上画像は七尾中学校校庭横の流れで、江戸期この付近から越峠垰を経て串戸にあった上田家御茶屋の御池に分水していたようである。江戸期に通っていた旧西国街道の越峠垰付近は明治期に山陽鉄道建設のために掘割りとなり、従来の旧街道や新宮川が遮断されたために大之木水路跨線橋が設けられ通行の用と下流域の水田を潤していた。
明治30年(1897)に開通した当時に設けられた水路跨線橋は昭和3年(1928)に複線化されており、昭和39年(1964)の電化により嵩上げされているので何度か水路跨線橋の変遷があった。
上画像は七尾中学校校庭横の流れで、江戸期この付近から越峠垰を経て串戸にあった上田家御茶屋の御池に分水していたようである。江戸期に通っていた旧西国街道の越峠垰付近は明治期に山陽鉄道建設のために掘割りとなり、従来の旧街道や新宮川が遮断されたために大之木水路跨線橋が設けられ通行の用と下流域の水田を潤していた。
明治30年(1897)に開通した当時に設けられた水路跨線橋は昭和3年(1928)に複線化されており、昭和39年(1964)の電化により嵩上げされているので何度か水路跨線橋の変遷があった。