テーマごと読み切りの、パラシュート学習法の模範。
最新の研究成果が反映され「苔むした」日本史のイメージが刷新される快感。
ここでは最もドラマチックな時代、中世から近世への移行期を扱った第4章を見てみよう。
第4章 南北朝時代~戦国時代
1 建武の新政(1333):後醍醐天皇の新政へかける意気込みは異常である。それは何故か?
宋朝の君主独裁をモデルにして、天皇独裁をめざす情念が後醍醐天皇を動かした。
独裁を支えるため「異類」「異形」とされるものを抜擢。
また家格秩序を破壊。しかしこれは伝統勢力の経済的基礎の破壊。猛反発は当然であった。
後醍醐の「異形」の天皇像が、たちの信仰を集めたことは、彼の歴史的意味を暗示する。
2 室町幕府の成立(1336):建武の新政へ不満を持つ武士が足利尊氏に結集する。しかし幕府がなぜ鎌倉でなく京都なのか?
尊氏の軍事的基礎が京都の高師直らバサラ(婆佐羅)大名だったから。
鎌倉に固執した弟直義(タダヨシ)と対立する。
3 南北朝の争乱の開始(1336):南北朝の争乱は長期化し1392年まで約60年続く。それはなぜか?
①武家の相続が、分割相続から惣領の単独相続への転換期。そのため一族内の私闘が激しくなる。それらが正統化を求め南北両朝の軍勢への参加をもたらす。『太平記』は第3部以降、一族の果てしない私闘を描く。
②戦乱の中で生きねばならぬ民衆が、村の名主・百姓を指導層として戦時の略奪に向かう。「野伏(ノブセリ)」の存在。南北両朝の軍勢への参加が彼らの生業である。
4 足利義満の金閣寺建立(1398):彼はなぜ金閣寺を建てたのか?
彼は権力欲のかたまりだった。
①義満は3000騎の奉公衆を将軍直轄の軍事力として編成。
②南北朝を合一し幕府権力の正統性を獲得。
③武門の頂点であるだけでなく、太政大臣になり公武の頂点へ。
④さらにそれらを辞職、出家し世俗の権力を超越。
⑤ついには宗教的勢力も併呑する超越的権力者をめざす。
義満は1398年、「花の御所」から北山第(キタヤマテイ)に移る。彼の破天荒な夢の実現のための荘厳な政庁。その舞台装置が金閣寺だった。
5 足利義満、明の2代皇帝恵帝に国書を送る(1401):翌年、義満は「日本国王」に冊封される。明の皇帝の臣下になった目的は何か?
当然にも貿易の利益の独占である。これは良く知られている。
なお、念願の「日本国王」に冊封されることが実現した理由は、明からの倭寇の禁圧要求にこたえたことだった。
14-15世紀は前期倭寇。中世倭人の世界は、朝鮮・日本・中国の国家支配の空隙に生まれた国籍を超えた共同体。内乱が生み出した貧民たちが倭寇の供給源だった。
6 応永の大飢饉(1420-21):大飢饉の原因は何か?
①1420年は春から夏、干ばつ。秋は長雨と台風。
②職や有徳人(ウトクジン、富裕な人)による施しを求め、諸国の貧人が都に上るが「万人」が死亡。人口密集で疫病も流行。
③義持の時代(1394-1428)が応永。「公武融和政治」(権門体制)で「応永の平和」。実はこれは荘民の収奪の強化だった。
荘園領主たる公家が将軍配下の守護の軍事力を背景に荘民の収奪を強化。富は支配者層の拠点、京都に集中。農村は疲弊し、ひとたび飢饉に襲われれば生活が破綻。
④15世紀中ごろから16世紀後半は寒冷化のピーク。応永の大飢饉はそのさきがけ。( 応仁・文明の乱(1467-)から始まる戦国時代は、寒冷化による生産力減少の中、限られた富の争奪戦だった。)
7 正長の土一揆(1428):「日本開闢以来」の土民の蜂起の原因は何か?
正長の土一揆は近江の国から始まり、畿内・近国に広がる。(Ex. 土一揆の圧力で興福寺は大和1国に徳政を宣言。)原因は下記の通り。
①(上記6の③)「公武融和政治」(権門体制)=「応永の平和」のもとでの荘民の収奪の強化。
②(上記6の④)15世紀中ごろから16世紀後半の寒冷化のピークに向かう途上で、生産力低下。
③徳政とは、為政者の代替わりや天変地異を機に為政者が行う善政。土民たちは為政者の徳政の観念(支配の正当性のひとつ)を逆手に取り金融業者たちに私徳政を認めさせた。
(1428年は義持が没し、義教が就任。年号が応永から正長に改められる。称光天皇が没し後花園天皇即位。又、この年、京都で疫病、2度の洪水、各地で飢饉。)
8 嘉吉の変(1441):5代将軍足利義教(ヨシノリ)が赤松満祐邸で謀殺される。
将軍となった義教(義満の3男)は兄義持の政策を否定し、父義満への回帰を目指す。権力の強大化をめざし恭順しない者を次々に殺す。義教の恐怖政治。
Ex. 永享の乱(1438)では鎌倉公方足利持氏を討伐。
嘉吉の乱では、討伐されることを知った赤松満祐が先手を打った。
この事件を機に、将軍の権威失墜。強力な裁定者を失い、幕府を支えた守護家の内部で内紛激化。
9 応仁・文明の乱(1467-77):①家督争いの連鎖&②足軽の略奪
①将軍家の家督争い(義政の弟義視=後見人細川勝元(東軍)、義政の子義尚(ヨシヒサ)=後見人山名宗全(西軍))、畠山・斯波両管領家の家督争い、各地の守護家の家督争いが絡み、戦乱が京都から地方に拡大。
家督争いは、一揆を結んで主家の家督継承への発言を強めた在地領主としての家臣たちにより、引き起こされた。
彼ら在地領主はまた、一揆を結んで力を強めた領民たちに突き上げられた。領民たちは「平和」(=闘争終結)を維持できる実力を主家の家督継承者に求めた。
西軍諸将が下向し応仁・文明の乱は終結する。
下向した彼らを待ち受けていたのは在地の家臣たちの「下克上」だった。戦国時代の開幕。
②応仁・文明の乱から戦いの主力は足軽となる。彼らは戦場での金品の略奪、人の略奪(乱取り)を生業とした。足軽とは、飢饉によって、富の集積地の京都に流入した貧民たち。京都は略奪で荒廃。
10 山城の国一揆(1485-1493):国人たちは領地支配の安定と強化を求めたのであって、自治支配が目的ではない。
ここにあるのはホッブズ問題。万人の万人に対する闘争状況の下で、平和(=闘争の終結)をもたらす強力な権力が求められる。
応仁の乱終結後も南山城で戦闘を継続していた畠山義就(ヨシヒロ)と政長を、南山城の国人(在地の領主層、荘官)たちが民衆の見守るなか集会を開き、両畠山軍の国外退去を決定。そして実現させる。その後8年にわたり国を自治支配。
荘園はもとのように荘園領主の支配へ。①荘園領主と地下請契約していた民衆に好都合。②荘官(在地領主)の地位を荘園領主に認められていた国人層にも有利。
しかし細川政元が幕府の実権を握り、家臣を守護に任命し南山城の支配に乗り出すと、国人たちの多くは守護の支配に服す。国一揆は8年で分裂・解体。
国人たちが求めたのは領地支配の安定と強化であって、自治支配が目的ではない。
Cf. 一揆とは政治的連合のこと。
11 北条早雲による相模平定(1516):ホッブズ問題の解決としての戦国大名の誕生
将軍から任命され領国を支配した守護大名に代わり、将軍権力から自立して領国を支配する戦国大名の誕生。
自立した地域権力、紛争裁定者としての戦国大名。強力な紛争裁定者たる将軍権力はすでに衰退。
在地領主や領民が闘争の終結を望む。
早雲は領国内の在地領主や領民の合意の下、指出(サシダシ)検地(家臣や村に土地面積・年貢高を自己申告させる検地)により領国内を統一的基準で掌握・統制し、領国内唯一の紛争裁定者となる。Cf. 相模の指出検地(1506)は戦国大名最古の検地。
ここにあるのもホッブズ問題であり、闘争の終結をもたらす強力な権力が求められる。
12 鉄砲伝来(1543):ポルトガル人が伝えたのではない!
鉄砲伝来は種子島が起点で、紀州の根来(ネゴロ)、泉州の堺、さらに畿内・関東に広まったとの通説は怪しい。
鉄砲は様々の種類のものが列島各地に多元的に伝えられた可能性が高い。またヨーロッパ製鉄砲と異なる「異風筒(イフウヅツ)」も多数、使われていた。
種子島に漂着した船は、後期倭寇の首領「王直」の船であったと考えられる。(Cf. 後期倭寇の主体は中国人だが、西日本の日本人も多く参加。)鉄砲を日本にもたらしたのは東南アジアまで進出しヨーロッパ人とも交易した後期倭寇たちだった。
13 フランシスコ=ザビエルが鹿児島に来着(1549):ザビエルはなぜ日本に来たか?
①深い悩みに苦しむ鹿児島出身のアンジロウが、親交していたポルトガル商人からザビエルに教えを請うべきことを勧められた。マラッカでアンジロウは洗礼を受ける。
自分の国ではキリスト教に改宗する機が熟しているとのアンジロウの報告を聞き、ザビエルは日本への布教を決意。
②当時の日本は戦国時代の悲惨な現実のもとにあり、救済を求める動機があった。
ザビエルは大内氏の城下町山口で布教。日本人について「話が分かれば神のこと神聖なことについてむさぼるように聞く」と記す。
14 川中島の戦い(1553):信玄と謙信は以後12年、計5回戦う。なぜか?
寒冷化の進行、慢性的危機状況のもと戦国大名は、領国家臣団・民衆の支持を維持するため侵略戦争が不可避。
信玄は信濃侵略、さらに日本海交易の利益獲得のため越後侵略を目指した。
謙信にとり天然の要害の川中島は、善光寺門前町さらに越後の重要な防衛ラインだった。
かくて両雄が衝突した。
最新の研究成果が反映され「苔むした」日本史のイメージが刷新される快感。
ここでは最もドラマチックな時代、中世から近世への移行期を扱った第4章を見てみよう。
第4章 南北朝時代~戦国時代
1 建武の新政(1333):後醍醐天皇の新政へかける意気込みは異常である。それは何故か?
宋朝の君主独裁をモデルにして、天皇独裁をめざす情念が後醍醐天皇を動かした。
独裁を支えるため「異類」「異形」とされるものを抜擢。
また家格秩序を破壊。しかしこれは伝統勢力の経済的基礎の破壊。猛反発は当然であった。
後醍醐の「異形」の天皇像が、たちの信仰を集めたことは、彼の歴史的意味を暗示する。
2 室町幕府の成立(1336):建武の新政へ不満を持つ武士が足利尊氏に結集する。しかし幕府がなぜ鎌倉でなく京都なのか?
尊氏の軍事的基礎が京都の高師直らバサラ(婆佐羅)大名だったから。
鎌倉に固執した弟直義(タダヨシ)と対立する。
3 南北朝の争乱の開始(1336):南北朝の争乱は長期化し1392年まで約60年続く。それはなぜか?
①武家の相続が、分割相続から惣領の単独相続への転換期。そのため一族内の私闘が激しくなる。それらが正統化を求め南北両朝の軍勢への参加をもたらす。『太平記』は第3部以降、一族の果てしない私闘を描く。
②戦乱の中で生きねばならぬ民衆が、村の名主・百姓を指導層として戦時の略奪に向かう。「野伏(ノブセリ)」の存在。南北両朝の軍勢への参加が彼らの生業である。
4 足利義満の金閣寺建立(1398):彼はなぜ金閣寺を建てたのか?
彼は権力欲のかたまりだった。
①義満は3000騎の奉公衆を将軍直轄の軍事力として編成。
②南北朝を合一し幕府権力の正統性を獲得。
③武門の頂点であるだけでなく、太政大臣になり公武の頂点へ。
④さらにそれらを辞職、出家し世俗の権力を超越。
⑤ついには宗教的勢力も併呑する超越的権力者をめざす。
義満は1398年、「花の御所」から北山第(キタヤマテイ)に移る。彼の破天荒な夢の実現のための荘厳な政庁。その舞台装置が金閣寺だった。
5 足利義満、明の2代皇帝恵帝に国書を送る(1401):翌年、義満は「日本国王」に冊封される。明の皇帝の臣下になった目的は何か?
当然にも貿易の利益の独占である。これは良く知られている。
なお、念願の「日本国王」に冊封されることが実現した理由は、明からの倭寇の禁圧要求にこたえたことだった。
14-15世紀は前期倭寇。中世倭人の世界は、朝鮮・日本・中国の国家支配の空隙に生まれた国籍を超えた共同体。内乱が生み出した貧民たちが倭寇の供給源だった。
6 応永の大飢饉(1420-21):大飢饉の原因は何か?
①1420年は春から夏、干ばつ。秋は長雨と台風。
②職や有徳人(ウトクジン、富裕な人)による施しを求め、諸国の貧人が都に上るが「万人」が死亡。人口密集で疫病も流行。
③義持の時代(1394-1428)が応永。「公武融和政治」(権門体制)で「応永の平和」。実はこれは荘民の収奪の強化だった。
荘園領主たる公家が将軍配下の守護の軍事力を背景に荘民の収奪を強化。富は支配者層の拠点、京都に集中。農村は疲弊し、ひとたび飢饉に襲われれば生活が破綻。
④15世紀中ごろから16世紀後半は寒冷化のピーク。応永の大飢饉はそのさきがけ。( 応仁・文明の乱(1467-)から始まる戦国時代は、寒冷化による生産力減少の中、限られた富の争奪戦だった。)
7 正長の土一揆(1428):「日本開闢以来」の土民の蜂起の原因は何か?
正長の土一揆は近江の国から始まり、畿内・近国に広がる。(Ex. 土一揆の圧力で興福寺は大和1国に徳政を宣言。)原因は下記の通り。
①(上記6の③)「公武融和政治」(権門体制)=「応永の平和」のもとでの荘民の収奪の強化。
②(上記6の④)15世紀中ごろから16世紀後半の寒冷化のピークに向かう途上で、生産力低下。
③徳政とは、為政者の代替わりや天変地異を機に為政者が行う善政。土民たちは為政者の徳政の観念(支配の正当性のひとつ)を逆手に取り金融業者たちに私徳政を認めさせた。
(1428年は義持が没し、義教が就任。年号が応永から正長に改められる。称光天皇が没し後花園天皇即位。又、この年、京都で疫病、2度の洪水、各地で飢饉。)
8 嘉吉の変(1441):5代将軍足利義教(ヨシノリ)が赤松満祐邸で謀殺される。
将軍となった義教(義満の3男)は兄義持の政策を否定し、父義満への回帰を目指す。権力の強大化をめざし恭順しない者を次々に殺す。義教の恐怖政治。
Ex. 永享の乱(1438)では鎌倉公方足利持氏を討伐。
嘉吉の乱では、討伐されることを知った赤松満祐が先手を打った。
この事件を機に、将軍の権威失墜。強力な裁定者を失い、幕府を支えた守護家の内部で内紛激化。
9 応仁・文明の乱(1467-77):①家督争いの連鎖&②足軽の略奪
①将軍家の家督争い(義政の弟義視=後見人細川勝元(東軍)、義政の子義尚(ヨシヒサ)=後見人山名宗全(西軍))、畠山・斯波両管領家の家督争い、各地の守護家の家督争いが絡み、戦乱が京都から地方に拡大。
家督争いは、一揆を結んで主家の家督継承への発言を強めた在地領主としての家臣たちにより、引き起こされた。
彼ら在地領主はまた、一揆を結んで力を強めた領民たちに突き上げられた。領民たちは「平和」(=闘争終結)を維持できる実力を主家の家督継承者に求めた。
西軍諸将が下向し応仁・文明の乱は終結する。
下向した彼らを待ち受けていたのは在地の家臣たちの「下克上」だった。戦国時代の開幕。
②応仁・文明の乱から戦いの主力は足軽となる。彼らは戦場での金品の略奪、人の略奪(乱取り)を生業とした。足軽とは、飢饉によって、富の集積地の京都に流入した貧民たち。京都は略奪で荒廃。
10 山城の国一揆(1485-1493):国人たちは領地支配の安定と強化を求めたのであって、自治支配が目的ではない。
ここにあるのはホッブズ問題。万人の万人に対する闘争状況の下で、平和(=闘争の終結)をもたらす強力な権力が求められる。
応仁の乱終結後も南山城で戦闘を継続していた畠山義就(ヨシヒロ)と政長を、南山城の国人(在地の領主層、荘官)たちが民衆の見守るなか集会を開き、両畠山軍の国外退去を決定。そして実現させる。その後8年にわたり国を自治支配。
荘園はもとのように荘園領主の支配へ。①荘園領主と地下請契約していた民衆に好都合。②荘官(在地領主)の地位を荘園領主に認められていた国人層にも有利。
しかし細川政元が幕府の実権を握り、家臣を守護に任命し南山城の支配に乗り出すと、国人たちの多くは守護の支配に服す。国一揆は8年で分裂・解体。
国人たちが求めたのは領地支配の安定と強化であって、自治支配が目的ではない。
Cf. 一揆とは政治的連合のこと。
11 北条早雲による相模平定(1516):ホッブズ問題の解決としての戦国大名の誕生
将軍から任命され領国を支配した守護大名に代わり、将軍権力から自立して領国を支配する戦国大名の誕生。
自立した地域権力、紛争裁定者としての戦国大名。強力な紛争裁定者たる将軍権力はすでに衰退。
在地領主や領民が闘争の終結を望む。
早雲は領国内の在地領主や領民の合意の下、指出(サシダシ)検地(家臣や村に土地面積・年貢高を自己申告させる検地)により領国内を統一的基準で掌握・統制し、領国内唯一の紛争裁定者となる。Cf. 相模の指出検地(1506)は戦国大名最古の検地。
ここにあるのもホッブズ問題であり、闘争の終結をもたらす強力な権力が求められる。
12 鉄砲伝来(1543):ポルトガル人が伝えたのではない!
鉄砲伝来は種子島が起点で、紀州の根来(ネゴロ)、泉州の堺、さらに畿内・関東に広まったとの通説は怪しい。
鉄砲は様々の種類のものが列島各地に多元的に伝えられた可能性が高い。またヨーロッパ製鉄砲と異なる「異風筒(イフウヅツ)」も多数、使われていた。
種子島に漂着した船は、後期倭寇の首領「王直」の船であったと考えられる。(Cf. 後期倭寇の主体は中国人だが、西日本の日本人も多く参加。)鉄砲を日本にもたらしたのは東南アジアまで進出しヨーロッパ人とも交易した後期倭寇たちだった。
13 フランシスコ=ザビエルが鹿児島に来着(1549):ザビエルはなぜ日本に来たか?
①深い悩みに苦しむ鹿児島出身のアンジロウが、親交していたポルトガル商人からザビエルに教えを請うべきことを勧められた。マラッカでアンジロウは洗礼を受ける。
自分の国ではキリスト教に改宗する機が熟しているとのアンジロウの報告を聞き、ザビエルは日本への布教を決意。
②当時の日本は戦国時代の悲惨な現実のもとにあり、救済を求める動機があった。
ザビエルは大内氏の城下町山口で布教。日本人について「話が分かれば神のこと神聖なことについてむさぼるように聞く」と記す。
14 川中島の戦い(1553):信玄と謙信は以後12年、計5回戦う。なぜか?
寒冷化の進行、慢性的危機状況のもと戦国大名は、領国家臣団・民衆の支持を維持するため侵略戦争が不可避。
信玄は信濃侵略、さらに日本海交易の利益獲得のため越後侵略を目指した。
謙信にとり天然の要害の川中島は、善光寺門前町さらに越後の重要な防衛ラインだった。
かくて両雄が衝突した。