霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

伊都国歴史博物館

2011-06-06 21:04:30 | 歴史/古文書
この歴史博物館は平原原にあるのです。古代の伊都国は約150平方メートルと小さな都市国家ような国でした。博物館2階には平原王墓と推定される弥生時代末期の1号墳は東西13メートル、南北9.5メートル、高さは2メートル位の方形墳での周囲に溝が作られている。それから発掘された銅鏡が部屋一面に並べられています。しかも全部国宝でホンモノです。国宝の多さに圧倒されました。また銅鏡は直径46.5センチと日本で一番、いや世界最大の銅鏡で5枚出土している。それも含めて40枚の銅鏡が出土しているこれは奈良県で80数枚出土に継ぐ多さである。この王墓からはガラス玉や勾玉、菅玉など装飾品の出土が多いことから女王の墓ではないかとも言われている。

伊都国について

2011-06-05 20:47:51 | 歴史/古文書
ここは伊都国の中心地であったといわれいる平原原である。魏志倭人伝によると邪馬台国の中で2番目に大きな国であったと、人口は千戸はあったと書かれているが歴史資料館に館員の説明では1万戸ではないかとおっしゃっていた。ここは玄界灘に面し大陸からの到着地であった。邪馬台国の海の玄関口としての役割を果たしていたのではないか、それが博多津の筑紫館→鴻櫨館に移りさらに大宰府へとその権力が移っていったといえる。私が質問をそのようにしたところ「そう」ですとのお答えであった。

伊都国は「一大率(いちたいすい)を置き、諸国を検察せしめる」など諸国に比べ格の高い国でもあった。

 今日はあいにくこのような雨のため車中から眺めただけであったが、ヘラバラ応募の方形古墳が見られるのである。このあたり一帯3から4個の古墳が見られた。

鎮懐石八幡宮からの眺め

2011-06-03 16:50:00 | 歴史/古文書
今日は雨のため眺望はよくないのですが晴天のときは10キロ離れた姫島や60キロ離れた壱岐が見えるとのこと、志摩姫島はがんじ元年(1864)とか杉新作が俗論等の終われ九州に逃げ、幕末の上流歌人であった野村望東尼の平尾荘にかくまわれ助かった。しかし野村望東尼は過激派に組した罪で姫島に流され獄舎に(お堂)に入牢された。慶応元年のことである。10ヵ月後晋作は同士6人をもって望東尼を救出して下関に連れ戻した。晋作臨終の辞世の句の下句を入れた女人である。

鎮懐石とは

2011-06-02 16:38:07 | 歴史/古文書
その昔古代神功皇后が新羅征伐にここから船出をするときすでに懐妊しておられお産の時期を延ばすため卵型の石2個を腹に抱いて鎮懐として出産の時期を祈られた。その甲斐あって帰国後に応神天皇を生まれたとか、そこでその石を鎮懐石と名づけて崇拝するようになったと。しかし祠はあったが社はなく社が出来たのは江戸時代の天和3年(1683)に創建されたとのことでした。また磯はこの神社の階段のところまであったことが平成10年の浄化槽工事のときにわかったとのことです。

鎮懐石八幡宮神殿と幣殿

2011-06-01 15:38:09 | 歴史/古文書
この幣殿に宮司さんが揚がって私たちを迎えてこの神社の由緒などの解説をいただいたのです。私たちは拝殿に座ってお話を聞きました。この拝殿の床板は幅85センチと広く一枚板です。宮司さんの話では松の木の一枚板を使っているとのことです。この社は昭和11年に再建されていますが当時はこの近くにこのような大木の松林があったとのことです。
奥に鏡が見えるのが神殿です。