1937年(昭和12)わが市で赤痢が爆発的に発生しました。
市史によれば「9月25日に突如として全市にわたって赤痢患者が
爆発的に発生し、日を追うごとに蔓延し、ついに患者数は
11,851名となり、ほかに疫痢患者97名、内死亡者712名に及ぶ
大流行であった。」
火葬場は25日から昼夜兼行で作業したため28日にはその過熱に
よって焼失した、ほどだったそうです。
また、患者のほとんどが1歳~5歳の乳幼児でした。
爆発赤痢と呼ばれています。
ここからは多恵ちゃんの話になります。
「ふみちゃん(わたし)は腹をこわして蚊帳の中で独りで寝せられて
いたのよ。わたしが傍についていたら、わたしのほうが赤痢になって
隔離された。小学校が臨時の隔離場所になったと。
学校の柵の外からおっつあん(わたしのとうちゃんのこと)が
多恵子、多恵子と呼びなはると。なんやろうかと行くとキャラメル
ば手渡してもろうた。うれしかったよ」
わが家にはグミの木があったが、小さい子どもが実を食べて腹を
こわしたらいけないと、このあとに切られたようです。

写真は亡くなられた712人を祭った慰霊碑です。市中心の公園にあります。
市史によれば「9月25日に突如として全市にわたって赤痢患者が
爆発的に発生し、日を追うごとに蔓延し、ついに患者数は
11,851名となり、ほかに疫痢患者97名、内死亡者712名に及ぶ
大流行であった。」
火葬場は25日から昼夜兼行で作業したため28日にはその過熱に
よって焼失した、ほどだったそうです。
また、患者のほとんどが1歳~5歳の乳幼児でした。
爆発赤痢と呼ばれています。
ここからは多恵ちゃんの話になります。
「ふみちゃん(わたし)は腹をこわして蚊帳の中で独りで寝せられて
いたのよ。わたしが傍についていたら、わたしのほうが赤痢になって
隔離された。小学校が臨時の隔離場所になったと。
学校の柵の外からおっつあん(わたしのとうちゃんのこと)が
多恵子、多恵子と呼びなはると。なんやろうかと行くとキャラメル
ば手渡してもろうた。うれしかったよ」
わが家にはグミの木があったが、小さい子どもが実を食べて腹を
こわしたらいけないと、このあとに切られたようです。

写真は亡くなられた712人を祭った慰霊碑です。市中心の公園にあります。