大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書20章11~23節

2020-04-19 12:11:48 | ヨハネによる福音書

2020年4月19日大阪東教会主日礼拝説教「あなたがたに平和があるように」吉浦玲子

【聖書】

詩編126編

都に上る歌。

主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき/私たちは夢を見ている人のようになった。

その時、私たちの口は笑いに/舌は喜びの歌に満ちた。/その時、国々で人々は言った/「主は、この人たちに大きな業を/成し遂げられた」と。

主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。/私たちは喜んだ。

主よ、ネゲブに川が流れるように/私たちの繁栄を再びもたらしてください。

涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。

種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も/穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。

 

ヨハネによる福音書20章11~23節

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

【説教】

<挨拶の言葉>

 復活なさった主イエスは弟子たちに現れて「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。この平和という言葉は、聖書にはギリシャ語で書かれていますが、もともとはヘブライ語のシャローム「平安あれ」から来ている言われる言葉です。一般的にあいさつに用いられる言葉でもあります。「ごきげんよう」そういうニュアンスがあります。死人の内から蘇られたという新約聖書最大の奇跡の場面で主イエスが「ごきげんよう」というごく普通の挨拶の言葉を語られることに少し拍子抜けするような不思議な感じがします。

 マタイによる福音書での復活の記事でも、婦人たちの前に現れられた復活の主イエスは「おはよう」と声をかけられたと記されています。その「おはよう」という言葉は今日の聖書箇所の「平和があるように」とは別のギリシャ語でもともと「喜び」を意味する言葉です。この言葉もまた「おはよう」と訳されているように挨拶の言葉でした。

 復活なさった主イエスの最初の言葉は「ごきげんよう」であったり「おはよう」というような日常の言葉であったのです。復活ということ自体は非日常的な神の出来事だったのに、主イエスは、まるで逮捕から十字架の出来事がなかったかのように、木曜の朝の続きのように日曜日の朝、挨拶をされました。ごく普通に日常のなかで声をかけられました。これはとても印象的なことです。

 ところで、いま、日常ということを考えますと、世界中で、普通の日常が失われています。新型コロナ肺炎の蔓延のために、私たちの生活は一変しました。大阪東教会の前を、朝、多くの会社員の方が出勤していた風景も、子供たちがランドセルを背負って走っていく姿もありません。スーパーの棚には空いたところが目立ちます。スーパーに行くのも、いつもの買い物というより、食糧や必需品をどうにか入手するための<買い出し>に行く感じで、なんともいえない緊迫感があります。夜は、教会の周りの飲食店も休んでいるところが多く、以前は夜遅くでも人通りがありにぎやかだったのに、今は不気味なくらい教会周辺は静まり返っています。知り合いの自営業の方は売り上げが落ち、小さな子供を抱えて途方に暮れておられます。勤めている人たちにも雇用不安があります。

 普通の日常、「おはよう」とか「ごきげんよう」と普通にあいさつを交わす、ごく当たり前の日常、つまり当たり前の人間関係、人と人の間の近しい距離が今失われ、多くの不安、恐れがあります。

<新しい日常>

 翻って、主イエスは、弟子たちからも裏切られ、人間の罪と悪意のゆえに、十字架におかかりなりました。生身の体に釘を打ち込まれ、長時間かけて衰弱させられるやり方で苦しまれ息を引き取られました。肉体的に苦しまれただけではなく、さらし者にされ、罵られ、嘲笑されたのです。しかしなお、復活なさった主は、「平安あれ」「おはよう」と日常的な挨拶の言葉をもって弟子たちの前に現れられました。裁きや怒りの言葉ではなく、「平安あれ」「おはよう」とおっしゃり、弟子たちとごく普通の関係をもってくださったのです。ごく普通の関係というものがどれほどの価値があるのか、私たちは、ここ数週間でいやというほど知らされていますが、十字架と復活の出来事においても、それは鍵となることです。

 ところで、マグダラのマリアは今日の聖書箇所の前半のところで、復活の主イエスと出会っても相手が主イエスだとは最初分からなかったと記されています。墓があった園を管理している園丁だと思ったとあります。復活された主イエスの顔やお姿が以前と変わっておられたわけでもないのに、これは不思議なことです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」と声をかけられたその声が変わっていたわけでもありません。しかし、マリアにはそれが主イエスだとは分からなかったのです。

 主イエスが改めて「マリア」と呼びかけられると、はじめてマリアは相手が主であることに気づきます。主イエスが「マリア」という固有の名前をもって、特別に呼ばれたからです。私たちも個別に復活のイエスと出会います。信仰において出会います。信仰において、といってもそれは思い込みとか心の中で出会うというのではなく、主イエスご自身からたしかに一人一人を呼んでいただいて出会うのです。復活の主イエスと出会うということは、一対一の出来事です。一人一人が個別に呼ばれて、個別に出会うのです。

一方で、主イエスは厳しい言葉もおっしゃいます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」これは、主イエスとマリアの関係が以前とは変わったことを示します。マリアにとって「マリア」「先生」と呼び合うかつての日常が回復されたようでありながら、実は、その関係は変わったのです。先生と弟子として過ごした昔の日々がそっくり戻ってきたのではないのです。「平安あれ」「おはよう」交わす言葉は同じでも、一見、同じ日常が戻ってきたようでも、同じではないのです。十字架による罪の贖いの業を終えられ、これから、天に昇り、父の栄光を受けられる主イエスは、ナザレの人と呼ばれたかつての主イエスと違うのです。救い主、裁き主としての栄光を得られるのです。その栄光を受けられる主イエスとの出会いは、出会った者にとって新しい日常へ招かれることでありました。

 そして主イエスはマリアにおっしゃいました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい」と。新しい日常とは新しい使命を与えられることでもあります。「平安あれ」「おはよう」という普通のような日常にありながら、私たちは主イエスから新しい使命を与えられるのです。男性の弟子たちもそうでした。弟子たちは、三年半にわたり、主イエスと寝食を共にしてきたのです。宣教がうまくいっている時も、そうでない時も、主イエスにつき従ってきました。語り合い、食事をし、共に歩きました。「平安があるように」といつものように挨拶をされたからといって、これまでの日々がそのまま繰り返されるのではありません。21節で「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」そう弟子たちに主イエスはおっしゃいました。弟子たちは遣わされるのです。新しい日常において私たちも遣わされるのです。それはどこか遠いところに行くことでは必ずしもありません。まったく新しい場所へ行くとは限りません。昨日と同じ場所で同じことをするのであったとしても、神に遣わされる時、それは新しい日常になります。出会う人、向かう場所は変わり映えしなくとも、神から使命を与えられるとき、それは新しくされるのです。逆に、まったく違う場所、違う人々との日々が始まる場合であっても、神に遣わされる時、「平和があるように」とおっしゃってくださる主イエスと出会ったものは恐れる必要はないのです。

<教会>

 そしてまた22節で彼らに息を吹きかけて聖霊を受けなさいとおっしゃり、23節で「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」とおっしゃっています。これは罪の赦しと裁きについて語られています。この箇所はヨハネによる福音書におけるペンテコステとも言われています。聖霊を受けて、教会が立ちあがるのです。そしてその教会は、単なる、弟子たちの集まりではありません。聖霊を受けて遣わされる者たちの共同体です。そしてその遣わされる共同体には罪の赦しと裁きの権限が与えられます。

 これはマタイによる福音書18章の18節にある「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という主イエスの言葉につながります。教会は、主イエスご自身の権能である罪の赦しと裁きを委託されている共同体です。天につながる教会として教会は赦しと裁きの権能を受けています。洗礼と礼拝において、その権能は執行されます。それは人間が人間の判断や力で、誰かを罪に定めたり、裁いたり、赦すということではありません。聖霊によって権能を与えられた共同体の働きとして、罪の赦し、裁きが執行されるのです。

伝道や宣教ということが教会において言われます。それは単に教会に人を集めるための広報活動ではありません。教会は、仲良くお茶を飲んでおしゃべりするコミュニティを形成するところではありません。教会は聖霊を受けて、罪の赦しと裁きの権能を執行する共同体なのです。その罪の赦しに人を招くこと、赦されて新しく生きる道を示すことが伝道であり宣教です。人間にとって最も重要なことは神の前で、罪を赦され、罪から解放されることです。そこに本当の平安が与えられます。揺るがない喜びが与えられるのです。

<涙と恐れが消える>

 もう一度、今日の聖書箇所を最初から振り返りますと、マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていました。自分のすべてをかけていた大事な先生が死んでしまった、その亡骸すら盗まれてしまった、すべての希望が潰えたと彼女は思っていたのです。男性の弟子たちはユダヤ人たちを恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。自分たちもまた、主イエスのようにとらえられるのではないかと恐れていたのです。彼らもまた未来の希望が取り去られ恐れに満ちていました。弟子たちはそれぞれに涙と恐れの中にあったのです。これまでの自分たちの日々がすべて否定され、未来が失われてしまったと感じていたのです。

 その弟子たちの前に復活の主イエスは現れてくださいました。「弟子たちは主を見て喜んだ」そう書かれています。これも不思議なことです。死んだ人間がふたたび目の前に現れるということは、通常では単純に喜べることではありません。

 通常、このような場合、相手を幽霊だと思うのが普通です。実際、他の福音書には主イエスを弟子たちが主イエスを亡霊と思ったとも記されています。主イエスはご自身が幽霊みたいなものではないことを示すために「手とわき腹をお見せになった」のです。手とわき腹に残る傷を見せられ、決して自分が幽霊のようなものではないこと、十字架の前と同じように肉体を持っていることを示されました。もちろん鍵をかけた戸の中に入って来られたのですから、十字架の前のお身体とは少し違うようです。しかし、他の福音書には復活の主イエスが食事をとられたということも書かれています。十字架の前とは少し違いながらも、連続性をもった肉体によって蘇られたのです。

一方で、主イエスは幽霊ではないにしても、弟子たちとしては、主イエスに対して負い目がありました。主イエスを裏切ったという負い目です。幽霊ではなくとも、主イエスにお会いするのはばつの悪いことです。主イエスと出会うことは、自分たちの罪と弱さを示されることであり、けっして手放しで喜べることではありません。しかし、弟子たちは喜んだのです。なぜなら彼らの罪はすでに赦されたからです。十字架に彼らの罪もつけられて葬られたからです。復活のイエスと出会ったとき、彼らはそれが分かったのです。「平和があるように」という主イエスの言葉通り、彼らは恐れから平和、平安に移されたのです。

 不条理な出来事や自分のふがいなさのため、私たちは涙を流します。また未来への不安や恐れで胸が閉ざされる時があります。弟子たちのように、家の戸に鍵をかけ、そしてまた心の扉に鍵をかけて閉じこもりたくなるときがあります。逆に外に出たくても出ることのできない、現在のような閉塞感に満ちた日々を送らねばならない時もあります。しかし復活のイエスは「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださいます。重ねておっしゃってくださるのです。「あなたがたに平和があるように」と。

 弟子たちは、この言葉のゆえに、そして聖霊をいただいたゆえに、扉を開いて、新しい使命に生きる者とされました。それからの彼らの人生は、一般的な意味での、「平和」「平安」ではけっしてありませんでした。むしろ、困難な道を彼らは歩んでいったのです。迫害や困窮の中を彼らは歩みました。こののち、彼らは再び涙を流すこともあったでしょう。恐れを感じることもあったでしょう。しかし、もはや復活の主イエスと出会う前の彼らではありませんでした。彼らは知っていたのです。ぬぐわれない涙はないことを。詩編126編の詩人の言葉にあるように、「涙と共に種を撒く人は/喜びの歌と共に借り入れる。」のです。泣きながら出て行った人は喜びの歌を歌いながら帰ってくるのです。弟子たちは知らされました、取りされられない恐れはないことを。私たちは人生の途上、主イエスと出会います。聖霊によって主イエスの言葉を知らされます。そして涙をぬぐわれるのです。恐れを取り去られるのです。明日はどのような日か私たちには分かりません。しかしどのような日であっても、どんな未来がきても、私たちの涙は取り去られ、恐れは平安へと変えられるのです。「あなた方に平安があるように」その主イエスの言葉を繰り返し聞きます。



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