大阪東教会礼拝説教ブログ

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ローマの信徒への手紙 9章30~10章4節

2017-10-02 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年10月1日 主日礼拝説教「失望に終わらない」 吉浦玲子

<つまずく人>

 キリストは私たち一人一人の救いのために来られた。私たちはそのことを繰り返し、聞いてきました。救い主キリスト、十字架にかかられたキリスト、その十字架において人間の罪を贖われたキリスト、しかし、今日の聖書箇所ではそのほかならぬキリストご自身が人間にとって<つまずきの石>なのだと記されています。

 主イエスご自身がこの地上を歩まれた時代も、そののち、このローマの信徒への手紙が記された時代も、キリストはつまずきの石でありつづけました。人間はイエス・キリストという存在につまずくのです。

 神という概念であれば、まだ比較的受け入れやすいのです。全知全能の神、創造主なる神、もちろん無神論者は否定しますが、多くの人にとって聖書を読むとき比較的理解しやすいのです。信じるか信じないかは別として、イメージとしては分かりやすいのです。しかし、イエス・キリストには多くの人はつまづくのです。

 主イエスの時代であっても、パウロの時代であっても、現代でも、そうです。イエス・キリストに人々は必ず、つまずきます。それは、まじめすぎるからつまずくのです。一生懸命過ぎるから、つまずくのです。かつてのイスラエルの人々がそうでした。イエス・キリストにつまずいた代表格が福音書に出てくるファリサイ派や律法学者です。彼らは福音書においては悪役で、石頭で、人を裁き、冷たい人々だと感じられます。しかし、マタイによる福音書を共に読んでおりました時も、たびたび、語りましたように、実際の当時のファリサイ派や律法学者は一概に悪役のような存在とは言えません。まず第一には、まじめな人々だったのです。ひたすらに義、正しさを求めていたのです。パウロが「イスラエルは義の律法を追い求めていた」と31節に語っています。ほんとうにまじめだった、熱心だった。しかし、そのまじめなファリサイ派や律法学者に代表されるイスラエルは「その律法に達しませんでした。」「それは信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。」とパウロは語ります。

 彼らが律法を守りながら、なお、律法に達することができなかったのは、彼らが行いによって義の律法に達せられるかのように考えたせいだとパウロは語ります。

<なぜ行いによろうとするのか>

 でも、考えていただきたいのです。私たちは私たちの行いがすべて正しいなどと思えるでしょうか?そうとうに傲慢な人であっても自分には一点の誤りもないなどとは言えないでしょう。まして長い人生の中で、自分は誤った行いは一度もしていないなどと言える人はいないはずです。普通に考えたら、だれでも自分たちの行いには限界があることは分かるように感じます。

 そんな限界のある私たちの行いを正しいと考えるためには、おおざっぱにいって二つの方法があるかもしれません。一つは、正しい正しくないを判断する範囲を限定するということです。たとえば、安息日にシナゴークにいけば正しい、食事の前に手を洗えば正しい、日に三度お祈りをしたら正しい、、、たくさんの正しくなるための行動のチェックリストがあって、そのチェックリストにもれなくチェックできれば、自分は正しいとするというようなやり方です。そうしますとこういうことがおこります。安息日にも羊の世話をするためにシナゴークに行けない労働者である羊飼いは正しくない、とみなす。あるいは自分は手を洗って食事をしているが、同じ町の中で飢えている貧しい人々には無関心になる、あるいは日に三度お祈りしているけれど、それはただ形だけで、神へむかう真摯な気持ちはない、そういったことが起こって来ます。つまり正しい正しくないを限定的にするとき、その限定から外れてくる人が出てきます。あるいはその限定的な行いの本質が神と隣人へのまことの愛から程遠いということが起こって来ます。もちろん律法は本来は行いを正当化するためのチェックリストではありませんでした。神と人間を愛するというというのが律法の根本にありました。しかしその根本を忘れた時、律法は行いの正当化に用いられるようになりました。

 行いを正しいと考えるもう一つのやり方は、正しくないことをしたときのその行為への代償を払って正しくないことをなかったことにするということです。実際、主イエスやパウロの時代、罪の贖いのための儀式と言うことが行われていました。大雑把な言い方になりますが、その儀式を行えば、正しくなかったこともなかったことになると考えられたのです。

でも、いずれにせよ、結局のところ、自分の行いに価値観を置いている限り、そこには真の平安や喜びはありません。行いに価値を置いている時、キリストは理解できず、つまずくのです。

<愛を乞う>

 ところで「愛を乞うひと」という題の映画がありました。乞うという字は物乞いの乞いです。題名だけで何となく辛い感じがする映画です。実際、この映画の主人公は幼いころ、母から折檻を受けて育ったのです。その娘が中年になっても、折檻を受けたという辛い過去に縛られ精神的にも母から縛られていたけど、最後には解き放たれるという話です。この映画に限らず、そもそも子供は「愛を乞う」のです。それは子供が生存していくために必要なことです。子供は生きていくために大人の力が必要です。しかし、普通の家庭であれば、子供が乞うまでもなく、親の方が子供を愛して子どもの必要を満たします。しかし、さきほどの映画のように歪んだ親子関係で育つ時、子供は歪んだ形で愛を乞うようになります。それは親に対してもそうですし、大人になってからの人間関係においても歪んだ形での人間関係を作ってしまいます。良く聞く話ですが、ひどい虐待をうけて保護された子どもがそれでも親のことを庇うことがあるらしいのです。ぶたれたのは自分が悪いからだ、お母さんは悪くない、そういうことがあるらしいです。それは子供が肉親の情として本当に親を愛しているからというより、歪んだ関係の中で、親を否定していては生きていけなかったからです。その結果、虐待されたのは自分が悪い、自分の行動が悪かったのだと思うようになるのです。

虐待と言った酷い関係ではなくても、親子関係において適切な愛の関係を築けなかった時、子供は無意識のうちに親の愛を乞う存在になります。無意識のうちに自分がこうしたら親に認められるだろう、こうなったら親が愛してくれるだろうと考えるようになります。そんな子供は大人になってもやはり愛を得るには自分の行動が必要だと感じるようになります。相手から愛してもらうためにあれもやりこれもやる、しかし愛してもらえない、まさに「愛を乞う」のです。そして空回りして疲弊して、結局愛を得ることができないのです。愛を乞うというのは、愛が自分の行動の見返りとして与えられると感じているということです。しかし、本来、愛は自然に与えられるものです。愛は乞うている限り、得られませんし、行動の見返りとして与えられるものは本当の愛ではありません。

<正しい認識のために>

しかし、実のところ、これは特別な生育環境にあった人間だけの問題ではありません。神の愛、キリストの十字架によって示される愛を知らない限り、すべての人間は、自分の行動によって愛を得られると考えるのです。この世界において人間の愛は限定的で、多くの場合、条件つきであるからです。

たとえば、パウロは回心をする以前はばりばりのファリサイ派でした。自分の行いによって律法の義を求めていた人の一人でした。そのパウロはキリストと出会い、キリストの愛を知って、変えられました。その愛はパウロの行いによって与えられたものではありませんでした。律法の義を求めていた正しい行いをしていたはずのパウロは「愛を乞う」人のように空しく、しかし熱心に生きていました。自分の行いの正しさを求めていました。自分の行いによって良い報いが与えられると思っていました。そしてまたそんな自分を誇っていました。それが当時のイスラエルのあり方でもありました。

しかし、それは本当の愛を知らず、自分の行いで愛を乞う人のようなものであったのです。自分の行いに基盤を置いている限り、キリストの姿は見えてきません。愛は見えてきません。キリストの愛の源である十字架は理解できません。イエスと言う男は、ただみじめな若死にした宗教グループのリーダーにしか見えません。そんなイエスを救い主だといわれると、多くの人はつまずきます。

キリストにつまずき、行いに価値を置いている限り、人間は自分の行いに誇りをもつようになります。善い行いをしてそのことを誇っていけないのか?そう感じる方もおられるかもしれません。その行いの動機が自分がそれによって何かを得ようとするものであるならば、行い自体が良いものであっても、やはりそれは良くないことなのです。イスラエルが行いによって自分を義としようとして傲慢になったように、行いは人間を思い上がらせるものになるのです。

 パウロはイスラエルがつまずいたのはその行いにおける熱心さが「正しい認識に基づくもの」ではなかったからだと10章3節で語ります。「正しい認識」というのは神の愛が自らの行いのゆえではなく、一方的に与えられるものであるという認識にほかなりません。

 それは現代に生きる私たちにもあてはまります。自分たちの正しさ、行動に基準を置いている限り、イエス・キリストは理解できません。つまずきます。十字架の贖いのことを頭では理解していても本当のキリストの愛はわかりません。自分の正しさが基準であるとき、私たちには十字架が理解できません。教会に集う私たちは、主イエスのことを聞いて知っています。だからキリストにつまずいていないと感じますが、往々にして私たちもまた自分の行動や価値に縛られて考えてしまいます。自分の側に愛される条件が必要だと感じてしまいます。キリストの愛はすでに与えられているのに、私たちは行動において往々にして愛を乞うのです。すでに愛が与えられていることを認識できず立派なクリスチャンになろうとして、疲れていきます。逆にすでに愛されているのだから何をしても良いのだという態度も「正しい認識」に基づいたものではありません。神の無条件の愛を本当に知ったとき、人間はそのときこそ、正しい行いができるようになるからです。キリストは律法の目標であるというのはそういうことです。神の愛をすでにいただいていることを正しく認識したとき、私たちは本当の意味で正しい者として生きていくことができます。神の愛の光の中で、神の愛に応えた生き方をする者と変えられていきます。

 しかし、人間の認識はどうしても弱いものです。神の愛を正しく認識できなくなります。

 その弱い人間のために与えらえたのが聖礼典です。洗礼と聖餐は、私たちがキリストの十字架に示された愛を正しく認識することができるために制定されたものです。聖礼典は霊験あらたかななんとなくありがたい儀式ではありません。私たちはこれから聖餐にあずかりますが、聖餐は、神の愛が、キリストの十字架の死によって、血を流され肉を裂かれた貴い犠牲によってわたしたちに示されたことを知らせるものです。わたしたちはつまずくことなく、神の愛に、キリストの光の中にすでにあることを感謝してあずかりましょう。そして聖餐と御言葉によって今日も、新しくキリストはつまずきの石ではなく、失望に終わらない希望の源であることを知らされます。


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