浅原地区の旧家で見たことがないような珍しい画像のような床下透かし彫り欄間があったので平成26年(2014)4月に撮影していた。ところが現在当家は無住のようであり下画像のようになっているので先行きが・・・
浅原地区の旧家で見たことがないような珍しい画像のような床下透かし彫り欄間があったので平成26年(2014)4月に撮影していた。ところが現在当家は無住のようであり下画像のようになっているので先行きが・・・
昨日の中国新聞一面に広島市南区皆実町に残されている旧陸軍被服支廠の建物が、文化財指定への方向性が示されたと報道されており本日も関連報道されていた。ネタ切れ気味なので過去に旧陸軍被服支廠を訪れたときの画像を紹介いたします。内部画像は建築士会が催した見学会の際に撮影したものである。(1989.10.13撮影)(1998.7.30撮影)
和歌山県串本町の紀伊半島南端部にある潮岬灯台は我が国最初の洋式木造灯台であった。この灯台も先に紹介した角島灯台、六連島灯台、樫野崎灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治6年9月15日初点灯している。その後石造に改築され明治11年4月15日に再点灯しているようである。元吏員退息所は灯台資料展示室となっている。(2016.02.16探訪)
和歌山県串本町の紀伊大島にある樫野崎灯台で、この灯台も角島灯台、六連島灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治3年(1870)6月10日初点灯のようである。当初の灯台は低いものであったため昭和29年(1954)に継ぎ足し工事が行われたようである。この灯台も半円形貯納庫がみられ上部に展望台が増設されている。吏員退息所は国登録有形文化財に指定されており資料館となっている。(2016.02.16探訪)
下関市六連島にある六連島灯台で角島灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治4年(1871)11月21日初点灯のようである。石造の灯台で角島灯台に比べ低い灯台で半円形貯納庫は同じような形状である。吏員退息所や倉庫は取り壊されており灯台のみとなっている。(2019.04.04探訪)
元吏員退息所
クヅ瀬照射灯
元気象観測舎
角島灯台は角島大橋が開通した時以来の探訪で、灯台周辺には元吏員退息所、元倉庫、クヅ瀬照射灯、元気象観測舎などがある。明治政府は洋式灯台の有効性を強く意識し、英国人技師R.H.ブラントンを招聘して各所の灯台を設置しており、角島灯台は明治6年(1873)8月に起工して明治8年(1875)12月に灯台、吏員退息所、倉庫などが竣工している。
吏員退息所は創建当時の復元工事が行われて現在は灯台記念館として使用されている。クヅ瀬照射灯は沖合の国石岩礁上の標柱を照らす装置で灯台上部に併設されていたが、昭和47年(1972)3月に現施設が設置されたようである。旧角島灯台気象観測舎は昭和18年(1943)から昭和39年(1964)まで使用されていたようである。(吏員退息所関連-阿多田島灯台資料館)
今ではあまり見ることが無い閂(かんぬき)が昨日紹介した木野厳島神社境内にある神輿庫でみられた。倉庫や物置などの大きな開口部の両開き戸や折畳み戸などの施錠のための横棒を閂というが、現在はシャッターなどが設けられて見かけることが殆どないのである。
上画像は大田市駅跨線橋の渡り通路の小屋組みで見たことが無いような鋼材の組み合わせの小屋組みである。下画像は江津駅跨線橋の小屋組みであり山形鋼を組み合わせてリベット接合したもので、昭和期中頃まで採用されていた工法である。
大田市駅は大正4年(1915)に開業、江津駅は大正9年(1920)の開業であり、年数の隔たりは少ないのに小屋組み形状が異なっているのは昨日ふれたように大田市駅跨線橋が他所から移築されたのではないかと思われるのである。
大田市駅跨線橋
江津駅跨線橋
JR大田市駅の跨線橋で階段登り口両側の柱や渡り廊下の柱が珍しい鋳鉄製柱で造られている。登り口の柱脚部分には「MAKERS KOBE 1890」とあり明治23年(1890)に鋳造されたようであるが、当駅は大正4年(1915)に開業しているので他所から移築されたものであろうか。看板表示には帝国鉄道庁神戸工場で製造されたとあるが、帝国鉄道庁は1907年に設置されている。
下段画像は以前に訪れて紹介したことがある江津駅の跨線橋で階段登り口の柱脚正面に「鉄道院」側面に「明治四十五年 横河橋渠製」と鋳造文字が見られる。それ以前の英字鋳造文字のある大田市駅跨線橋柱は外国で製造されたものかも知れない。
昨年暮れに建築家磯崎新の訃報が報道されており、今月10日付の中国新聞文化欄に「磯崎新さんを悼む」との記事が掲載されていた。ストック写真をみていると当ブログ主が若い頃、博多駅前で磯崎新が設計したインド砂岩壁面の赤茶色が印象的な福岡相互銀行本店を竣工後に見に行った時の写真があった。 昨年11月に訪れた時にはすでに建物はなく西日本シティ銀行本店ビルの基礎工事であろうか仮囲いの中で工事が行われていた。
(佐方-2008年)
(飯山-2007年)
(浅原-2009年)
(中道-2007年)
(友和-2010年)
兎年となりましたのでストック画像から兎年に因んだ蔵飾り(通常鏝絵と言われているが当ブログ主は蔵飾りと称している)を紹介しよう。これらは平成19年(2007)から平成22年(2010)に廿日市地区と佐伯地区で撮影したものであるが現在は失われたものもあるようである。
寅年の本年も明日飾りとなりましたがストック画像から寅年に因んだ蔵飾り(通常鏝絵と言われているが当ブログ主は蔵飾りと称している)を紹介しよう。上画像は上平良地区で下画像は佐伯地区で見かけたものである。龍虎の同じような構図であり、同じ左官の作かどちらかを真似たものであろうか。
筑後川沿いの道路を走っていると赤い長い橋がみられ道の駅ならぬ橋の駅「ドロンパ」があった。小休憩して表示をみるとこの橋は旧国鉄佐賀線の筑後川昇開橋で、大型船の航行にあわせて中央の橋桁が上下する可動橋のようである。現在は廃線で遊歩道となっているようであるが先がある道中なので横目で通り過ごした。
佐賀市諸富町にある大堂神社を参詣した。三の鳥居は看板表示によると島原の乱に出陣した小城藩主鍋島元茂が戦勝祈願成就に、寛永17年(1640)2月に寄進したようである。柱は鋳造円柱4段重ねで2段まで砂が詰めてあり、笠木、島木、貫は銅板を鋲止めして笠木、島木には芯材に松材が使用されているようである。
この鳥居も初めて見る形式の鳥居であり、広島地方では見られないような鳥居三ケ所を訪れることが出来た。
※ 本日、当ブログを開設してから6000日目の大きな節目を迎えることができました。当ブログは見たままを記した万人受けするものではありませんが、多くの方々に御来訪して頂き大いに励みとなっております。可能な限りこれからも継続していきますので御来訪して頂きますようお願い致します。
佐賀城跡の近くにある松原神社には初めて見る磁器の鳥居と燈籠があった。鳥居は刻銘によると明治23年(1890)10月に西松浦郡の有田町、新村、曲川村、大山村、二里村の焼き物関係者により制作寄進されたようである。灯籠は嘉永3年(1850)8月に有田内皿山の焼き物関係者により制作寄進されたようである。