湯本温泉近くの大寧寺前を流れる大寧寺川に架けられた参道の盤石橋で、看板表示によると江戸期の寛文8年(1668)に架橋、宝暦14年(1764)に再架橋されたようである。盤石橋は雲谷雪舟の画した山門十境(金剛嶺、獅子峰、遊仙窟、呼猿洞、虎渓橋、白蓮池、盤石橋、深谷樵径、瀑布泉、三笑岩)の内の一つとされている。
また、いつの時代に呼称されたのか不明であるが岩国錦帯橋、徳地虹橋と共に防長三奇橋の一つとされていたようである。
昨日紹介した安徳天皇西市御陵墓参考地前に庚申塚が祀られており注連縄様のものが縄で吊り下げられて縄には紙垂(しで)が下げられていた。注連縄様の正式な名前があるのだろうが尋ねる人もいなかった。
当市域では庚申信仰はされていなかったのか庚申塚を見ることはほとんどないようである。庚申塚に注連縄様があるものを下関市菊川町で見たことがあり当ブログ主は二例目である。
昨日、下関市豊田町のとある寺へ供養のために行き周辺地域を散策したのでネタ切れ気味を補強するために紹介します。豊田町西市から湯本温泉に向かう途中豊田湖畔にある宮内庁指定の安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)があった。
現在宮内庁指定の安徳天皇御陵墓参考地は5ケ所あるようである。近くにはサンデン交通バスの「天皇様」と表示されたバス停留所があった。
先日、雉が近所の田んぼに来ていたことを紹介したが、それ以来この付近の田んぼに何度か表われている。
オスの雉が「ケェーケン・・・ケェーケン」と鳴いてからしばらくするとつがいでいたり、メスのみが田んぼで草の実を食んでいたりしているのでこの付近はこのつがいの雉のテリトリーなのだろうか。
時折り紹介している廿日市11代目桜島大根(上画像)と松本市東北部が特産の切葉松本地大根(下画像)が隣り合わせで蝶や蜂が飛び交っておりどのように交配していくものであろうか。
両方の種を採って廿日市12代目桜島大根と廿日市2代目切葉松本地大根を育てる予定であるがどのように出来るのか楽しみである。
先日、畑を耕していると冬眠していたのであろうか白ぽい蛙が土の中から出てきた。普通土の中に居る蛙は土色のようであるがなぜこのような色になったのであろうか。
詳しく観察していなかったが画像を見ると前足、後足の指が3本のようにみえるが・・・しばらくするとピョンピョン跳ねて石積みの隙間に入って行った。
延命寺の石垣を良く見ると長方形の石が多くみられこれらは墓石を転用したもので、かつてJR宮島口駅から厳島港にかけての墓地にあった無縁墓石が使用されたものとみられる。
城の石垣に墓石を転用した所は多くあるようで福知山城や大和郡山城などには多く使用されているようであるが、城の石垣以外に墓石が転用された石垣はあまり無いのではなかろうか。
宮島口地区にある延命寺に5日参詣したとき境内の桜は満開であった。延命寺は洞雲寺9世全室宗用大和尚(墓碑)が開山とされており、江戸期に無住の時期があったり洞雲寺の番僧が居たこともあったようである。
洞雲寺25世の大透祖関大和尚が延命寺5世となっているが年代的に合致せず歴住については不明の部分があるが洞雲寺との関わりは現在も続いているようである。
昨日紹介したタムシバの木に近づこうと山に入って行くと綺麗な花樹畑があった。桃の花やその他の花が咲いており近辺では見かけないミニ桃源郷である。
烏帽子岩山に向かって山道を登って行くとタムシバの木があったが小高い木であり花びらの画像をうまく撮ることが出来なかった。
明石峠の手前付近から烏帽子岩山系をみると一瞬残雪かと思わせるようなタムシバの白い花が山一面に咲いている。白い花はコブシと思っていたがタムシバのようである。
「四月上旬に雪かと見まがう真っ白な花が山一面に咲き、よくコブシといわれるが、タムシバである」(中国新聞記事2007年4月7日付、植物研究家・関太郎)-(中国地方の山100選(私の踏み跡)より)
先日、近所の田んぼで「ケェーケン・・・ケェーケン」とオスの雉が鳴いておりしばらく草の実を食んでいたので下画像を撮った。
目を離していたらメスが来ていたものとみられ遠くにつがいが見られた。きび団子の準備が出来ないうちにつがいの雉はどこかに飛び去って行った。
上平良地区にある大歳神社の桜は昨日現在満開の木もみられるが全体的には6~7分咲き位であろうか。
この神社の境内に建立されているずらりと並んだ奉納石燈籠は圧巻であり、桜を見ながら瀬戸内から宮島が望める絶景の花見スポットである。
原地区にある伊勢神社境内の桜並木にはボンボリが吊り下げられており週末には満開となりそうで花見に向けて準備万端である。桜を見ながら瀬戸内も望める絶景の花見スポットである。
地域の人々に大切にされてきた境内の桜はいつ頃植えられたのであろうか多くが老樹であり腐朽して伐採された枝もあるようである。