大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書2章13~25節

2018-06-08 17:14:32 | ヨハネによる福音書

2018年5月20日 大阪東教会主日礼拝説教(ペンテコステ礼拝) 「主イエスの怒り」吉浦玲子

<悪い奴らはだれか?>

 今日の聖書箇所は一般的に「宮清め」と言われる場面です。過ぎ越し祭のとき、多くの人々がエルサレムに巡礼にやってきました。エルサレムの人口は祭りの期間、普段の何倍にも膨れ上がります。そしてそのエルサレムに来た人々は、エルサレム神殿を巡礼しました。その神殿の境内では、神殿に巡礼に来た人々がささげ物としてささげる動物を売っているのです。ささげ物の動物は律法に定められているように傷のないものが必要でした。動物なら何でもいいということではありませんでした。ですから神殿においてささげ物として認められる動物があらかじめ準備され売られていたのです。また献金としてささげるお金はローマのお金ではだめで、当時は一般に流通していなかった半シェケル銀貨に両替しないといけませんから両替商も出ていました。動物を売ることも、両替して手数料を取ることも、律法にしたがって、神殿で礼拝を捧げるために認められていることです。けっして律法違反ではなかったのです。

 しかし、主イエスはその様子を見て大いにお怒りになりました。柔和で寛容なはずのイエス様からは想像のできない言動です。「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人のお金をまき散らし、その台を倒し」と書かれています。イエス様はこともあろうに鞭を振り回されたのです。動物たちを追い出しました。お金もまき散らしました。牛や羊が鳴きながら右往左往し、鳩が飛び回り、石造りの庭の地面に硬貨がまき散らされてすさまじい音を出し、なにより、ごった返していたであろう祭りに来た人々の驚きの声と商売人たちの怒声が響き渡っていたでしょう。随分と派手な大立ち回りです。

 たしかに、神殿の境内ではあこぎな商売がされていたようです。動物を高い値段で売りつけ不正な利益を商人たちはあげていたのです。そしてその売り上げのなかから、神殿にもお金は支払われていました。神殿の関係者もまた、不正なお金で私腹を肥やしていたようです。そうであるならば、主イエスの大立ち回りは、悪徳商人や私腹を肥やす神殿に仕える人々への正義の怒りのゆえといえます。時代劇であれ、現代のドラマであれ、この世の悪に対して戦う人の姿に、それを見ている人は溜飲を下げます。この時のイエス様の行動も、悪い奴らをぎゃふんと言わせる、すかっとするような行動だったのでしょうか?そうとばかりは言えません。

<商売の家とは>

 主イエスは「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」とおっしゃいます。「わたしの父の家」ということは、もちろん「神の家」ということです。では「商売の家」とはなんでしょうか?たしかに神殿の境内で商売がなされていました。しかし、先ほども申し上げましたように、境内で商売をすること自体は律法で禁止されていませんでした。適正な利益を上げている商売は良くて、不正な利益を上げる場合は「商売の家」と主イエスは区別されるのでしょうか。それもなにか不自然な感じがします。

 そもそも神殿、そして主イエスが「わたしの父の家」と言われる「神の家」とはなんでしょうか?そこは神と人間が出会う場所です。といっても、父なる神は本来、人間が作った場所にお住まいになる方ではありません。また、この地上の、特定の場所で、神が人間と出会ってくださるわけではないのです。イスラエルで最初に神殿を建てたソロモンはその神殿奉献の時の祈りの中でこう述べています。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしの建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」しかしなお、神は、そこで神を礼拝し、神と出会いたいという人間に神殿という場所を与えてくださり、そこで人間と出会ってくださる神です。本来はソロモンの言うように、天も、天の天にも納まらぬおおいなるお方が、愛ゆえに神殿で人間と出会ってくださるのです。ですから神殿は、人間と出会ったくださる神、人間と交わりを持ってくださる神へ、人間が心を向けるべき場所です。神をまず第一に求めるべき場所です。

 しかし、物理的に神殿にいたとしても、その心が神を第一に求めていない時、どんなにそこが壮麗な神殿であっても、「神の家」とは言えません。適正な利益を上げている商人であっても、神のことよりも利益をまず第一に考えているということがあるかもしれません。もちろん利益を上げて、自分や家族は生活をしていかねばなりません。しかし、自分の利益だけがその心にあるとしたら、その人は、神殿を神の家ではなく商売の家にしているのです。そしてまたエルサレムに巡礼に来ている多くの人々も、信仰熱心のようでありながら、本当に心は神を求めていたのかという問題があります。

 それは厳しい言い方のようですが、分かるようなところがあります。私自身、クリスチャンになる前、正月には神社に初もうでに行っていました。当時、けっして、神社やお寺をばかにするような気持ちは毛頭ありませんでした。むしろそこはなにか神聖な場所なんだと思っていました。軽んじる気持ちなどなく、神聖な場所だとありがたい気持ちで初もうでをしたのです。普段はまったく信仰的な生活をしていなくても、年に一度くらい改まった気持ちで神仏に手を合わせるのも悪くないという気持ちでした。そして真剣に願い事をしたのです。

 しかし、考えてみれば、そこにあったのは、自分の願いを聞いてくれる神を求める気持ちでした。自分が中心にあって、自分に良いことをしてくれる神を求める心でした。そこに自分としてはまったく悪意はありませんでした。それが普通のことだと思っていました。

 新約聖書の時代のイスラエルの人々は、現代の日本の人々と比べたら、少なくとも初もうでをしていた私などよりも、普段からはるかに信仰的な生活を送っていました。かつての私のように年に一回だけ神社で手を合わせるというような生活とはまったく異なりました。毎日、律法にのっとって生活をしていたのです。過ぎ越し祭でエルサレムにまで巡礼に来ていた人々は特に信仰深い人々だったでしょう。遠路はるばる来ていた人々もあったのです。しかし、その熱心な人々もまた、自分の信仰熱心さと引き換えに神に自分の願いの成就を求めるならば、それはまるで神様と商売をしているようなことになります。主イエスはそのような人々の心を見抜いて「商売の家」とおっしゃったのです。

<本当の神の家>

 イエス様に大立ち回りをされ、自分たちの商売の妨害をされた商売人たちは憤慨して言います。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」自分たちの商売を妨害する代わりに、あなたはなにかしるし、奇跡にことですが、ここでは端的にはなんらかの利益をわたしたちに与えるのかと言っています。主イエスはこの前の場面で、婚礼の席で足りなかったぶどう酒を満たされるというしるしをなさいました。それは喜びを満たしてくださるしるしでした。神と共にある喜びのしるしでした。しかし、ここで商人が言っているのは、自分の商売の利益、日々の生活の必要に関わることです。神のしるし、神の奇跡を自分の日々の必要のレベルでしか考えることができないのです。それがこの世に生きる人間の姿です。

 そして、これは私たちも同様です。生活のための必要があるのです。生きていくための利益が必要なのです。祝いの宴のぶどう酒よりも日々の米やパンで精一杯なのです。将来の教育費や介護の心配の方が差し迫っているのです。もちろん主イエスもそのようなことは十二分にご存知です。御存知の上で神殿を神の家とせよとおっしゃっているのです。

 主イエスはおっしゃいます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それに対して商売人はこの神殿は建てるのに46年かかったと答えています。しかし、歴史をひもときますと、<この神殿>と言われている神殿は、かつてソロモンが紀元前10世紀に建てた壮大な神殿が、紀元前6世紀にバビロニアに徹底的に破壊されたのち、再建され、更に紀元前1世紀にヘロデ大王によって大改築された神殿です。46年どころではない、もっともっと長い歴史の中で、おびただしい人の力と思いによって建てられた神殿です。それを三日で建て直してみせるという言葉には、商売人でなくても驚かされます。

 しかし主イエスのおっしゃった神殿は、「御自分の体のことだった」と後から弟子たちが気がついたことが記されています。そうです。主イエスは三日で神殿を建て直されました。十字架におかかりになって、三日目に復活をされた、それはまさに三日で神殿を建て直すということでした。

 そしてそれは、まことの主イエスの父の家、神の家を、私たちのために建ててくださるということでした。商売でいっぱいいっぱいのわたしたちのために、日々の必要でいっぱいいっぱいのわたしたちのために、本当に、神と出会うことのできる神殿を建ててくださったのです。御自身の体を壊し、三日で建て直されました。現実のエルサレム神殿は紀元70年にローマによって破壊されます。もういまはありません。目に見える形のでの神殿はなくなりました。しかし、いま、私たちは、主イエスの建ててくださった新しい神殿を知っています。

<聖霊の住まい>

 それは私たち自身です。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか(コリントⅠ3:16)」

 今日は聖霊降臨日です。復活された主イエスは、地上を去られ、いまは父なる神の右の座しておられます。しかしその代わりに、聖霊降臨日に聖霊が与えられました。聖霊は、いま地上にはおられないキリストを示してくださる霊です。神の霊であり、またキリストの霊です。それはなにかもやもやとしたものではなく、はっきりとした力です。聖霊によらなければ主イエスは主であると私たちは言えません。キリストを知ることができるのは聖霊の力によります。つまり私たちに信仰を与えてくださるのが聖霊です。聖霊の導き、つまり神の力によって私たちは信仰に導かれます。そしてまた、信仰に導かれて信仰を告白し洗礼を受ける時、私たちの内側にも聖霊を入ってきてくださいました。あ、いま、聖霊が私たちの上に降りて来たとか、私たちの中に入ったとか、はっきり分かる形で私たちは聖霊を受けなかったかもしれません。しかし、私たちは、神の霊を宿す神殿とされました。神殿である私たちは神と出会うことができます。エルサレムの神殿に行かなくても神と出会うことができます。聖霊がおられますから、私たちは御言葉と祈りによって神と出会うことができます。日々の必要でいっぱいいっぱいの私たちは、その日々にあって、神と出会うことができます。日々の糧を与えてくださる神の導きを感じることができます。明日のことまで思い悩むなとおっしゃってくださる神の言葉を聞くことができます。日々の思い悩みの中で、その思い悩みゆえに日々のことでいっぱいいっぱいで神へと心を向けることのできない私たちの心を神へと向けてくださいます。

 そしてまた神殿は礼拝でもあります。教会の会堂という建物自体は神殿ではありません。しかし、共に礼拝を捧げる共同体は神殿といえます。2000年前、聖霊が降臨した日が教会の誕生日だと言われます。聖霊が注がれているゆえに、私たちは共に御言葉に聞き、祈る共同体とされました。なんとなくありがたく神聖な感じがする会堂や儀式が礼拝ではありません。礼拝には聖霊の力が満ち満ちているのです。聖霊のゆえに、礼拝において、私たちはキリストの出来事を体験をします。御言葉において、そしてまた聖餐において、いま天におられるキリストが、地上にある私たちと共にもおられることを、知ります。そしてまさにキリストが語られることを体験します。聖霊の力によって体験をします。

 地上では、どんなに壮麗な、華麗な神殿もやがて破壊されます。最新テクノロジーによって作られた建築物も永遠には続きません。私たちの人生にも永遠に続くことはありません。確実なものはありません。しかし、ただ一つ確実なことは聖霊によってすでに私たちは神殿とされている、ということです。私たちはすでに永遠に失われない、神殿とされているということです。そこで神と出会い、平安と喜びの内に、日々を歩みます。w


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