霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

栄誉周慶大姉

2008-09-13 19:33:30 | 歴史/古文書
 この人は生前二の丸様といわれ毛利輝元の側室でした。長州藩初代藩主毛利秀就公の生母でもある。この人は毛利家の奉行役児玉三郎右衛門元良の娘。名は周姫(ちかひめ)。12歳の時杉家に嫁いだが15歳のとき誘拐・略奪されて毛利輝元の側室になってる。

 二の丸は25歳のとき長男秀就(ひでなり)を生んでいる。山口県宇部市が生地という説もあるし広島城が生地と言う説もある。子供は第一子誕生から死ぬまで(約7年間)長女と次男を生んでいる。長女は吉川広正の妻に、次男就隆(なりたか)は徳山藩の藩祖となっている。

 輝元が広島城から萩城の仮居所ができるまで約1年間山口に滞在したが二の丸様も山口に寓居していた。慶長9年(1604)8月1日に卒したのであるが菩提所は古熊の西方寺に造られた。位牌は輝元が同年11月11日に萩に移ったので萩に周慶寺を造りそこを菩提寺にしていたのです。

 しかし秀就(ひでなり)の室が亡くなった時萩周慶寺は竜昌院と改められ秀就の室の菩提所となった。

 したがって二の丸様の位牌は廟所のある山口市古熊の西方寺に移され周慶寺とそのとき改号されたのである。時は寛文4年(1664)です。長州藩から祭祀料として20石の扶持が下付されています。

 この写真は宝キョウ印塔です。台石に「栄誉周慶大姉 慶長9庚辰年8月初1日」の刻銘がありました。
 
 大正7年11月に元周慶寺(今の善生寺)から毛利家藩主の墓所香山墓地に移されたのであるが藩主の墓地の傍でなく奥まった山中にあって、あること自体公にはそう知る人が少ないのである。
 

 二の丸様の戒名は「快楽院殿栄誉周慶大姉」であるが朱子学が中心の江戸時代に快楽院とはあまりにも侮蔑した戒名のようでもある。何がしかの悪意が見られるような感じがします。それは輝元の正室「南の方」の意向であるかどうか定かではないが????
 別に「清泰院殿栄誉周慶大姉」と変えて伝えられているものもあるといわれている。

 いずれにしても毛利家の為政者側としては秘密にしたい出来事かもしれないですね。歴史というものは勝者側のことでつづられているということを念頭に解釈をしていくことも大事な視点といえましょう。

参考文献 古川薫 「毛利氏の一族」


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