大峯山最高所の巨岩から縄梯子を伝わって下りていくと平坦地で休憩所があり、巨岩の東側には小さな祠が祀られている。ここから笹ケ峠方面に下る登山道がある。
江戸期の地誌には大峯山に天狗城戸と記されており、この祠は山岳信仰に関係するものかと思われたが、明治初年に小多田の西法寺の分仏として祀られたようである。
10日に登山したが紅葉には少し早く、柴栗がたくさん落ちており動物の餌となるものを少し頂戴した。
大峯山の胸突き八丁の登山道を登っていくと標高1039.8mの三角点があり、西方面に向かうと西大峯山、東方面に少し進むと大きなテラス状の巨岩と梯子を登って巨岩の上が最高所となる。
巨岩の上の最高所は標高1050m位あるとみられており、大峯山の駐車場や登山道を整備している大峯1050グループが建立した標高表示板がある。この巨岩の上からは瀬戸内の島々から西中国山地の山々など360度の眺望はすばらしい。
玖島地区に聳える標高1039.8mの大峯山で、吉末地区から遠望すると山頂東端の岩壁があるのがみられる。
川上分校跡から大峯ランド別荘地内道路を通り、杉・桧植林地内の胸突き八丁の登山道を登っていくことにする。急勾配で丸太階段が多く設置されているので、大幅で上り下りしなければならず大変つらい登山道である。このため丸太階段を通らず脇を通る人が多く各所に迂回道ができている。
昨日は秋祭りで上平良地区の1区から3区までの子供会・保存会などの俵みこしが氏神である速谷神社への奉納で境内は大賑わいであった。
趣向をこらした飾り付けをした俵みこしはお祓いを受けて、音頭を唄いながら掛け声をかけ神社をあとにした。
旧宮内村は隣接する村境の7ケ所に村境界石碑を建立しており、この石碑は明石峠(汐見坂峠)の旧宮内村と旧三和村境に設置されていたものである。
この石碑には三和村の村名が刻されていないので明治24年(1891)5月に宮内村単独で建立したものとみられる。当時主要な道路であったので藤掛山先端部の村境石碑と同じ大きなものである。7ケ所の内これまでに紹介した4ケ所の村境石碑が残されている。
今夜はよごろで明日は秋祭りであるが、先日の台風18号によって各所の幟がボロボロに破れているのが見られた。
台風はこちらに来襲はしないと甘くみたのか、そのままにしていたためにこの被害に遭ったのである。この前紹介した当ブロク組内の幟は降ろしていたために幸い被害に遭うことはなかった。
食後のデザートでプリンの上にチョコレートで輪郭を描きミカンの髪とパイナップルの髪飾り、サクランボの唇、銀コーティング砂糖菓子のネックレスやピアス、寒天のドレスなど・・・娘と孫の合作。
デザートの周囲からスプーンを持った手があちこちと伸びて、好きなところをすくってあっという間にシンデレラの顔が崩れてしまった。あァーおいしかった。
上平良大原地区にある都地蔵で田舎にあるのになぜか都・・・
江戸期の地誌にはミヤコ垣内という地名がみられ、明治期には都垣内という地名と都姓の家があったようである。近くにミヤコ井手があり井手の守り地蔵であるという人もいた。
大正頃に藤岡文学士(学者であろうが詳細は不明)は「国庁所在地ハ大原都地蔵ノ辺ナランカト思ハル」と滑稽な説を出している。
この地蔵さんは県道廿日市環状線の用地内になるためいずれどこかに移転することになるようだ。
旧宮内村は明治23年(1890)隣接する村境の7ケ所に村境界石碑を建立しており、この石碑は四郎峠の旧宮内村と旧大野村境に設置されていたものである。
現在のエコセンターはつかいち・はつかいちリサイクルプラザ下の道路付近を昔の西国街道が通っており峠部分が四郎峠で村境であったが、すでに主要道路の座を海岸沿いの新国道に譲っていたので石碑も小さいものとなっている。
実りの秋を向かえ氏神の秋祭りが近づいてきた。10日がよごろで11日には収穫を喜び合い氏神に奉納していた伝統行事の「俵もみ」が子供会によって行われる。
秋祭りを迎えるために町内組内の人達によって幟を立てたが、台風18号の進路が心配される。
前日までの雨天から昨日は秋晴れで絶好の運動会日和であった。
東京オリンピックの招致は叶わなかったが、市域の保育園では孫リンピックが開かれ将来のアスリート候補が一生懸命に走っていた。
幼児には市議会議員の紹介、挨拶は・・・
旧宮内村は明治23年(1890)隣接する村境の7ケ所に村境界石碑を建立しており、藤掛山先端部の村境は国道の整備で明治33年(1900) 旧宮内村長と旧平良村長の立会いでこの石碑が建立された。
広島県道247号線の整備に伴ってこの付近は大きく改変されており、現在は串戸陸橋下の市道沿いに建立されている。
玖島地区の平谷集落入り口付近に「西の明」と表示した珍しいバス停留所名があった。
これは地名で「西の明(西ノメイ)」というようであるが、地元の人もなぜこのような地名であるのか解らないそうである。この付近は大峰山の裾野で西側には高い山がなく夕方も遅くまで日が当たっていたから付けられた地名では?・・・
大町集落では高い山が南側にあり日当たりの悪いところが「カゲンチ(陰地)」と呼ばれているとのことであった。