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房家と大内義興の娘との間にできた男子恒持は3歳のとき大内義隆の養子となって名を晴持として大内家の嫡男として尼子氏討伐のため月山富田城攻めのとき出陣したのですが、軍の武運がつたなく逃げ戻るとき出雲の井屋浦で小船に乗っていたのですが雑兵らが相次いで船の周りに我も我もと小船に乗りたいために船を手でつかみ這い上がろうとする。船が沈むので重臣冷泉隆豊は太刀でそれらの手を切り落とすも、晴持の乗った小船はひっくり返り鎧をつけた晴持は溺死してしまったのである。晴持19歳のときであった。井屋浦の人々は哀しみまた祟りを恐れて大内神社を建立し、いまでも大事に守っているそうである。そういった縁もあってその父上である房家の墓にも参ったともいえる。中央の卵形の墓が一条房家の墓である。
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中央にあるのが房家の墓、手前の墓、遠くに半分見える墓はいずれも房家の縁者の墓であるが、正室か側室の墓かもよくわかっていない。
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これでようやく土佐一条家5代の探訪は終わるのですがそれからがなお大変です。コンビニで弁当を買ってバスの中で食べながら一路宿毛の街へそれから宇和島、伊予市、松山、新居浜、しまなみ街道、尾道、広島、岩国、下松、山口へとなんと8時間の長時間バス揺られて帰ってきたのです。強行軍の研修旅行でした。
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