子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

60. お祭り 1

2013年05月15日 | 疎開生活
終戦後2か月か4か月して、地元のお宮で祭りがありました。

時ははっきりしないのはいつものことですが、祭りは10月にあったのではないかと思っていましたが、最近町史を読んでみたところ12月18日にクマノサンマツリが行われていた、とありました。分散授業があったお宮ですが、熊野宮というと町史にありました。

いずれにしても、終戦から4か月後にはお宮の祭りが行われたことになります。農家の人々のたくましさ、立ち直りの早さにびっくりします。

なにか芝居もありました(内容の記憶なしですが)。拝殿の下に、舞台を組み立てる柱や板が仕舞ってありました。それを青年や壮年の氏子たちが組み立てていきます。そこに舞台が出来ました。観客は舞台の前にござを敷いて舞台を見ました。

わたしの記憶に残っていることがあります。集落の人たちがお祝儀を包んできます。それを紙に書いて舞台の横に張ったロープに吊るします。ロープは舞台と近くの木にわたしてあり、滑車で動くようになっていました。滑車は絶え間なく動き、お祝儀の金額と名前はどんどん増えていきました。

戦争中に祭りがあったかどうかはわかりませんが、終戦の年にはちゃんと祭りはありました。

このときのお祭りで記憶に残っていることがもう一つありますが、それは次回に書きます。

59. 母校再訪

2013年05月09日 | 疎開生活
5月9日、母校の国民学校を訪れました。道路から少し入った高台にありますが、入り口を間違えて、通り過ぎてしまいました。50メートルくらい引き返しました。

学校の面影は全然ありません。「ふれあい広場」という名称になっていて、男女6人がグラウンドゴルフをしていました。


戦争が終わって分散授業から本校に帰って、運動会があったことを思い出しました。グラウンドゴルフをしているところを走ったものです。

なにか当時のものが残っていないかと歩いてみました。
サクラの木は青葉になっています。わたしが小さい小さいサクランボを食べたサクラと同じかはわかりませんでした。

グラウンドの隅に旗を立てる石、幟枠(のぼりわく)とか旗杭(はたくい)とか言うらしいです。これが残っていました。


「謝恩記念  森十造  昭和十一年九月弐三日」の文字が刻まれていました。
確かにわたしたちの国民学校時代にもあったものです。


58. わたしの8月15日

2013年05月05日 | 疎開生活
1945(昭和20)年8月15日は晴天で、朝から強い日差しでした。

これから本土でも戦争になり、いっそう空襲がひどくなるということが言われていました。夏休みになると母屋の土地を借りて防空壕をとうちゃんと掘りはじめました。
家から百メートルくらい離れた竹やぶの斜面に横穴を掘りつつありました。ここは阿蘇火山帯の凝灰岩で、鍬で掘り岩のかけらは、ざるで外へ運び出しました。岩と言っても柔らかく、作業はしやすかったです。凝灰岩は当時はわが市にも櫟野石(いちのいし)と言って、石を切り出していました。今は八女の石灯籠が有名です。

15日の朝、鍬とざると湯を沸かして入れた土瓶を持って、作業中の防空壕に行きました。
午前中いっぱい作業して、昼食に帰りました。

一休みしていると、伯母さんところの養子のよっしゃんが来ました。
「おっつあん、戦争は終わったですバイ」
「……」
「ひる、放送のあって天皇陛下が言われたですケン」

それを聞いてとうちゃんもわたしも力が抜けてしまいました。
午後また防空壕つくりを続けるつもりで鍬とざるは置いてきましたが、それを取りに行く力もなくなりました。
そのあとはタタミにごろごろして過ごしました。

鍬とざるは何日かして取りに行きました。

その後作りかけの防空壕がどうなったかは知りません。

57. 空襲

2013年05月02日 | 疎開生活
家の前で騒がしい声がするので出てみると、山の向こう(生まれた町)が火事のようです。それも大規模の火災のようです。
「空襲やろ」
暗闇の中でだれかが言っています。

これは後でわかったのですが、昭和20年6月17日の深夜から18日午前1時ごろにかけて、市の中心部が被害を受けた空襲でした。

夜の空襲はもう1度、7月26日から27日にかけてやはり深夜に、諏訪川と堂面川にはさまれた市街地のほとんどが破壊され、焼き払われました。
このときも夜中でしたが、見ていました。真夏でもブルブル震えていました。

この2回の空襲では幸いにも生家は焼けませんでした。

被害に遭ったのは、終戦のわずか8日前、8月7日の昼ごろの空襲によるものです。この日17機のB24が工場地域を空襲しました。
そのときの爆弾1発がわが家から10メートルくらいのところに落下しました。そのためわが家のかわらは落ち柱は傾きました。

物的被害はあとでなんとかなりますが、とうちゃんのいとこは赤ちゃんを背負って昼の用意をしていました。そこへ爆弾の爆風が襲い、即死だったそうです。背中の赤ちゃんは幸い無事でした。子どものとうちゃんからずーつと後で「牛乳はないときだったし、もらい乳も出来ないし、育てるのに苦労しました」と聞きました。

*空襲のとき、被害などは「大牟田の空襲を記録する会」の記録によりました。

56. しょうのう小屋で

2013年04月29日 | 疎開生活
下の集落にしょうのう(樟脳)小屋がありました。戸や窓のない藁ぶきの小屋があり、いつも水蒸気が立っていました。クスノキを伐採して、それから天然のしょうのうを取るのです。大きいクスノキを切っているところは見ましたが、どのようにしてしょうのうが出来るのか、出来上がった製品はどんなものか、見たことはありません。

昭和30年代半ばまで、クスノキを伐採していました。しょうのうの製品で一番知られているのは防虫剤です。このころまでは天然のしょうのうを防虫剤として使っていたのでしょう。

ここではしょうのうが主役ではないのです。
前に青年が集落にはいなかったと書きましたが、ひとりだけいたのです。それがしょうのう小屋にいたのです。二十歳代の青年が働いていました。健康そうな青年でした。そのころ、どうしてこんな青年が兵役につかずにここにいたのか、いまでも不思議です。

分散授業のお寺の近くにしょうのう小屋はありました。休み時間にわたしたち数人がしょうのう小屋に遊びに行きました。
くだんの青年がポケットからゴムみたいなものを取り出して、わたしたちになにかわかるかと聞きました。
わたしたちは頭を傾げるばかりです。
青年は口で空気を入れて膨らませました。
風船みたいだけど、違うようです。

その場にしょうのう小屋の、5年生の女の子がいました。その子が「うちは知っとる」と笑いながら言いました。その笑いはずーつと年上の女みたいでした。

後年、それは避妊ためのゴム製品と気づきました。
おくてもいますが、わせもいます。前回の高等科の先輩たちの夜這いも実話かもしれませんね。