきます。神が養い育ててくださったものを私たちが刈り取らせていただき、喜びの収穫を祝うのです。私たちの日々には労苦があります。多くの試練があります。しかし、主イエスと出会った者はすでに神の現実の中を生かされています。その神の現実のなかで、私たちは多くの実りを得ます。その実りは、わたしたちの労苦を越えて、神ご自身の労苦によって与えられるものです。それゆえに収穫の喜びは限りないのです。その喜びを私たちは味わいながら歩んでいきます。


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