この歴史博物館は平原原にあるのです。古代の伊都国は約150平方メートルと小さな都市国家ような国でした。博物館2階には平原王墓と推定される弥生時代末期の1号墳は東西13メートル、南北9.5メートル、高さは2メートル位の方形墳での周囲に溝が作られている。それから発掘された銅鏡が部屋一面に並べられています。しかも全部国宝でホンモノです。国宝の多さに圧倒されました。また銅鏡は直径46.5センチと日本で一番、いや世界最大の銅鏡で5枚出土している。それも含めて40枚の銅鏡が出土しているこれは奈良県で80数枚出土に継ぐ多さである。この王墓からはガラス玉や勾玉、菅玉など装飾品の出土が多いことから女王の墓ではないかとも言われている。
ここは伊都国の中心地であったといわれいる平原原である。魏志倭人伝によると邪馬台国の中で2番目に大きな国であったと、人口は千戸はあったと書かれているが歴史資料館に館員の説明では1万戸ではないかとおっしゃっていた。ここは玄界灘に面し大陸からの到着地であった。邪馬台国の海の玄関口としての役割を果たしていたのではないか、それが博多津の筑紫館→鴻櫨館に移りさらに大宰府へとその権力が移っていったといえる。私が質問をそのようにしたところ「そう」ですとのお答えであった。
伊都国は「一大率(いちたいすい)を置き、諸国を検察せしめる」など諸国に比べ格の高い国でもあった。
今日はあいにくこのような雨のため車中から眺めただけであったが、ヘラバラ応募の方形古墳が見られるのである。このあたり一帯3から4個の古墳が見られた。
伊都国は「一大率(いちたいすい)を置き、諸国を検察せしめる」など諸国に比べ格の高い国でもあった。
今日はあいにくこのような雨のため車中から眺めただけであったが、ヘラバラ応募の方形古墳が見られるのである。このあたり一帯3から4個の古墳が見られた。