大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ルカによる福音書1章57~66節

2019-01-25 17:25:47 | ルカによる福音書

2018年12月16日大阪東教会主日礼拝説教 「クリスマスの先触れ」吉浦玲子

<誕生>

 洗礼者ヨハネが生まれました。近所の人々や親類が喜び合っています。新しい命が生まれる、それはごくごく素朴に喜ばしいことです。人間の命には限りがあるゆえに、新しく生まれてきた命に、自分の命の終わりののちも続く未来への希望を託したい、意識的にも無意識的にもそのような感覚が人間にはあるかと思います。

 ところで、日本において平成という時代はもうすぐ終わります。おそらく新しい元号の時代が始まった日、その日に生まれた子供がニュースに出るでしょう。実は私の息子は平成元年の一月生まれです。平成という時代が始まった日、私はすでに出産予定日を過ぎていたのですが、まだ生まれる気配はありませんでした。その日、テレビには「平成最初の子供」といってその日生まれた赤ちゃんがニュースに映っていました。うちの子もその日に生まれていたら平成最初の日に生まれた子供だったのですけど、そうはなりませんでした。しかし、元号の代わり目にかかわらず、新しい命は新しい時代の象徴でもあります。また、誕生ということではありませんが、東日本大震災の時、津波に流された四カ月の赤ん坊が救出されたというニュースがありました。変わり果てたがれきばかりの風景の中で助け出した赤ん坊を抱いている自衛隊員も周りの人たちも笑顔でした。救出した人にとっては家族でも親類でもない赤の他人の赤ん坊です。しかし、絶望的な状況の中で、たった一人の赤ん坊が人々に笑顔を与えました。命、それも生まれてきたばかりの命は、その存在は大人の腕の中に納まるように小さくても、大きな力を人々に与えます。

 さて洗礼者ヨハネも、近所の人々や親類に喜ばれながら生まれてきました。ユダ地方の山里のことです。おそらく都会よりもご近所の結びつきは大きかったでしょう。近所の人々にとっても、親族にとっても、たいへん喜ばしい出来事です。ことに高齢で子供のいなかったエリサベトが、神の不思議な働きによって、子供を身ごもり、産みました。そして「主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて」喜び合ったのです。エリサベトと生まれてきた子供には神の特別な慈しみがあった、それは人々にさらなる喜びを与えました。神の特別な慈しみによってエリサベトのみならず周りの人々もまたおおいに慰められたのです。エリサベトの腕に抱かれた小さな赤ん坊は、神の大いなる慈しみを人々に表しました。この赤ん坊の誕生は、単にありえない幸運がエリサベトに転がり込んできたから喜ばしいのではなく、神の慈しみのゆえであるからこそ大きな喜びなのです。

 そしてまたその誕生は、新しい時代の始まりを告げるものでした。洗礼者ヨハネは、最後の預言者と言われます。旧約聖書の時代、多くの預言者が出現しました。そしてイスラエルに神の言葉を伝えていました。しかし、バビロン捕囚、神殿再興ののち、イスラエルに預言者は絶えたのです。そのイスラエルに、数百年ぶりに現れた預言者が洗礼者ヨハネでした。ヨハネは旧約聖書の時代の終わりをつげ、救い主が到来する新しい時代の先触れでした。それは単にイスラエルの歴史的時代にとどまらず、壮大な神の全人間救済の歴史の大きな代わり目を示したのです。

<賛美をし始めた>

 その喜びの誕生の場面がざわつきます。子供が生まれ、八日目に割礼を施し、名前を付ける、それはユダヤの人々にとって当たり前のことでした。現代でもユダヤ教徒の方は生後八日目に子供に割礼を施します。現代のイスラエルで、知り合いのユダヤ人家族の割礼の場に同席した方から、その場面のホームビデオを見せていただいたことがあります。厳粛な場面ではありましたが、家族たちが集まる本当に喜びに満ちた光景でした。今日の聖書箇所の、エリサベトの子供の場合も同じように和やかな雰囲気の中で割礼が進み、さあ名づけを、というところだったのでしょう。そして子供の名前は、当時、家族や親族の名から取るのが慣例だったようです。ところがエリサベトは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言います。女性には名づける権限はありませんでしたから、人々は父のザカリアに聞きました。

 ザカリアはまだエリサベトが身ごもる前、聖所で香をたいているとき天使ガブリエルと出会いました。そこで妻であるエリサベトが男の子を生むとガブリエルから聞きました。しかし、そのガブリエルの言葉を信じることができなかったザカリアはこのときまで、口がきけず、おそらく人々が手振りで伝えたところを見ると耳も聞こえなかったようです。ザカリアは、かつて聖所でガブリエルから生まれてくる子供の名前はヨハネとするようにと言われました。ですから人々から子供の名を聞かれたザカリアは板に「この子の名はヨハネ」と書きます。それだけでも人々には驚きでしたが、さらにそれまで口がきけなかったザカリアが突然神を賛美し始めたので、人々は驚きを通り越し恐れを感じました。そもそも人々はザカリアが聖所で不思議な体験をしたことは知っていました。なんらかの神の働きがあったのだと知っていました。しかし、それまでしゃべることのできなかったザカリアが口が開き、舌がほどけたとたんに、神を賛美しだしたことに、人々の想像を超えた神の業が働いていることを知らされ恐れたのです。

 ところで10月に隠退教師の会という会が大阪教区で開かれます。私が所属しています人事部の主催で、当日、当番の仕事があったので出席しました。その会は開会礼拝から始まるのですが、開会礼拝の説教は、今年の夏、私の休暇の時に説教者として来てくださったF牧師の義理のお父様である隠退教師でした。その先生が、今日の教会のさまざまな課題の根っこにある原因のひとつは「神への賛美」不足ではないか?と説教の最後のところで課題提起をされました。私たちは礼拝において讃美歌を歌って神を賛美します。あるいは祈りの中でも神を賛美します。しかしその賛美が本当に心からなる賛美であろうかと思い返す必要があるかと思います。ザカリアが口が開き舌がほどけ、最初に<なぜヨハネという名をつけるのか>という説明をしたわけでもありません。自分に何が起こったのかという報告でもなく、いきなり、神を賛美をし出しました。神のなさったことに対して、あふれるような思いがあったからです。賛美せざるを得なかったのです。賛美以外の言葉は出なかったのです。

 昔、あるところで、年配のご婦人の信仰の証をお聞きしたことがあります。何度もがんを患い闘病し、また、重い知的障害をもったお子さんを抱えておられました。若いころから苦労の連続でした。しかしなお、神を信頼し、神によって平安を与えていただいているということを力強く語られました。そのお話の内容も圧倒的で、感銘を受けるようなものでしたが、その方が、その話の最後に、突然、「賛美します」と讃美歌を歌いだされたのには驚きました。伴奏もなくアカペラでした。けっして上手な歌ではありませんでした。でも堂々と歌われたのです。私は正直、面食らいました。唐突になんだかなあと最初は思ったのです。でもしばらくしてよくわかりました。本当にその方は神を賛美するために歌われたのです。証というと、語る側はどんなに神の恵みを語っても、聞いている側はどうしても、語っておられる方の信仰が素晴らしいなあとか、すごく苦労されたんだなとか、すごい奇跡があったんだなと表面的なことで感嘆してしまがちです。その証をなさった女性は、神の業を証しながら、神よりも自分が注目されるのが嫌だったのです。だから最後に賛美されたのです。すべては神がなさったことだと証の最後を締めくくりたかったのです。自分が心地良くなるためでもなく、慰められるためでもなく、誰かに聞かせるためではなく、ただ神を賛美されたのです。

 そしてザカリアだけでなく、あるいは証の最後に賛美をされた婦人だけでなく、私たちもまた神のなされることに驚き賛美をします。私たちには天使ガブリエルと出会ったザカリアのようなことは起こりません。また証をされたご婦人とも違う人生を歩んでいます。しかし、想像を超えた神の業は私たちにも及んでいます。想像を超えた、というとき、それはたとえばエリサベトやマリアが身ごもったような超自然的な奇跡だけを指しません。神の働きは、私たち自身が、こうあるべき、こうあるはずだと感じていることとは違った形で現れます。祭司ザカリアが天使ガブリエルに老人のわたしや妻に子供ができるわけはないと答えたように、私たちは、自分たちの常識で神のこともとらえようとします。しかし、私たちの常識や経験では神の働きは捉えられません。そういう意味で神の働きは想像を超えています。自分がこうあってほしいと願ったことが起きないから神の働きがないということではないのです。劇的なことは何も起こらない毎日だから神の働きがないということでもないのです。神の働きはいつも人間の想像を超えているので人間からは分かりにくいのです。しかし、神を心から受け入れるとき、今日の場面で言えば、天使のお告げ通り「ヨハネ」という名をザカリアが子供につけたとき、神の想像を超える働きがわかるようになります。そのとき、あふれるような賛美が口をついてでてくるのです。

<主は恵み深い>

 さて、生まれてきた子供は「ヨハネ」と名付けられました。ヨハネには「主は恵み深い」という意味があります。しかし、成長した洗礼者ヨハネの風貌は一般的な意味での恵み深さとは少し違う印象があるかもしれません。人々に来るべき裁きを告げ、悔い改めを迫りました。洗礼者ヨハネは非常に禁欲的で厳しい人のような感じを受けます。たとえばルカによる福音書3章にはこういうヨハネの言葉が記されています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れるとだれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」

 イスラエルの人々は、自分たちは神に特別に選ばれた民であるから、そして律法のもとにいるのだから、神の怒りは及ばないと考えていたのですが、洗礼者ヨハネの言葉を聞いて震えあがりました。選ばれた民、つまりアブラハムの子孫であっても「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と洗礼者ヨハネは語りました。そしてその言葉にはたいへんな力がありました。今日の洗礼者ヨハネ誕生を記した聖書箇所の最後のところに「この子には主の力が及んでいた」とあります。ヨハネは単に終末思想を吹聴し、恐怖によって人々を洗脳する教祖的な人物ではありませんでした。主の力が及んでいたからこそ、その言葉には真実の力があり、人々はその言葉に耳を傾けたのです。そして人々はこぞってヨハネのところに罪の悔い改めの洗礼を受けにきました。

 ヨハネは主イエス・キリストの先触れでした。イエス・キリストは赦しや神の恵みを説きました。それに対して洗礼者ヨハネは厳しいことばかり言っていたように感じるかもしれません。しかし、ヨハネの語る罪と裁きということが理解できなければ、主イエスのおっしゃる赦しや恵みは分からないのです。神の怒りということが分からなければ、神の愛も分からないのです。実際、ヨハネが語ったように差し迫った神の怒りはだれも免れることはできません。良い実を結ばない木は切り倒される、その切り倒す斧はもう木の根元に置かれている、それはまったく正しいことでした。

 たしかに神の裁きは迫っていたのです。罪人を切り倒す斧は根元に置かれていました。木を伐り倒すという作業は厳しい作業です。今年台風21号で教会の庭のミモザの木が倒れました。倒れたミモザを伐って取り除くのも時間のかかる大変な作業でした。しかし、神が伐り倒すとき、それは一瞬のことです。今も教会の庭に残るミモザの切り株を見るとき、私は神の裁きの厳しさを思います。実際、洗礼者ヨハネは最後の預言者として正しい預言をしました。そして裁き人としてのイエス・キリストを指し示しました。ヨハネののちに来られたイエス・キリストはたしかに裁き人でした。人々を裁くために来られました。その裁き人であるイエス・キリストはご自身を父なる神に差し出し、自らが十字架で裁かれました。ヨハネが語った木の根元に置かれていた斧はイエス・キリストご自身を切り倒しました。イエス・キリストが伐り倒され、罪人として裁きを受け、神の怒りをお受けになりました。それゆえイエス・キリストを信じるすべての人間が救われました。そこに主の恵みがありました。たしかにヨハネは神の恵みを指し示しました。神の恵みとして、自らが伐り取られることとなる救い主イエス・キリストを指し示しました。

 もっとも、イエス・キリストを信じるとき、私たちもまた斧で切り倒されるのです。しかし、伐り倒されてそのまま神の怒りの炎で焼かれるのではないのです。キリストに繋がれるのです。自分の力で悔い改めの実を結ぶことのできない私たちはキリストという木に繋がれて実を結ぶものとされます。豊かに実を結ぶものとされます。それが神の恵みの深さでした。その恵みは今も続いています。クリスマスが近づいています。その恵みを深く思い巡らして過ごしましょう。

 


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