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子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

一穴主義か

2016年02月11日 | 大人になって
退職後に高校時代からの友人H、Y、Tとたびたび旅行しました。

旅行先で、Tがわたしに「一穴主義か」と聞いたことがあります。

「主義じゃなかばってん」
あいまいに答えました。

Tはそれ以上聞きませんでした。
わたしもそれ以上言いませんでした。

二十歳のころには、まだ赤線がありました。そうそう、Tの家の近くには
赤線の家がありました。

わたしは臆病者です。病気が怖かったのです。1回、赤線の並ぶ地域に昼間
年上の知り合いと行きました。
でも、上がることはできませんでした。

奨学金を支給されると「ちょっと行ってくる」と出かける知り合いもいました。
せいせいした顔で帰って来ていました。

赤線が無くなると温泉旅館などで女性が相手にするという話があちこちで聞かれました。
男ばかりの職場では慰安旅行でそんな場所へ出かけることが多くなりました。

職員になって2,3年目に某温泉に行きました。男ばかり7人の職場でした。

翌朝朝食のときに年増の女中が「きのうはみんなゆきわたったネ」と聞きました。
「こん人はしとらっさん」と連れのだれかがわたしを指差しました。

「そんならこっち来んね」
別の広間に連れて行かれて、「早よパンツ脱がんね」と急かされ、上からかぶさってきました。

それがわたしの筆おろしです。

面白味のない男

2016年01月18日 | 大人になって
ブログを閲覧してくださる人は、よくお分かりのようにわたしは
面白味のない人間です。

酒が飲めません。3度の失敗の後は意識して飲まないようにしています。
ほとんど職場の人たちとも飲みませんでした。
だから、飲み友達もいません。
今でも晩酌はしません。たまに飲んでもチョコ3杯くらいです。

パチンコもしません。2,3度あの騒音の中に行ったことはあります。
でも、これは素人が勝つはずはないと思いました。
それ以後は行きませんでした。
現役のときには昼休みにパチンコに行く人もありました。そんな時代でしたが。

ゴルフもしませんでした。
これは勧められました。でも、話を聞くと金がかかるスポーツのようでした。
道具もゴルフ場の費用も。
話を聞くだけで、あきらめました。

麻雀もしませんでした。友だち4,5人のグループで旅行に行くことがありました。
そこでは一人麻雀好きがいましたので、食事の後で卓を囲むことが多かったのですが、
わたしは欠員の補充要員でした。
点数を数えることもできません。

飲む、打つ、買うと言います。買うの方も語ることはありません。

自分で言うのもなんですが、ほんとうに面白味のない男です。

酒での大失敗も三度まで

2015年11月20日 | 大人になって
仏の顔も三度と言いますが、わたしも酒の大失敗を三度しました。
それからはほとんど飲まなくなりました。

1度目は高校卒業の年でした。
夏休みに高校1年生の時のクラス会を当時の担任の先生宅でするから集まろうと
いうことになりました。
昼に集合と幹事から伝えられました。

先生を囲んで昼飯を食べるのだろうと、昼抜きで先生宅に行きました。
幹事はボクシング部だったSたちでした。

なかなかクラス会は始まりません。
しゃべりながら仲の良いYと Tとで待ちました。

夕方になってクラス会は始まり、出たのは焼酎です。まだ未成年でした。
ほんとうは飲んではいけないのです。

Y とTに支えられてやっと家に帰りました。
おっかさんが二人をおごる(叱る)のですよ。どうして飲めんのに飲ませるのか、
二人の責任のように二人に当たりました。

YとTにはすまんことでした。

2度目は正職員前のアルバイト時代のことです。
大きなイベントがあり、開会式の当日の夜です。弁当と酒が出ました。
先輩たちが畳の部屋で、酒を飲みながら弁当を食べ始めました。

「こっち来て、いっしょに食べよう」「そうせろ、そうせろ」
先輩たちが呼びます。
新米の、アルバイトとしては断われません。

傍で弁当を広げると、「さあ、一杯飲め」と酒を勧められました。
前夜は徹夜でした。
そこへ酒を飲んだので、酔いが回ります。

立とうとしたときに膝が「くきっ」といいました。
前に野球をしているときに膝のねんざの前歴があります。そこをまた痛めたのです。
翌日から1週間ばかり休みました。

「辞めさせろ。アルバイトは何人もいるだろう」
上司の1人がそう言われたそうです。
ある人が後で話してくれました。その人がわたしをかばってくれたそうです。

もしその人がいなかったらわたしの人生はどうなったかわかりません。

その人はその後もいろいろお世話をかけている大先輩です。
その先輩がとりなしてくださって首はつながりました。
大恩人です。いまでも兄事しています。

3度目は2度目から10年以上経っていました。
係長から飲みに誘われました。女性職員と3人で飲みに行きました。
このときは酒をコップで飲みました。まだ陽が明るいうちで、そう飲まなかった
のですが、さあ帰ろうというときに足がふらついてよく立てなくなりました。
係長と女性に両肩を支えられて、アパートの階段を4階まで上がりました。

それ以後は飲むときには用心、用心を重ねて酒には飲まれないように気をつけています。

恥かしい話です。

50円を返しに行く

2015年10月22日 | 大人になって
昼間ドラマの再放送を見ていました。

母親が息子の写真の前でお嫁さんの刑事に話していました。
息子はお釣りが10円多かったと言って夜中に返しに行った。
10円くらいいいじゃないかと言うと警察官がそれではいけないと亡くなった
息子は言った。

そんなシーンでした。
わたしもそれを見ながら思い出したことがあります。
わたしの場合50円玉でした。

バスでお釣りをもらって、降車しました。昭和40年代の前半だったと思います。
まだバスカードはなかったと思います。バスカードはあってもわたしが持って
いなかったのかもしれません。乗車賃を現金で払いました。

お釣りは50円のはずです。家に帰ってよく見ると100円玉でした。

同じ路線のバスを待って、「何時何分にどこ行きのバスでお釣りを多くもらった。
その時の運転手さんに返してください」と言って50円を返しました。

その時にはそれがベストと思いました。
でも、よく考えてみるとわたしが乗ったバスの運転手さんは営業所に帰り、その路線の
清算は終わったはずです。
あとから考えると、50円を別の運転手さんに託したのはわたしが乗ったバスの運転手さんに
不利益になったかもしれません。

バカ正直は死ぬまで治りそうにありません。

ふなやきから一銭洋食へ

2015年05月18日 | 大人になって
ふなやき」は主食ではないですが、主食的な食べ物でした。食べて一時的でも腹を満たしました。
少しでも腹を満たすように作っていました。ふくらし粉を入れて少しでも厚くなるようにも作られていました。

食糧事情がよくなるとふなやきから一銭洋食を作るようになりました。

「一銭洋食」は最初からオヤツだったと思います。
一銭洋食とどうして言うのか知りません。洋食は西洋の食べ物という意味でしょうが、どこが西洋でしょうか。一銭は安いということでしょうか、これもよくわかりません。

一銭洋食は小麦粉と何種類かのトッピングで作りました。

小麦粉を水で溶きます。「ふなやき」よりも柔らかく溶きます。
これを油をひいて温めたフライパンに流し込みます。「ふなやき」よりも薄くです。
熱で乾いてしまわないうちに、上に削り節、とろろ昆布、小ネギなどトッピングを載せ、はけで醤油を塗ります。
裏返して、火が通ったら二つか三つに折りたたんで、出来上がりです。

「一銭洋食」は今のようにケーキが食べられない時代、昭和の30年代のわが家ではまだそうでした。おやつでした。
わたしも子どもたちも喜んで食べたものです。