大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第8章31~38節

2021-06-06 15:23:27 | マルコによる福音書

2021年6月6日大阪東教会主日礼拝説教「命を失うものが命を得る」吉浦玲子 

<サタン、引き下がれ> 

 今日、お読みした聖書箇所では、ペトロが、弟子たちを代表して主イエスに叱られています。しかも、「サタン、引き下がれ」とサタン呼ばわりまでされています。「サタン」とは敵対する者、妨害する者という意味です。主イエスはかなり手厳しくお叱りになったのです。なぜこのようなことになったのでしょうか。そもそも今日の聖書箇所の前の部分には、主イエスがご自身のことを何者だと思うのかと弟子たちに問われる場面がありました。それに対し、ペトロはここでも弟子たちを代表して「あなたは、メシアです」と答えています。メシアという言葉は、もともと<油注がれた者>という意味で、旧約聖書においては王とか特別に神に選ばれた者を指していました。王は実際に油を注がれて戴冠したのです。しかし、やがて、「油注がれた者」という言葉は、人びとを救う「救い主」の意味で用いられるようになりました。弱小国家で、周囲の強国にいつも虐げられていたイスラエルの人々は、イスラエルを救い出してくれる救い主を待望していたのです。ペトロはまさに主イエスこそが、イスラエルが長い長い歳月のなかで待望していた救い主だと答えたのです。これは答えとして間違ってはいませんでした。 

 しかし、そのあとで主イエスはご自身の受難と死を語られました。それで、ペトロは動転したのです。主イエスはかなり強い口調でおっしゃったのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とありますが、この「なっている」は「ねばならない」というような強いニュアンスの言葉です。これは衝撃的な言葉でした。ペトロにとって、というよりも、当時のイスラエルの人々にとって、メシアはダビデのような強い王としてやってくるはずでした。そのメシアが苦しみにあって死ぬなどはありえないことでした。復活というのも、世の終わりの時、最後の審判の時に起こることなので、三日の後に主イエスだけが復活するということも理解しかねることでした。ペトロがおかしかったのではなく、主イエスのおっしゃることは、当時のユダヤの人々の常識からあまりにかけ離れていたのです。 

 私たちは、すでにペンテコステを経て2000年のちの世界に生き、これから起こるキリストの受難と死のストーリーをすでに知っているので、ペトロのこの時の思いがなかなか理解できません。そもそも、人間的に考えても、自分の大事な先生が死んでしまうなんて聞きたくもないことです。リーダーとして、そんな縁起でもないことを他の人々の耳にも入れたくはなかったでしょう。ですから、主イエスを脇にお連れしていさめ始めたのです。 

 しかし、主イエスのお言葉は「サタン、引き下がれ」でした。たしかに先生に向かって諫めるというのは、出過ぎた真似のようにも感じられます。しかし、サタンとまで言われないといけないことでしょうか。ペトロは悪意をもって主イエスを批判したのではないのです。主イエスの言葉は厳しすぎるようにも思えます。ペトロにしてみたら、何もかも捨てて主イエスに従い、主イエスにどこまでもついていこうと思っていたのです。そしてそれは、イスラエルという国の救いのため、人々の救いのためでした。もちろんペトロをはじめとした弟子たちに人間的思いがなかったとはいえません。弟子たちの中で誰が一番偉いかなどと言いあっているところも福音書には描かれています。しかし、相当な犠牲を払い本質的には人々のために労苦をしてきたペトロが敵対者、妨害者と言われてしまったのです。しかも、主イエスは弟子たちを見ながら「引き下がれ、サタン」とおっしゃいました。つまりこの言葉は、弟子たちすべてに投げられた言葉といえます。ペトロは脇へお連れして二人だけで話をしたのに、主イエスは弟子たち全員に向かっておっしゃいました。 

<人間のことを思っている> 

 主イエスはさらに続けられます。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」メシアが神々しい姿で現れてほしいというのは人間の思いです。ダビデ王のように連戦連勝で敵を蹴散らしてほしいと願うのは人間の願いです。しかし神は、神の自由なありかたでご自分の計画を進められる方です。そしてそれは人間からは及びもつかないあり方で成し遂げられていくのです。時として理不尽に感じられたり、人間にとっては不幸と思われるようなことも神のご計画のうちにあります。 

 ところで、教会の中で時々言われる言葉に「人間を見ずに神を見なさい」というものがあります。これは主イエスの「神のことを思わず、人間のことを思っている」という言葉に通じるところがあるように聞こえる言葉です。特に、教会の中で、人間関係などで嫌なことがあったとき、「あの人はどうだ」とか「この教会の人たちはこういうことでけしけしからん」「あの牧師の言葉は愛がない」などと批判的に周りの人間のことを思うのではなく、神だけを見上げなさいという意味で言われることが多い言葉です。ただ、場合によっては、この「人間を見ず、神を見る」という言葉は、どこか周りの人間を見下した感じも無きにしも非ずな言葉です。周りの人は神を見上げていないけれど、自分は見上げているというニュアンスも感じられないこともありません。そもそも今日の聖書箇所の「人間のことを思う」、あるいは「神のことを思う」という主イエスの言葉は、単純に神様だけを見上げましょうという意味では言えない言葉です。 

 主イエスはもっと厳しいことをおっしゃっているのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」自分の十字架を背負うということも、クリスチャンでない人も使う、よく知られた言葉です。覚悟をして自分の重荷を負っていくというニュアンスであったり、ままならない運命を引き受けていくというイメージがあります。 

 しかし、この言葉で大事なことは「わたしの後に従いたい者は」とおっしゃられていることです。自分でこれは自分の運命だと考えて引き受けるのではなく、なにより主イエスの「後ろに」従うということが前提なのです。さきほど、主イエスはペトロに「サタン、引き下がれ」とおっしゃいましたが、この言葉は「私の後ろに行け」という意味で原語には明確に「後ろ」という言葉が入っています。実際、ペトロは主イエスの前にいたのです。だから「後ろに行け」と言われたのです。つまり「神のことを思う」ということは、まず第一に神の後ろに引き下がるということです。人間が人間の思いで勝手にこれは神の御心だろう、これが私の十字架だろうと思って、それで神を見上げているつもりになってはいけないのです。私たちは、主イエスの後ろに従い、十字架を担って歩むのです。 

 一方、人間のことを思うというのは、人間に対してよいことをするということです。ペトロたちはまさにイスラエルの人々のためによいことをしようと考えていたのです。今日の聖書箇所と同じ章に、4000人の人々に食べ物を配ったという奇跡物語がありました。空腹だった人々はその食事で満たされました。ペトロたちはパンと魚を配って廻り、人びとから感謝されました。ペトロたちはそういう労苦は惜しまなかったのです。さらにイスラエル全体が救われたら、ペトロたちはイスラエルの人々全体から賞賛を得ることができるでしょう。もちろんペトロたちはそのような賞賛を得ようと思って、イスラエルの人々のために働きたいと願っていたわけではないでしょう。純粋な故国への思いと、また、宗教的な熱心さがあったでしょう。 

 しかし、主イエスはおっしゃるのです。神のことを思うということは、賞賛を得るようなことをするのではないのだと。ひたすらイエスの後をついていくことなのだと。そしてそれは時として非常識なことであり、人々から排斥されるようなことなのだとおっしゃるのです。先週までお読みしました使徒言行録において、パウロも迫害に次ぐ迫害の人生でした。みじめに囚人としてローマまで護送されていく歩みでした。それがパウロにとって主イエスの後に従うことでした。そこには賞賛やこの世的な誉れはありませんでした。 

 では、キリスト者として生きることは、ただただ苦しみの中をキリストの後姿を見ながら歩むだけのしんどい歩みなのでしょうか? 

<まことの自由> 

 実はそれは逆なのです。私たちの歩みはこの世的には何も生み出さないかもしれないのです。賞賛も誉れもないかもしれません。しかし、それでいいのだ、そこに平安があるのだとおっしゃっているのです。それは欲望を棄てて自我も捨てて、ただただ淡々と生きるということではないのです。むしろ、人のことを思うことなく、自由に、生きていくことができるということです。主イエスの後ろに従って歩むとき、わたしたちは人間の思いから解放されるのです。賞賛や誉れを得なければならない生き方はしんどい生き方です。賞賛や誉れというと特別なことのようですが、私たちは特別な賞賛や評価は求めていなくても、やはり社会の空気や、周囲のさまざまな思惑の中で生きていきます。それは私たちの日々の縛りともなります。もちろん私たちは日々の生活をしていく上での、そのような周囲から完全に逸脱して生きることは現実的には難しいでしょう。しかし、自分たちの生きる軸が、主イエスの後に従うことをであるということであるなら、私たちを縛るさまざまなことを絶対視する必要はないのです。パウロはみじめな囚人として護送され、たしかに不自由な生活を強いられました。しかし、彼は護送されている船の中で、もっとも自由で、もっとも何事にもとらわれない存在でした。何日も続く暴風の中で人々が希望を失っていた時も、パウロは希望をもっていました。そしてむしろ人々を励ますことのできる存在でした。 

 そしてまた主イエスの後に従うということは、ちっぽけな自分のこだわりも捨てるということです。「自分を捨てて」というのは、無我の境地になるとか、自我を捨てるということではありません。自分という人間のことばかり思わず神を思うということです。最も自分を不自由にしているのは、往々にして、自分自身のこだわりであったりするのです。34節を見ますと「それから群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」とあります。すべてを棄てて従ってきた弟子と、弟子ではない群衆を主イエスは同列に集めて言われたということです。これは弟子たちにとっては面食らうことだったと思います。ただ何となく興味をもって主イエスの話を聞いている人々と自分たちが同一に扱われているのです。しかしこれも重要なことです。最も大事なことだから、主イエスはすべての人々に言われたのです。この言葉の前に、弟子も群衆も関係がない。信仰の長さも関係がない。洗礼を受けたばかりの人も、何十年も信仰生活をしている人も、同じく、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という言葉を聞くのです。 

<命を救う> 

 そしてそれは命を救う言葉です。人の賞賛を得ることはない、自分自身にとっても達成感の少ない徒労のように思える十字架を担って歩む歩みは、復活の命へ向かう歩みだからです。キリストが十字架の死の後、復活されたように、私たちもまた十字架を担ってキリストの後を歩むとき、復活の命、まことの命に行きつきます。この世の賞賛は、肉体の命と共に尽きます。いやそれ以前に、いったん手にした賞賛も手のひら返しのようにバッシングとなることだってあります。しかし、復活の命は永遠なのです。私たちのこの地上の限りある命が、主イエスの後に従い、自らの十字架を負って歩むとき、永遠の光の中に置かれるのです。つまらない日々、変わり映えのしない毎日、あれこれしんどい人生が、主イエスの後ろに従って歩む時、主イエスの永遠の光に照らされます。その時、私たちの命は、たしかな意味を持ち、輝かされるのです。ペトロもそうだったのです。イエス様に叱られた。今日の聖書箇所の後でも何度も失敗をした。しかし、そのすべてのことを語るのです。のちに「ペトロの手紙」としてまとめられた手紙にはそのようなペトロのある意味、情けない過去があったからこそ、伝えたいと願った言葉があふれています。失敗もみじめさもすべて無駄ではなかった、いやむしろ主イエスによって輝きに変えていただいた。だから彼はのちに続く人々に語り続けたのです。単なる失敗談や後悔の思いを語ったのではなく、むしろそこにこそ福音がある、喜びがある、そうペトロは語りました。わたしたちまたそうです。私たちは主イエスの後に従うとき、すでに御国を先取りして歩みます。いっぱいもするかもしれない。主イエスからおしかりを受けるかもしれない。でも大丈夫なんです。主イエスの後ろを歩む限り、私たちはすでに永遠の子供、喜びの子供なのです。 



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