M4ちゃん(小2):
先週、初めて「ヘ長調の音階」の楽典的な説明を習いました。
今日は、その「ヘ長調の音階練習」が宿題で、そのほかは、テキストの続きを何曲でも-2曲でも3曲でも、本の最後まででも、とにかく自分で好きなだけやってきて、と言ってありました。
「どこまでやってきた?」
「つぎの1曲だけしかやってこなかった
」
そうか、全部で2曲か。
M4ちゃんにとって、2曲ぐらいの宿題がちょうどいいってことなのかな。
その辺にちょっと興味があったので、先週 あえて曲の指定をせず「いくつでも自分でできるところまでやってきて」と言ってあったのです。
M4ちゃんはお利口さんなので、たとえば5曲とかでも「宿題」と言われれば、なんとかがんばってやってくるんだろうし、反対に1曲しか宿題がなくて、自分の力が余ってしまっても「宿題はこれだけだから」と 持て余したまま1週間をすごしてしまうのかもしれない。
それで、先週「いくつでもいいよ」と言ってみたのですが、やってきたのはいつもと同じぐらいの2曲・・・
「10曲やってきちゃった!」とかの展開もありうるかも・・・と ちょっと構えたけど、まだ小2。
そこまでの野心は まだ育っていないようでした。
今 小2のM4ちゃんにとっては、先生に「これとこれが宿題ね」と課題と目標を決めてもらって、それをじょうずに弾けるように練習してくる、というだけで 充分幸せなんだろうね。
それ以上のことは いらないし、考えたこともないんだろうな・・・
大人から見たら、なんて欲のないこと、もっとどんどんがんばって進めてしまえばいいのに、と思われるかもしれませんね。
けれど、私は逆に、いくらでもできそうなのに欲を出さず、おっとりと でも与えられた課題には精一杯取り組んでくる、というM4ちゃんの姿勢に、むしろ彼女の気品のようなものさえ感じます。
「テキストを進めること」や「いくつマルがついてほめられるか」などが目標なのではなく、今やっている曲やピアノを心から楽しみ、教室に来ることや 先生とのレッスンを楽しみにしている、というM4ちゃんのピアノライフが、私には とてもピュアで、高尚なものに思えてくるのです。
それは言い換えれば、世俗的な進度や価値観とは無縁に、ピアノ(音楽)、ひいては芸術そのものを心から楽しんでいる、と言えるのではないでしょうか・・・
先週、初めて「ヘ長調の音階」の楽典的な説明を習いました。
今日は、その「ヘ長調の音階練習」が宿題で、そのほかは、テキストの続きを何曲でも-2曲でも3曲でも、本の最後まででも、とにかく自分で好きなだけやってきて、と言ってありました。
「どこまでやってきた?」
「つぎの1曲だけしかやってこなかった

そうか、全部で2曲か。
M4ちゃんにとって、2曲ぐらいの宿題がちょうどいいってことなのかな。
その辺にちょっと興味があったので、先週 あえて曲の指定をせず「いくつでも自分でできるところまでやってきて」と言ってあったのです。
M4ちゃんはお利口さんなので、たとえば5曲とかでも「宿題」と言われれば、なんとかがんばってやってくるんだろうし、反対に1曲しか宿題がなくて、自分の力が余ってしまっても「宿題はこれだけだから」と 持て余したまま1週間をすごしてしまうのかもしれない。
それで、先週「いくつでもいいよ」と言ってみたのですが、やってきたのはいつもと同じぐらいの2曲・・・
「10曲やってきちゃった!」とかの展開もありうるかも・・・と ちょっと構えたけど、まだ小2。
そこまでの野心は まだ育っていないようでした。
今 小2のM4ちゃんにとっては、先生に「これとこれが宿題ね」と課題と目標を決めてもらって、それをじょうずに弾けるように練習してくる、というだけで 充分幸せなんだろうね。
それ以上のことは いらないし、考えたこともないんだろうな・・・
大人から見たら、なんて欲のないこと、もっとどんどんがんばって進めてしまえばいいのに、と思われるかもしれませんね。
けれど、私は逆に、いくらでもできそうなのに欲を出さず、おっとりと でも与えられた課題には精一杯取り組んでくる、というM4ちゃんの姿勢に、むしろ彼女の気品のようなものさえ感じます。
「テキストを進めること」や「いくつマルがついてほめられるか」などが目標なのではなく、今やっている曲やピアノを心から楽しみ、教室に来ることや 先生とのレッスンを楽しみにしている、というM4ちゃんのピアノライフが、私には とてもピュアで、高尚なものに思えてくるのです。
それは言い換えれば、世俗的な進度や価値観とは無縁に、ピアノ(音楽)、ひいては芸術そのものを心から楽しんでいる、と言えるのではないでしょうか・・・