霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

大内氏と琉球の交流

2006-06-24 21:04:09 | 歴史/古文書
 大内氏が朝鮮貿易や対明貿易を行い一時は対明貿易を独占し巨万の富を築き西国のナンバーワンの守護大名となった。京都に次ぐ都市となったのであるが。実は琉球とも交易をしていたのである。琉球は当時11~13世紀はグスク時代で群雄割拠していたが14世紀三山時代を経て15世紀、1429年[尚巴志]が琉球を統一して、琉球王国を成立した。首里城もつくった。

 当時琉球王国は明の冊封となり、明、フイリッピン、マレーシア、タイ、日本などとの中継貿易で栄えていたのである。

 大内氏との交易を裏付ける文献は古文書として5通しか残っていないらしい。1488年の大内政弘が琉球王国の国王へ出した手紙、父教弘の頃からお付き合いをしている前回も私から手紙を出していますが今回も通交することよろしくという内容である。数えて3回の通交となる。

 もう1つは琉球国の天界寺の禅師に出した手紙である。琉球王に土産と手紙の仲介を依頼している。また天界寺住持とは大内の領で顔見知りであるので大内家のことよろしくといっている。

 また同じ年と同じ日に島津忠晶・陸奥守あての手紙、大内船が琉球へ行く間に海賊に襲われないよう警護を依頼している。以上の手紙は何れも大内政弘の名で出されている。

 手紙ではないが琉球との交易を裏付けるものとして、琉球円覚寺の梵鐘がある。円覚寺は琉球で一番格の高い寺で首里城に一番近い場所にあった。戦前はその建物も残っていたが首里城とともに戦渦に消えていった。しかし梵鐘は残っている。当時大内氏は防府市の鋳物師というところで梵鐘をつくらせており、1495年の作と刻まれた「鍛冶大工大和相秀」と彫られたものが現存している。今でも防府市鋳物師という地名が残っている。


 大内義興の時代では1527年に天界寺に出している手紙がある1523年にニンポーの乱で明との国交が断絶した。(大内氏は細川氏が優遇されているとして因縁をつけ細川氏が襲ってきて乱となり大内氏は明の地方長官を連れて逃げた。)
 この明と通交の仲を取り持つよう働きかけた文書である。これに成功しこれより対明貿易を大内氏が独占することになる手紙である。
 
 また大内義隆の時代には1542年に琉球国那覇奉行に出している。種子島氏が琉球を攻めようとしている。琉球で種子島船を拘束してほしい、でなければ大内の兵船を派遣すると脅しの手紙である。

 これら5通の古文書しか残っていないが、6回も大内船は明に渡っておりそれらの交易品は、明は東アジアの産品を求めており香木やサンゴなど東アジアの産品を仕入れる為にどうしても琉球との交易が必要であったのである。この時代海外に目を向けて国際的に活動していた大内氏の先見性がすごいといえよう。また大内氏を取り巻く外交僧の活躍がすごいといえよう。

大内文化公開歴史講座・県立大学伊藤幸司氏の講演を聞いて


最新の画像もっと見る

コメントを投稿