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子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

餅搗きが多い日

2014年12月28日 | 小学生時代
きょうは12月28日です。

わたしの小学生ころは餅搗きが多かった日です。ほとんどが家で餅を搗いていました。朝から餅を搗くキネの音が近所から聞こえて来ました。わが家でもこの日に搗いていました。

29日は9、く、苦に通ずるとこの日は搗きません。
神棚に供えるのは30日です。これも決まっていました。31日に飾るのは1夜飾りと何故かしませんでした。

30日に飾るためには遅くとも28日に搗くのです。

小学生の下学年のころは戦力にならないので、餅つきの日は遊びに行かせられました。この日は友だちが集まらないのです。それぞれ手伝わされますから。

3,4年生になると餅を丸める手伝いをさせられます。

もち米は蒸籠(せいろ)で蒸かします。臼に蒸かした米を返すと蒸籠に米がくっついて残ります。それを食べるのも楽しみでした。

ツレは餡餅をその日に食べるときには火で焼いて、おばあちゃんが「昨日の餅、昨日の餅」と言って食べさせられたと言います。理由は聞いていないようです。

そんな12月28日でした。

きょうは12月8日

2014年12月08日 | 小学生時代
先輩から電話がありました。

「きょうは12月8日だぞ。何の日かわかっているかい」
「はい、わかっています。太平洋戦争に突入した日です」
「覚えていたな」
「わたしは中学3年生だった。教官が4,5年生はすぐにでも戦地に行くだろう。その覚悟でいろと言ったのよ。当時わたしはこれで期末試験はないなと思った」
「試験はなかったのですか」
「ばっちり、あった。がっかりしたのを覚えている」

小学生だったわたしはその日は東方遥拝があったように覚えています。
東方遥拝は九州から東にある皇居を向いて、敬礼することです。朝礼のときに先生の号令で東方遥拝をしていました。

昭和16年12月8日のあと、毎月8日に天満宮に学校全体で参拝に行きました。身内に不幸のあった生徒は入口の鳥居の近くで参拝が終わるのを待ちました。

そんな思い出のある12月8日です。

タタミのヘリを踏むな

2014年11月23日 | 小学生時代
NHKの朝ドラ「マッサン」で畳は目に添って拭けとかヘリを踏むなとか言われて、外国人のエリーは戸惑っていました。
これはまだ大正時代の話ですが、昭和10年代でもしばしばおっかさんから言われました。

明治生まれのおっかさんです。当然親からそう躾けられていたのでしょう。わたしもさんざん言われました。
その訳はわかりませんでしたが、踏んだらいけないのだなあ、と親の言うことを守るようにしました。

よくわからないまま、親の言うことを聞いたことも多いですね。

平成の今の子どもたちは「なんで、なんで」とその理由を聞くでしょうね。
その時には答えられません。勉強が必要です。(;一_一)

出針 夜爪

2014年11月12日 | 小学生時代
朝出かけにツレが洋服のボタンが外れたが、母は出針はしてはいけないと言っていた、と言いました。

それで思い出しました。
うちのおっかさんも言っていました。出かけに針を使うといけないと。理由を聞いたことはありません。出先で災難に遭うのでしょうか。よくわかりません。

どうしても針を使わねばならないときには、「ああ忙し、ああ忙し」と言いながら針を使っていました。それがおまじないみたいでした。ツレも同じ呪文を母親から聞いたと言っています。

夜の爪切りもタブーでした。夜は爪を切ってはいけないと言われていました。これも理由はよくわかりません。
昼間明るいところで切るように、これがおっかさんの口癖でした。

出針、夜爪は平成の時代にはないでしょうね。昭和以前のことかもしれません。

チンチン電車の記憶

2014年11月05日 | 小学生時代
市内にもチンチン電車が走っていました。市中心部から南へ5キロ弱、昭和2年から同27年まで運行されていました。
実際に走っていた電車を有志が探して来てペンキ塗りなどして展示に備えています。



これを見たときに市内を走っていたのでしょうが、わたしの記憶と少し違うと思いました。
電気を架線から取るパンタグラフが記憶と違うのです。

NHKの朝ドラ「マッサン」のドラマの舞台は大阪です。ここを走る電車が「マッサン号」として先月ラッピングされて運行されたそうです。車両は昭和3年製造とありましたが、パンタグラフはわが市で展示予定の電車と同じでした。

わたしの記憶ではパンタグラフは1本の棒状(ポール)でそれの先端に円形の金属があり、ポールにロープが繋がれていました。そんな電車がないかとネットで調べましたがありません。

それが「明治村」にあったのです。明治村で走っていました。それが次の写真です。



前にお相撲さんのまわしのような網はわが市の電車にもありました。人をひかないようないようにと聞いたように覚えています。

チンチン電車は終点まで行くと後先が変わります。今までの後ろが先頭になります。そこで車掌さんがポールについたロープを持って後部の電線にはめかえます。これがうまくいかなくて、車掌さんは苦労していたようです。乗客はそれをゆっくり見ていました。

チンチン電車の思い出はもう一つあります。
太平洋戦争中男子の運転手が足りなくなり、女性の運転手さんがいたと聞きました。