子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

ノコくずかまど

2014年12月01日 | 中、高時代
戦後の中学生のころ、ノコくずかまどがありました。
ノコくずというのは木をのこぎりで切るときにでるくずのことです。家庭用の燃料は薪、木炭などがありました。後では石炭、コークス、豆炭などもありました。

燃料が少ないころ、ノコくずも燃料として使われていました。

ツレの家ではノコくずかまどがあったそうです。上に鍋をかけてお湯を沸かしていたと言います。
円筒形のかまどで真ん中に木の棒を立て、周りにノコくずを詰め込んでいきます。それを固めて、下の焚口に火をつけます。ノコくずが燃えて熱源になります。

わたしの家でははこんな炊事用のかまどは使っていませんでした。
戦後としおじさんところでもらい風呂していました。この風呂を沸かすのがノコくずでした。
かまどの詳しいことはわかりません。
ただ、円筒形のかまどで真ん中に木の棒を立て、その周りにノコくずを詰め込んで固め、下の焚口から燃やしていくのは同じです。

平成の今は製材で出るノコくずは減っているでしょう。ノコくずかまどが残っていればぜひ見たいです。

徽章もボタンも陶器製

2014年11月27日 | 中、高時代
きょう(11月27日)NHKあさイチのジャパナビで多治見の陶器が出ていました。
そのなかで、陶器でできたイヤリングやボタンが出てきました。
それで思い出しました。

わたしが中学に入ったのは1946(昭和21)年でした。
新品の帽子や学生服を買うことはできませんでした。なかったのです。

上級生がかぶっている帽子の徽章は陶器製でした。ボタンも陶器でできていました。実用だけを考えて作られたもので、今朝のテレビで見たような美しくてかっこよいものではありませんでした。
金属製がなかったのです。戦争中金属類は供出させられました。ボタンや徽章が供出させられたのではないかもしれませんが、そのころから金属製がなくなったのかも、と想像します。

普通のボタン(シャツのは貝殻製が多かったと思います)もなかなか買えませんでした。

ツレはこんな話を今でもします。
「親戚のおばさんからシャツをもらったのよ。うれしかったけど、ホックを全部取ってからくれたので、そのまま着られなかった」

ホックも貴重品でした。シャツはやってもホックはやりたくなかったのでしょう。

戦争中や戦後はそんな時代でした。
テレビを見ながらそんな話を思い出しました。

カレーライス

2014年09月26日 | 中、高時代
これは昭和21年ごろのこと記憶しています。

叔母さん(おとっつあんの妹)のところへ行ったときのことです。カレーライスが出ました。今では当たり前ですが、銀シャリに肉が入っていました。
ヤミ米をおっかさんが扱うようになってからは銀シャリは見慣れていますが、肉は珍しかったです。

その肉は大きな缶詰に入っていました。今アメリカ系のスーパーにはいろいろ大きな缶詰があるようですが、当時初めて見る缶詰の大きさには驚きました。
そのころからわたしたちは「缶けり」と言う遊びをしたり、缶の底に穴をほがして紐をつけ、竹馬のように乗って遊んだりしました。このときの缶に紐をつけたら天狗さんの高下駄のようになったでしょう。

どうして、叔母さんの家にこんな缶詰があったかと言うと叔父さんが炭鉱で働いていたからです。炭鉱で働く人たちには特別にいろいろな物資が配給されていました。

「丸炭」と言っていました。炭は炭鉱の略でしょうか。それを丸で囲んで、炭鉱で働く人たちを現わしていたようです。
子どもでも「あそこは丸炭でよかもん」とうらやましがっていました。

カレーライスのうまさは覚えていません。缶詰の大きさばかりを覚えています。

叔母さんの家(社宅でした)にはチンチン電車で行きました。その電車と肉のことを思い出しました。それはまた改めて書きます。

野球がいっち好き!

2014年09月16日 | 中、高時代
中学から高校まで近所の仲間とやっていた草野球が人生でいっち(一番)好きでした。こう断言してもいいです。
成績も普通、体力は人並みとは言えず、社会に出ても、鳴かず飛ばず、これからも平々凡々の一生になるでしょう(それを望んでいます)。

そんな人生で、野球をしているときは生き生きしていました。食べることも学校のことも忘れていました。幸せでした。いま思えば人生でいちばん幸せな時期だったと思います。

社会では上司や同僚の顔色を見なければなりません。言葉も気をつけねばなりません。生きていくことが難しいです。あっち向けホイでもないのに、最初からあっち向いている人もいます。

野球にはそんな心配はありません。仲間といかに楽しく、気持ちよく野球をやるかを考えればいいのです。持っている力をより大きく使えるようにみんなで考えていけばいいのです。

社会に出てからは心配、いやなことなどなどたくさんありましたが、野球ではそれがほとんどないのです。
試合を一つ一つは覚えていませんが、嫌な記憶はありません。

野球していたときはよかったなあ、という記憶だけです。

これまでの人生で「野球がいっち好きです!」

T君との思いで

2014年09月13日 | 中、高時代
中学、高校と同級生でその後も今日まで付き合ってきたT君が亡くなりました。

通夜に行くと翌日の葬儀で弔辞を読んでほしいと奥さんから頼まれました。高校卒業後も仲よく付き合っていた友だちのうちY君とH君すでに亡くなっているので、存命はわたし一人だからとわたしに頼まれたのです。

それで葬儀社の人に聞きました。
「弔辞から書きだすのですか」「弔辞という言葉は使いません」
「……最後は合掌で終わりますか」「合掌という言葉も使いません」
「じゃ、なんという言葉で始めますか」 「名前を言って呼びかけから初めてください」
「弔辞も使わないで呼びかけから始め、合掌で終わらないなら、これでお別れの挨拶とします、で終わりますか」
「お別れの言葉もいけません。人間は2度死ぬと言われます。1度が肉体が死んだときです。2度目はその人を思い出すことがなくなったときです。生きている人が思い出す間は死なないのです」
「なるほど…………」

ーT君 君との思い出はたいろいろあるけど、強烈でそして最初の思い出は高1のときに二人で廊下に立たされたことです。組主任で社会科担当のYU先生をなんで怒らせたのか覚えていませんが、授業が終わるまで二人とも廊下に立たされましたね。廊下を通る者にジロジロ見られて、ずっと下向いて立っていました。ー

このあと野球のチームメイトとしての話、会社を退職後の旅行などの思い出を話しましたが、それは省略します。

最後にー思い出がいっぱいです。オレは君を忘れません。夢でもいいから出てきてよ。いつでも待っています。ーで終わりました。