宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

勝田至編『日本葬制史』三「中世の葬送と墓制」、吉川弘文館、2012年

2018-03-15 09:45:36 | Weblog
第1章 中世的葬送の胎動
(1)散在する墓:11世紀後半から12世紀前半(1051-1150)
A 平安末期(12世以後半)になるまでは、共同墓地は非常に少ない。11世紀後半から12世紀後半にかけて(※共同)墓地形成がほとんど見られない。つまり墓は散在していた。
A-2 摂関家の木幡(コバタ)の墓地は例外で、藤原氏の高位者、入内した娘などが葬られた。木幡の墓地が、藤氏に繁栄をもたらしたと考えられていた。(1018年『小右記』)
B 平安中後期の一般社会では、普通は風葬だったが、上層は墓を作ることがあった。多くは土葬墓、あるいは天皇・貴族を真似て火葬墓。
B-2 例外的に、近畿地方では10世紀後半から屋敷墓が始まる。
C 野原のように何もない所に結界を設け、墓を作った。そして墓は散在していた。(12世紀前半『今昔物語』)
C-2 天皇も、毎回、墓の良い方角を占いで決め、その墓に葬送した。
C-3 墓を祭祀の対象とする意識は薄かった。①死者(※の霊)が墓に長くとどまるとの観念がなかった、①-2墓参の慣行がなかった。(墓参するなら分散する墓は不便だ。)②この時代には、墓標が未発達だ。

《感想》
①墓が分散し、共同墓地がないのは、家の先祖崇拝がなかったためだ。死はその人1回限りのもので、墓も1回限りだった。
②墓参もしない。霊の観念があるが、霊は死体と別に存在し、死体を埋めた場所(墓)が重視されない。

(2)共同墓地の形成:12世紀後半~13世紀(1151-1300)
D 12世紀後半~13世紀(1151-1300)にかけて、共同墓地が形成される。
D-2 寺僧墓地として、京都・蓮台野で12C中頃~墓地と結界の形成。Ex. 上品蓮台寺真言院の石仏群あり。
D-3 同様に寺僧墓地として、京都十楽院東の墓地が、すでにあった。(1168頃)
D-4 「般若野の五三昧」墓地も寺僧墓地だ。(保元の乱1156の頃)墓地の入り口に笠塔婆(般若寺)があった。D-5 経塚の四方を結界した墓地もある。Ex. 兵庫県川西市満願寺文書(1273)
D-6 共同墓地は、僧が、人々の「後生善処」(死後も善い世界に生まれること)への希望を「墓」と言う形で現実化したものだ。

《感想》
墓地は、人々の「後生善処」(死後も善い世界に生まれること)への希望を現実化したものだ。死体放置(風葬)でなく、墓地に丁寧に埋葬され、弔われることで、「後生善処」が可能となる。

(3)中世前期の共同墓地(平安末~鎌倉):磐田市一の谷中世墳墓群、13世紀後半に五体不具穢が急激
E 磐田市一の谷中世墳墓群(12世紀後半~、1151-):当初は経塚だったが、13世紀後半(1251-1300)には集石墓が多数作られた。(火葬墓)
E-2 中世初期から、木製卒塔婆が立てられた。
E-3 中世前期には、共同墓地、古墳には、放置死体(棺に入れたものもある)も多かった。
F 13世紀後半(1251-1300)に五体不具穢が急激に減る。風葬がなくなり、お墓ができた。
F-2 初期の中世墓地には風葬もあった。
G 考古学では、中世墓地は、有力者の一族墓地から発展したとの見解がある。
G-2 しかし蓮台野は一族墓ではない。
G-3 木津惣墓の五輪塔(1292)は、僧が「五郷甲乙諸人」を勧進し造立した。

《感想》
13世紀後半(1251-1300)に五体不具穢(ゴタイフグエ、死体の一部が屋敷内に犬などが持ってくること)が急激に減る。つまり、鎌倉時代後半に、風葬がかなり減り、お墓ができた。
お墓を庶民が作れる程度に、生産力or経済水準が、向上したのだ。

(4)由比ケ浜南遺跡:風葬の路上の死体を集め、穴に入れた(鎌倉時代)
H 由比ケ浜南遺跡:多くの穴の中に3000体以上の人骨。風葬の路上の死体を集め、穴に入れた。鎌倉時代。
H-2 後の中世後期(※室町時代)には、風葬がかなりなくなる。

《感想》
鎌倉時代は、まだ街内に、かなりの放置遺体(風葬)があった。室町時代に、風葬がなくなってくる。

(5)年忌供養と墓参:冥界の十王に順々に裁きを受ける十仏事等
I 平安末期から上層の墓は石塔が立てられる。これに対応し、院政期から鎌倉期にかけて年忌供養が普及。
I-2 10世紀までは、一周忌が最後の法事だった。
I-3 三回忌などの年忌は、中国の十王信仰の伝来に伴う。冥界の十王に順々に裁きを受ける十仏事として初七日から七七日(ナナナノカ)(四十九日)までの7度に百ヶ日・一周忌・三回忌の10回。
I-4 十仏事に、後に、七回忌・十三回忌・三十三回忌が加わる。(七回忌・三十三回忌の普及は南北朝期。)
J 墓参が、史料に現れ始めるのは、共同墓地が広まる鎌倉時代から。Ex. 盂蘭盆の墓参、歳末の魂祭での墓参。
J-2 ただし共同墓地には、風葬(死体放置)も多かったので、墓参の習慣は、放置死体の心配がない上層の一族墓から始まると考えられる。

《感想》
中国の十王信仰が、仏教に混入する。十仏事がそれだ。
共同墓地が広まる鎌倉時代から、風葬の減少と相まって、一方で年忌供養、他方で墓参の習慣が始まる。

(6)納骨信仰のひろがり:11世紀頃納骨信仰開始(1001-)Ex. 比叡山への納骨、12世紀後半から高野山(1151-)、鎌倉時代からの善光寺への納骨(1192-)等
K 11世紀頃から(1001-)仏教の霊場に、火葬骨を納める習慣が起ってくる。
K-2 Ex. 1044年比叡山の法華堂への納骨。法華三昧の功徳を受ける。
K-3 高野山への納骨の所見は、1153年。12世紀後半から、弘法大師廟の近くに納骨遺構が営まれる。
K-4 鳥羽法皇と美福門院の墓は、安楽寿院にある。しかし美福門院が高野への納骨を希望したので、分骨もせず、高野に移された。(1160)(当時は、まだ分骨の習慣がなかった。)
K-5 鎌倉時代には、信濃の善光寺も納骨霊場として著名になった。
K-6 鎌倉後期には、納骨に際し、分骨が行われている。鎌倉の寺と善光寺。(『沙石集』)
K-7 『曽我物語』(鎌倉末期)によれば、京都からはるばる善光寺に納骨する人もいた。曽我十郎・五郎は、善光寺に納骨された。
K-8 近江の関寺の納骨受付。(『一遍聖絵』)
K-9 松島の雄島(オシマ)への納骨(分骨):14世紀以降(1301-)
K-10 中世以来の納骨霊場:元興寺極楽坊本堂、西大寺奥院骨堂、会津若松市八葉寺では小型の木製五輪塔へ遺骨を入れ奉納

《感想》
納骨は11世紀頃から始まる。(Ex. 比叡山)。また12世紀後半からの高野山への納骨。鎌倉時代には、信濃の善光寺も納骨霊場として著名になった。火葬が広がってきたのだ。


第2章 仏教的葬儀の展開
(1)「上人の沙汰」:鎌倉時代から貴族の葬儀が、僧に一任されるようになる(貴族、上層)
A 貴族は、もとは身内で、沐浴・入棺・骨拾いなど葬儀を行った。それが、大体、鎌倉時代から僧に、任されるようになる。早くは1183年。(天皇家の最初は、1317年、伏見上皇の葬送。)
A-2 葬送を担当する寺は、死者の追善を行う伝統的寺院と異なる。つまり高位の顕密僧は担当しない。

《感想》
葬送に関しては、特別の葬送担当の寺院があり、それは、死者の追善を行う伝統的寺院高位の僧の仕事ではなかった!葬送は、下級の僧の仕事だった。

(2)律宗:中世京都で、上層の葬儀を担当
B律宗は、中世京都で、上層の葬儀を担当した。Ex. 泉涌寺で1242年、四条天皇の火葬。
B-2  1387年、東山の太子堂の近衛道嗣の葬儀では、燃料の炭木が少なく死骸が露出し、見物人に笑われたりした。
B-3 唐招提寺や西大寺などの律宗寺院には、「斎戒宗」(サイカイシュウ)と呼ばれる下級の僧がおり、勧進聖であるとともに、火葬など葬送作業を担当した。
B-4 律宗は15世紀後半に、退潮。(Ex. 泉涌寺は応仁の乱で焼かれる。)律宗は社会事業を行ったが、その財源が荘園であったことが、この時代の退潮の原因。

(2)-2 時宗:中世京都の時宗は、火葬場を運営していた
C 中世京都の時宗は、火葬場を運営していた。
C-2 四条道場金蓮寺は、鳥辺野に火葬場を持っていた。
C-3 武士との関係では、時宗の僧が、陣僧を務め、自害する武士に十念を授けたり、国元への通報を行った。
C-4 戦死した新田義貞の遺体は、輿に乗せ、時衆8人が運んだ。

《感想》中世京都(鎌倉時代以降)で、葬儀を担当する宗派が、律宗(社会事業の伝統)と時宗(※新興の宗派としてニッチな分野に進出?)だった。

(3)禅宗:室町時代に上層武士の葬儀を担当する(155頁-)
D 室町時代には、臨済宗が、幕府の庇護を受け、強大な宗派となる。
D-2 禅宗は、平安時代以来の顕密教の大寺院と異なり、早くから葬送に関与していた。
D-3 室町時代には、京都五山など臨済宗の大寺院は、専属の火葬場(延寿堂)を持つ。Ex. 南禅寺、建仁寺、相国寺、大徳寺。
D-4 平安・鎌倉時代は寝棺だったが、禅宗により、中世後期は坐棺となる。坐棺は、龕(ガン)と呼ばれる輿(コシ)に納めて葬送した。
D-5 葬具、葬儀の規範も禅宗が発展させた。Ex. 善の綱(仏と結縁(ケチエン)し功徳を得る)。
D-6 足利将軍の葬儀を担当した相国寺の僧の記録あり:『蔭凉(インリョウ)軒日(ニチ)録』。
D-7 足利尊氏ら歴代将軍は、等持院で火葬された。守護などの上層武士にも、禅宗の葬儀が広がる。
E 地方で、15世紀以降に、曹洞宗の寺院が、武士の菩提寺として多く建立される。
E-2 1400年頃を境として、関東の板碑の法号が、阿号(阿弥陀仏号)(浄土宗)から禅門・禅尼(禅宗)に変化する。
F 禅宗の葬儀は、一連の儀礼を伴い、立派な龕(ガン)に納めた葬列には、万単位の見物人が押し寄せたこともあった。
F-2 中世後期には、葬送が昼間に行われるようになったことも、これに寄与した。
F-3 豪華な葬儀は、人々のあこがれだった。宣教師フロイスは、16世紀末、金銀をつけた十字架など豪華な葬儀で、豊後の大勢の異教徒がキリシタンになったと記録する。

《感想1》
室町時代に、禅宗が葬儀を豪華にした。葬儀の見物人が、何万にも出るとは、一大イベントだ。
《感想2》
16世紀末、キリスト教の宣教師たちも、豪華な葬儀で、キリスト教徒を獲得しようとした。

(4)浄土宗:15世紀前半から、貴族層にも帰依を広げ、また境内墓地を、多く経営した
G 浄土宗は、15世紀前半から、貴族層にも帰依を広げてきた。
G-2 文明8年(1476)に死んだ左大臣日野勝光の葬儀は、浄土宗の知恩寺(百万遍)が執行した。
G-3 浄土宗は、各層が利用できる境内墓地を、多く経営した。
G-4 寺院の墓地に葬られて、お経を聞きたいという願いを持つ人も、増えてきた。

《感想》
知恩寺(百万遍)も知恩院も共に、浄土宗だが、両者が異なることに注意!

(4)-2 浄土真宗:阿弥陀如来のみが信仰対象で、死者は崇拝しない
H 浄土真宗が広まった地域では、昔から火葬、また一部に「無墓制」。(民俗学)
H-2 三河の一向門徒は、墓を作らない。
H-3 死者に備える膳はいらない&阿弥陀様に膳を供えれば他は要らない。(『甲陽軍鑑』)
H-4 浄土真宗:阿弥陀如来のみが信仰対象であって、死者は崇拝しない。

《感想》
先祖崇拝、死者崇拝をしないと、浄土真宗への帰依者は、世の中の多数派から迫害される。とはいえ、実際には諸人が真宗を「無常講」(葬送互助)のように思っている(覚如『改邪抄』1337)との指摘もある。

(5)日蓮宗(法華宗):戦国時代に、京都で、日蓮宗が勢力を伸ばす
I 日蓮宗は東国で発展し、鎌倉末期には京都でも活発な布教。
I-2 娑婆世界を仏国土にする志向性が強く、来世信仰の比重は、少ない。
I-3 しかし15世紀には、東国を中心に、日蓮宗的な墓の造立が行われる。
J 戦国時代に、京都で、日蓮宗が勢力を伸ばす。近衛家はすでに、15世紀から法華宗に帰依。
J-2 1536年の天文法華の乱で、下京が焼かれ、法華寺院はすべて破却されたが、数年で帰還を許された。
※天文法華の乱(1536):山門延暦寺の衆徒が京都法華宗徒を武力で洛外へ追放。室町時代, 京都の武家,商工業者の間に法華宗が広まる。法華一揆を結成し, 細川清元とともに一向一揆とも戦い,山門をしのぐ宗勢となった。この年、説法中の山門僧を法華宗徒が論破したことから争いとなった。

《感想》
「娑婆世界を仏国土にする」との日蓮宗の教義は、日蓮宗を政治的にすると言える。

(6)中世後期(戦国時代末~安土桃山)の葬送需要の高まり
K 中世後期には、僧の読経引導で後世安穏を確保したいとの要求が強まる。
k-2 この葬送需要の高まりにより、日本各地の寺院の開創年代は、天正~寛永年間の約70年間に集中する。

《感想》
「後世安穏を確保したい」との人々の要求は、無視できないのだ。(みんな、生活が豊かになったのだ。)
現代でも、無宗教葬は主流にならない。
仏式、神式、キリスト教式等、いずれであれ、「後世安穏」の要求は、リアリティを持ち続ける。

(7)14世紀末~15世紀初頭に、「三昧聖」(火葬技術者)の独立化が進行
L 近年まで両墓制のあった近畿地方では埋め墓(⇔参り墓)を「サンマイ」と呼ぶところが多い。
L-2 かつて、火葬の専門職は、「三昧」または「三昧聖」とよばれた。また火葬場も「三昧」と呼ばれる。
(Cf. 民俗語彙としては隠亡(隠坊)(オンボウ)と呼ぶことが多い。)
L-3 「三昧」の語は、比叡山横川の源信僧都らが結成した念仏団体二十五三昧(葬送互助も行った)から来ている。

M 平安時代には火葬墓が全国的に減少し、中世に再び復活してくる。 
M-2 平安時代には、専門的な火葬技術者はいなかったと思われる。
M-3 平安末~鎌倉時代には、遁世僧が火葬を行った記事が散見される。
M-4 鎌倉後期~南北朝・室町時代には、禅宗・律宗・時宗等が火葬場を運営したり、上層の火葬を寺院でおこなったりした。
M-5 律宗寺院で葬送等雑役を担当した斎戒衆(聖)が、律宗の衰退に伴い、室町時代に独立し、「三昧聖」となったようだ。

N 寺院から独立している「三昧聖」の記事が1501年にある。
N-2 おそらく畿内では、14世紀末~15世紀初頭に、「三昧聖」の独立化が進行したようだ。
N-3 中世前期(※鎌倉時代)まで野外に放置されていた縁者のいない死者が、葬られるようになったのは、「三昧聖」の活動による。

《感想》
独立した「三昧聖」は、やがて、江戸時代になると、被差別身分に位置付けられると思われる。


第3章 中世墓の諸相
(1)玉殿(霊殿、霊屋)
A 平安中期以降、貴族は、堂塔を建立し、そこに遺骨・遺体を葬ることがあった。Ex. 868年源信(ミナモトノマコト)の葬送。
A-2 10世紀―11世紀前半には、玉殿(霊殿、霊屋)という名称で多くが知られる。仏堂の形でなく、世俗建築。寺院の近くが多い。
A-3 玉殿は、建物ごと焼くことも、あった。Ex. 宇多法皇の玉殿は中に薪を詰め、半月後に焼いた。

《感想》
玉殿を、建物ごと焼くとは、建物は、(ア)火葬の薪に相当し、そして(イ)遺体を隠すためだ。

(1)-2 墳墓堂
B 玉殿に続いて、仏教的な堂塔に棺・遺骨を納める墳墓堂が造られる。
B-2 墳墓堂は大別すると、(ア)法華堂・三昧堂(法華三昧・念仏三昧を修する)と、(イ)塔(Ex. 三重塔)がある。
B-3 墳墓堂の葬法は、火葬も土葬もある。棺を仏像の壇の下に納めたりする場合もある。(Ex. 中尊寺金色堂)
B-4 遺骨が、塔の地下に葬られることもある。(Ex. 白河法皇1131年)
B-5 木造の塔に葬る天皇・貴族の葬法が、この少し後、石造の五輪塔が出現することに影響したかもしれない。
《感想》
塔形式の墳墓堂が、五輪塔の起源の説は、なるほどと思える。

(2)中世の石塔(その1):五輪塔
C 中世(前期・後期)の石塔で代表的なのは、五輪塔(大日如来の象徴)と宝篋印塔(ホウキョウイントウ)だ。
C-2 覚鑁(カクバン)(1095-1144)『五輪九字明秘密釈』:真言密教と浄土信仰を結合する理論を述べ、また大日如来の象徴としての五輪塔を提唱。
C-3 最も古い五輪塔は、円光院跡から出た1085年銘銅製五輪塔。(ただし秘事とされ、表に出なかった。)
C-4 現在知られる多くの石造五輪塔は、上記五輪塔より80年以上たった12世紀後半に始まる。天台宗の影響が強い地域に多い。
C-5 1167年、藤原基実の改葬(寺にあった遺骨を墓に入れる)の時、「五輪石塔」を建てた。
C-6 紀年銘のある石造五輪塔で最古は1169年中尊寺釈尊院のもの。
C-7 鎌倉後期からは、西大寺様式と呼ばれる五輪塔を律宗が各地に建立。(俊乗坊重源の子孫の流れ。)

《感想》
五輪塔は、真言密教の大日如来を示す!(Cf. 空海、816年、高野山に真言密教の根本道場を開く。)
※五輪塔:地・水・火・風・空の五大を、下から方形・円形・三角形・半月形・宝珠形に積み上げた塔。
(2)-2 中世の石塔(その2):宝篋(ホウキョウ)印塔
D 五輪塔とならび、中世・近世の上層の墓塔が、宝篋印塔だ。
D-2 宋代の石造宝篋印塔がモデルとなった。
D-3 日本の宝篋印塔の最古のものは1232年明恵上人髪爪塔(京都高山寺)。
D-4 しばらく間をおいて、13世紀末から、宝篋印塔は、盛行する。
E 室町時代に、墓塔としての宝篋印塔が多く作られた。
E-2 一条兼良の墓(宝篋印塔)(1492年、東福寺常楽院)は費用8貫文、供養代2貫文と、上層の立派な墓だ。

《感想》
宝篋印塔は、なかなか高価だ。石塔(五輪塔・宝篋印塔)は、上層でないと立てられない。
※宝篋印塔:宝篋印陀羅尼を納めた経塔。礼拝すると罪障が消滅し,苦を免れ,長寿を得る。正方形平面の塔身上に段形の屋根(四隅に突起の飾り)をのせる。

(2)-3 中世の板碑:13世紀から、関東地方を中心に板碑が盛行する
F 関東地方を中心に、板碑が盛行するのも13世紀からだ。数万基が残る。(武蔵国だけで3万基。)
F-2 武蔵型板碑の分布地域には、石塔(五輪塔・宝篋印塔)は、ほとんど見られない。
F-3 卒塔婆の形が、起源と思われる。(上部が三角形で、2本の線条。)
G 最古の武蔵型板碑は1227年造立。上部の種子に表される主尊(多くは阿弥陀如来)に死者の追善を祈願。
G-2 後に、14世紀から墓標的性格が強まる。(Cf. 3回忌の板碑、13回忌の板碑もある。)

《感想》
「板碑」は、記念碑でなく、墓石だ。「お化け」が出てもおかしくない。「五輪塔・宝篋印塔」も墓石だ。

(3)室町・戦国時代の墓標(その1):「一石五輪塔」、小型の「石仏」
H 室町時代には、石の墓として五輪塔・宝篋印塔に加え、各地に小型の石塔が現れる。石の塔を建てる階層が広がった。
H-2 東海以西で、五輪塔を一つの石から刻みだした「一石五輪塔」(1尺5寸~2尺程度)が、石の墓として15世紀から造られはじめ、戦国時代・近世前期に盛行した。
H-3 大和では、一石五輪塔の代わりに、「線刻五輪」(舟形の石に五輪塔の形を浮き彫りしたもの)が、普通だ。
I 京都周辺では、小型の「石仏」(上部が三角の屋根上で方形の枠の中に仏体を浮き彫りにするものもある)も多い。Ex. 化野念仏寺、8000基(明治時代に集めた)。Ex. 滋賀県敏満寺石仏谷遺跡(1700基以上の石仏・石塔、国史跡)。
I-2 「石仏」や「一石五輪塔」は、ほとんどが最初の場所から動いており、墓だったかどうか、確認できない。
I-3 「夫婦の形」に二尊並座の石仏が墓として造られることもあった。
I-4 京都周辺で地蔵と言われるもの中には、かつて墓標だった中世の「石仏」であることも多い。(1686年『百物語評判』巻3第2話)

《感想》
「一石五輪塔」、「石仏」も墓石だ。これらを、庭において愛でるのは、なかなか怖い。石仏から、霊が現れ祟るとの1686年『百物語評判』の話は、なるほどと思われる。

(3)室町・戦国時代の墓標(その2):廟墓であるラントウ(蘭塔or欄塔)
J 石で造った堂の形の中に、石仏や線刻五輪などを入れる墓は、ラントウ(蘭塔or欄塔)等と呼ばれ、千葉・群馬・長野、また四国・中国地方に見られる。15世紀中葉以降。

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