goo blog サービス終了のお知らせ 

霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

あきらめる。

2005-07-27 18:49:37 | 仏教/宗教
 今日も高知の知人から「道しるべ」が届いた。ここだけは読んで欲しいと付箋紙がつけてある。

 そこの記事は、人間は死すといままでの家族や友人の太い絆が断ち切られてしまう。断ち切られる孤独から救われるには神を信じるとよい・・・。

 神と太い絆を持てば身内の絆がなくなっても生きて行ける。死に向かっても安らかに生きていけると、書かれている。人間はいくら一人で生きるといっても、孤独を愛するといってもなんらかにつながりを持って安心感を得ているという。

 たとえばインターネット、携帯、書籍、友人、知人、昔の知人、同級生など細かいつながりもあるかもしれないが、その細かいつながりを多く持つことで安心感が得られると説かれている。

 確かに色々な人と多くのつながりを持つこと、神や仏とつながりを持つことは、いいことであるが自分を見失うこと、いわゆるのめりこむことは慎むべきことであろう。自制の心、主体的な心、客観的に見る心、物事を明らかにする、いわゆるあきらめる心などバランスをとりながら人生を考えることが大事なのであろう。

05-06-27

右の頬を打つなら

2005-06-15 19:01:11 | 仏教/宗教
 今日も、高知の知人から「道しるべ」が送られてきた。付箋紙が付いているところを読ましてもらう。
「しかし私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ福音書5章39節)

 普通人間はやられたらやり返すのが常識である。「あなたの下着をとろうとする人には上着も取らせなさい。」そういう悪人を愛して施しをしなさいと。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」といわれているが人間はエゴが強くどうしても自分が大事、自分が一番、自分を守ろうとする気持ちがあります。あるいは自分に立場が危うくなると、他人を陥れてでも自分を守ろうとします。そういったエゴや自尊心が強くなかなか自己犠牲を実践すことは出来ないであろう。

 キリストはなぜ人間が出来ないようなことをせよと云われるのか。戦争でも国益を損なうとか、宗教の価値観の相違とか、国境の認識違いとか、力で統一するとか古代から現代まで戦争や紛争続きである。いくらイエス・キリストを信仰していても、「あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさいという神の教えに従うことは出来ないのであろう。この教えは人間には出来ないことがあることを悟らせ人間とは不完全なものであることを教示しているといえよう。

イエスさまの あたまには
いばらの かんむり

イエスさまの かおには
つばき と こぶし

イエスさまの せなかには
むち と じゅうじか

イエスさまの てには
ふとい くぎ

イエスさまの こころには
あふれる あい

「父よ。彼らをお赦しください。
彼らは何をしているのか
自分ではわからないのです」
           (ルカの福音書23章34節)

05-06-05

大愚の薦め

2005-01-13 23:36:59 | 仏教/宗教
 第253世比叡山天台座主・山田恵諦氏の「大愚のすすめ」を読んで、
 世の中みなが賢く生きようと凡人は考えている。賢く生きるとは、他人より分らんことが分ったり、ほかの人より早く大事なことに気づいたり、先が見えたりすることらしい。利口でなければ損をする。他人から、軽んじられると、他人を気にして生きている。利口な口ぶりをして甘く見られないようにするとか、後輩に対し、先輩づらをするとか、虚勢を張って生きていくことになる。コレでは精神的に参ってしまうだろう。
 
 最澄大師は「愚の中に大愚」が利己を離れ、第三者としての自己を見ることができるといわれている。プールの中で全身の力を抜けば自然と体が浮き上がってくるが、虚勢や見栄や、上司によく見てもらいたい、部下によく見てもらいたいと、媚を振りまくような人間はどこに力みがあり、プールで言えば力みがあって沈んでしまうことになる。

 「愚の中の極愚」とは自分を無にすることらしい。無になれば自然に体はプールでは浮かぶ。自分をなくせずして「人のいいところを全部戴こう」なんて考え方、そんな利己的な色の着いた者は無でもなんでもない。そんなことでは結局のところ人様のいいところは見えてこないし、戴ける分けもない。プールでも無になるいわゆる体の力を抜くとおのずと体全体が見え浮かんでくる。
 「自分が愚の中の極愚」であると本当に気づき、またそこまで自分が落ちてみるということはなかなかできることではないが。しかしその気持ちになったとき、目の前が開け、物事がよく見えてくる。自分をまず最低の位置において、そこから眺める世界というものは、上から見るのとはえらい違いがある。山川草木のすべてが先生になり、真実というものを教えてくれるという。

 いっぺんすべてを捨て去って裸の姿になってみる。赤子の姿になってみる。赤子の目で世界を見る。そういった悟りのように自分を改革することで、人生は名誉や、金だけでなく人様の幸福のために如何に尽力できるかが人に道であり。この世の安楽世界が築けるというのである

蜘蛛の糸

2004-12-31 22:05:21 | 仏教/宗教
 芥川龍之介の小説に「蜘蛛の糸」というのがあるが、蓮池のふちを釈迦が通ったとき、地獄にいるカンダタを見て、一度蜘蛛を助けた善行があるとして蜘蛛の糸をたらしてやった。カンダタはその糸で浄土へ登り始めたが途中で地獄のたくさんの悪人達も登り始め、コレは俺の糸だ降りろ降りろというも悪人達は登り、ついには切れて、また地獄へ戻ったという話。
 仏教はその蜘蛛のを糸を登る時の心根を、何も考えず、身からこころをを投げ出し、仏の家に自分を投げ入れ救われたいという心を忘れて上を見ることもなく下を見ることもなく無心に登ることであるといっている。そうすれば浄土へ登れるというのである。また生死を離れて仏となることができるというのである。

 親鸞の悪人正機
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」 親鸞は阿弥陀さまが悪人のところまで降りてきて悪人を救済してくださるという。これは阿弥陀さまを信じて阿弥陀さまにすべてを委ねる信心の心が生じた時にはという前提がある(他力による救済)。この悪人とは、皇族・貴族・公家や、士官の人々で無く中世の農民や商人・工人や地侍など一般の庶民層のことを言っていると解釈すべきだろう。

 往生
 往生際が悪いのが今の世に多いことか 物欲が強すぎてなかなか手放すことをせずコレでもかコレでもかと欲深くなっていく恐ろしさ怖さがある。まさに餓鬼である。
 平生業成(へいせいごうじょう)を持つこと。いわゆる心の中に阿弥陀仏を持つこと、心の中に阿弥陀仏の誓願力を戴くことが大事である。
 聖徳太子の言葉に「世間虚仮 唯仏是真」がありますが、世は仮の姿で、仏だけが真であるといっている。
 
 親鸞も現世は、煩悩具足の凡夫、火宅の無常の世界といい、よろずのことみなもて空事たわごと、まことあること無きに、ただ念仏のみぞ真であり浄土の心を持ちながら生きて行くことが浄土へいける近道といっている。現世の規制に縛られず・世の中に追随せず、迎合せずに主体的かつ自立的に生きていくことを教えているのである。
 

般若心経

2004-12-31 18:48:14 | 仏教/宗教
 
 般若心経は大般若経の本の呪文でありながら釈迦の教えの真髄を276字の少ない文字に収めているといわれている。日本に伝わったのは、735年玄肪(~746)という僧が唐から持ち帰り天皇に講讃・造経した後、広まって行き、空海がまた唐から修行して807年に持ち帰りさらに大きく流伝して今日に来ている。般若心経は各宗各派が唱えているが浄土真宗は唱えていない、しかし阿弥陀仏に任せることは『空』になることと同じでありあの世・大宇宙にいくことについては同様のようである。
 般若心経は、「色即是空」「空即是色」が有名だがエゴを打ち消し無の境地になっていずれにも偏らない、またこだわらない、とらわれない。=「空」の状態。世の中目の見えるもの自然界も森羅万象もみな変わらぬものはない。常に川の流れのように止まることなく翩々として諸行無常である。
 仏教は、決してあるものを無理やり否定するということはしない。本来ありもしないもの実在しないものをあると思う想念で思いこんでしまいその煩悩にとらわれて苦悩している人々が多いのであるが、
 その思い込みに囚われている、固執している心、こち固まっている心をそこから逃れよう忘れようとしている心、沼のようなところから抜け出そうにも抜け出せない心、この凝り固まった固執から開放される、みずから開放することを解脱というが、その解脱できるまでの心境に達するまでが苦悩である。その心の開放を手助けするのが仏教かもしれない。
 「エゴから解かれ自在に生きる」 
 「大いなるものに生かされあることを 今朝吹く風の涼しさに知る」山田無文
 「かち割りて、見れば色と欲との、我が心かな」

とらわれない心、囚われない生き方、偏らず、囚われず、空に生きる、私が戴いた空の心、もの・心の調和「まず自らのおろかさを自覚することから始まる」

あの世について

2004-12-26 21:07:37 | 仏教/宗教
 これは、寂聴さんと玄侑宗久さん/梅原猛氏の対談の概要である。(まとまりがない概要)
 アミターバ (死を和らげるのがテーマ)
 愛別離苦 死ぬために生きている。
あの世の有無
 極楽浄土・・・死後のエネルギーが最後には・・・膨大なエネルギーが集約され阿彌陀さんにエネルギーが集約される。
私はエネルギーになる。魂となり、思い残すことなく死後の世界に出発。光の中心に進んでいった。
 アミターバ 極楽浄土を意味する言葉
衆生済度のつとめ
「宇宙の総エネルギーは変わらない」アインシュタインの言葉。人が亡くなったとき何gか減る、遺体になった瞬間に何グラムか減る。ある説では(アメリカの病院で測量している)40グラム減ったという説もある。1グラム減るだけで『大変なエネルギー』が生じるといわれる。10の14乗ジュールのエネルギー、おおよそプール529倍のお湯を沸騰させる力が出ると。たとえば光ってみたり、そのエネルギーで遠い息子のところにいけるエネルギーもあるといわれている説がある。

浄土 見たいものが見える、聞きたい音が聞ける。かぎたい臭いが嗅げるところが浄土
エネルギー=たましい。玉のように丸い(形が出て行った後のこと)死の瞬間死の前後 たましいが入ったり出たりする。修行中にも極限状態のときに出たり入ったりする。

 寂聴… 慙愧の念に耐えられない中で死人と話す。死の直後死人と話して、わかるなら口をあけてというと不思議と口がぱく・・ぱくとした。
 玄侑宗久は信用していない口ぶり

良寛の臨終
尼僧 貞心尼
「背中が寒い」というと寝床にすべりこみ尼僧は背を暖めた。死にとうないとはっきり言われたシャバにもっと居たいと・・・にっこり笑みを浮かべた。
良寛・・垂れ流し着る物を汚しの生活を尼僧が世話した愛情
湯潅(ゆかん)・・・死後に体を拭く作業。
天童天女が浄土へ案内してくれる。地図のない国へ行くので不安はあるが釈迦は行く先を教えてくれなかった。
阿含経・・・釈迦が言ってる言葉で深い瞑想のなかで死というものを体験するが、それ以上のことは死によって体験できない段々と死んでいく。だんだんと死んでいくエネルギーが出たり入ったりしながら死んでいくものである。

宗久・・・自分の意識が全身から離れていく修業体験を禅宗で行った。座禅一日20時間半を7日間 体が自分のものでなくなる。厳格幻聴が沸く、相手の体にオーラが見える。睡眠不足と肉体的限界で、修行のなかで死の体験に近いものが体験できるのではないか?

三千仏礼拝の修行  5:00から19:00まで/一日 一日だけ

「冥福なんてわたし風です光です」「切に生きる」「捨ててこそ」疲れ果てると気配を感じる。

四大分離
死後人の体は水・火・風・光に分かれる
中有・・・中陰 死んでつぎの生を得るまでの間 49日間魂が漂うことは生きてる人間の願望だと思う。死んだ人は生きている人が悲しむのが一番悲しい。涙がかれるほど鳴きなさい、そして眠りなさい眠らないと、眠れば忘れる。早く忘れることです。悲しみから逃れるには。あなたも死にますから必ず。

釈迦の教え 
この世は美しい。(地球は美しい)
人の命は甘味なものだ この世は苦だといわれたが苦しい苦しい人生を生き抜いていくことは甘味だとおっしゃった。生まれた者は死ぬ 生者必滅をお釈迦さまは教えてくれた。生老病死 すべての現象は過ぎ去ることだとお釈迦様は身をもって教えてくれた。人生は諸行無常のものだ。 人生は苦だ

大乗仏教
他者の救済を目的とする仏教
「事象は過ぎるものだ自らの法を立て生きることだ」 釈迦に頼るな 野垂れ死にするところまで歩こうということが釈迦の旅 人間の死は孤独なもの 孤独な人間である。サイの爪のように一本(一人)で歩いてみよう。
釈迦の旅は、故郷に帰る気配もあった故郷はないがにおいがあったのではないか・・・梅原 猛説
人生は甘味であると行き着いた学者はいない。ソクラテス、魂の行き先を語っているが釈迦は死後の魂について語っていない。諸行無常である。人生は苦だそれは愛欲の因である。それを人生は甘味だといったある種の矛盾である矛盾だらけ、小乗仏教は欲をなくす。大乗仏教は人を救う。釈迦はガンで死んだろうと、死ぬまで意識があった。新興宗教は教祖を敬えというが釈迦は一切行っていない。
釈迦仏教は自由な解釈が許される。
キリスト教はバイブルから抜け出せない。

生きることは選び取れないが死は選び取れる。生にふさわしい死、突如死ぬ、説教して死ぬなど無意識のうちに選び取っているのかもしれない。
渇愛…生命に対する恐怖が、みな心配

梅原 猛氏の話
 死を明らかにして死にたいと哲学を勉強したが人間の命は無常だ。一日一日をしっかり生きろということ。毎日毎日が 今日終わるのではないか、くだらないことに、無駄なことに費やしたくない、死を見つめて80歳まで生きた。
 あの世 死んで 遺伝子で残っていく 死んでからのこと…遺伝子が残ることがあの世
三世の思想 前世 現世 来世
遺伝子・・・来世に可能性がある それが生きることではないか。花開くこともある。
 
 瀬戸内寂聴・・・来世は 死んで見ないと分らない。

「武士道」を読んで

2004-12-24 20:53:36 | 仏教/宗教
 新渡戸稲造の「武士道」を一年前に読んだがその感想を今思い出して記述する。武士道の源とは
1仏教と神道が影響している。
2孔子の教え儒教がベースである。
3武士道は知識を重視せず日々の鍛錬を重視する。
4武士道に基本は儒教にある、義、勇、仁、礼、名誉、忠義、である。


 武士道とは、平静さに裏打ちされた勇気。勇気の精神的側面は落ち着きであって勇気は心の穏やかな状態にあって平静なこころもちの状況で表される。
また平静さとは、静止の状態における勇気である。一般には果敢な行為が勇気の動的表現として認識されているが武士道は静的表現を重視している。本当に勇気のある人は、常に落ち着いて、決して驚かされたりせず、何事によっても心の平静さをかき乱されることはないということである。
 武士道を会得している人は戦場の昂揚の中でも冷静である。彼らは破壊的の事態のさなかでも心の平静さを保っている。危険なことに遭遇しても切腹の前でも尚平静を保ち迫り来る死の眼前で詩歌を作ったり、詩を吟する人たちで、文づかいも声音にも何の乱れもみせづこの様な心の広さー「余裕」を勝ち取った人格者といえよう。


 武士は逆境に屈することのない、高貴な精神の威厳ある権化であった。彼らはまた学問が目指すところのものの体現者であり、鍛錬に鍛錬を重ねる自制心の生きた手本であったといわれている。そしてその自制心はサムライにあまねく必要とされるものである。「武士はくわねど高楊枝」    

死後の世界はあるのか

2004-12-23 22:55:15 | 仏教/宗教
 良くテレビで臨死体験をした人があの世の世界を垣間見たとか、コスモスのような優しい花か水平線まで咲いていたとか、虹色がいっぱい広がった平野とか、配偶者が大声を出して呼び戻したのでこの世に戻ったとか面白おかしく言っている。死を考えると死後の世界はどうだろうと不安になる人もいるだろう。臨死体験の番組を見ると死後が不安になると思うこともあろう。

 大乗仏教においては、死後は浄土であるといいきっています。浄土とは「宇宙仏」宇宙そのものが仏であるといっています。いわゆる死んだら宇宙になるというのである。宇宙のなかのチリかなんか分らないが宇宙の何かの構成物、物質となるのであろう。


阿弥陀仏の浄土・・・西方にあるとされる極楽世界
薬師仏の浄土・・・東方の浄瑠璃世界
大日如来仏の浄土・・・宇宙の中央にあるとされる密厳浄土
釈迦仏の浄土・・・霊山浄土(古代インドのマガダ王国にある山)といった浄土があります日本では阿弥陀仏の浄土が有名です。「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏よ、私をお任せします)と称えるなら、必ず極楽浄土に迎えてやると約束してくれる。信じて称えれば仏の不思議な力によって浄土に行くことができるのであると。浄土を信じれば死後の世界についてあれこれ考える必要はなく不安にもならないという。そうすると、つまりは釈迦の教えにある『考えるな』が実践できるので「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏よ、私をお任せします)を称えることが何も考えないことにつながって行くのだらしい。

 浄土の世界があるかのように思えますが浄土という死後の世界はなくただ阿弥陀仏にゆだねるだけで死後の世界があるかないかは人間には分らない、だから死後の世界は考えないで任せきるのが浄土信仰である。死後のことは何も考えずのんびりゆったり暮らすことができるのが一番といえよう。

俗世間の奴隷になるな!

2004-12-21 21:40:47 | 仏教/宗教
 俗世間の奴隷になるなといっても、会社におれば会社の規則を守れ、事業目標は必達成、気配りはしなさい、お客様には親切丁寧に、同僚には負けないよう自助努力をせよ、世間の常識をふまえて行動せよ。など競争社会のもまれる日常活動・生活において世間・会社の奴隷になるなといっても、自然とならされてしまう仕組み・組織となっており、会社であれば経営者は少なからずもそういう仕組みを作り管理をしやすくするのが常道である。それを敢えて会社奴隷にならない方法はあるのだろうか?

 怠け者は永遠不変に怠け者ではないのですが、ついつい怠け者と決め付けてしまいレッテルを貼ってしまいます。怠け者は今は縁によって怠け者の形になっているだけであるというのが仏教の見方という。
 人々はみんな仏の子であるいわゆる仏子と見ることが大事であると、蛙の子は蛙、仏子はみな仏の子と見るのが仏教の教えらしい。あらゆる人間が真実であり、最高の価値を持っているコレが仏の教えという。よく働く者も最高、怠け者も最高、美人も最高不細工も最高、優等生も最高劣等性も最高。といえる心持がすなわち世間から出世間となるのである。

 世間に忠誠を尽くせば会社での優等生になる努力をすればよい。世間の認める模範人間、いわゆる会社の良い子、世間の良い子になれば良いのですが。しかし、しんどいことになります。いくら努力しても自分よりもっと優秀な社員がいれば、努力が足りない努力が足りないと自分を叱咤激励しいつも満足できず焦りと叱咤での葛藤に終始し精神が磨り減り、自分を見失い。たとえ一番の業績ををさめたとしても、いつか他人に抜かれはしないかと思いながら生きる毎日はしんどくて疲れがたまって仕様がないのである。それは幸せとはいえないのである。世間や業績評価や評判をどうしても気にしてしまうことになってしまうのです。世間の怯え、会社の評価に怯え、同僚との競争の怯え、またそれらに迎合して生きる人生。こんな人生にどれだけ意味があるのだろうか?所詮は世間会社の奴隷で終わるのではないのであろうか。真に人生を生きるとは、その奴隷になるのでなくでたらめに生きる・適切に物事を処理する、自己の主体性を大事に、会社の評価等に影響をされず自分を客観的にみていく習慣をつける。
 
 いったん自分から離れ別の世界からもう一度自分を見つめて物事の行動思索をし発言具申するという意識変革を徹底することから始まるます。
 一段高いところに精神を持って行き自分を高いところからもう一度見つめる習慣をつけ自由に生きることが大切ではないかと思うのである。


高校時代時々酒臭い授業していた○川先生は、人生は「諦めが肝心”」『諦めが肝心!』と口癖のように云っていた、なにやら彼岸からの声のように思える。色紙には『休道』と記しいつも仕事人間ではなく休みの道を究めていくのも人生。いわゆる遊びの人生を究めて充実した人生を送れ!!と云うありがたいお言葉を戴いたものである。

宗教とは(仏教)

2004-12-20 20:08:24 | 仏教/宗教
 宗教とは何ぞや、と思うのであるが、マルクス主義や、サルトルの実存主義、儒教の孔子、など人間が考えた思想ではなくあくまでも仏教は宗教である。小乗仏教では、釈迦は人間でその人間である釈迦が言ったことをその人間がしたように修行をして釈迦が悟りを得たように自ら修行を積んで釈迦と同じ悟りを得ていく考えであるが、大乗仏教はあくまでも宗教として仏にゆだねて生きることが信心であり宗教であるといわれている。この世の比岸によりどころを求まるのでなく、彼岸(浄土)をよりどころに求めて生きる意識の変革を言う。

 業とは何かをするとどうしても余波・余力というものが生じます。酒を飲めば百薬の長である場合もあるが、アル中になれば害も多く、これは自業自得といえる。しかし交通事故は、車が社会全体の中で多くなり、それで交通事故にあった人を、あなたは先祖供養をしていないからこういう罰があったたのだと、全くいんちきな理屈で人を脅す人がいますが交通事故が多発している現在交通事故は社会現象ですし、そういった社会のあり方が問題であって、社会全体の問題を個人の責務にすることはでたらめな思向であり、供養が足りないと言いくるめる脅しこそ、いんちきである。都合の悪いことはすぐ霊が移っている先祖供養が足りないとか脅すなどいんちき宗教が多いのも事実である。
  
 仏教は、俗世間の比岸で考えるのでなく、しかし仕事や生活は俗世間の常識で動いてはいますが、仏教者は、常に彼岸の側(まんだらの大宇宙)からもう一歩引いて世間を見る目を持った人々といえよう。要するに出家はできないが出世間主義で仏・阿弥陀仏の教えの側から世間を見る目を習得するのが宗教者といえるのである。
 
 この彼岸の側にゆだねるとはどういうことなのか、自動車の運転席から見るインサイドアウトの見方はどうしても歩行者や小さい車いわゆる弱者は邪魔だ、そこのけそこのけ車が通るといった。傍若無人な思考が現れて来るのであるが、パイロットは飛行中宇宙の大空の元で今どこを飛んでいるか大空のなかでどんな位置にいるかを常に考えながら飛んでいるのである。仏教も大きな大きな宇宙(アウトサイド)のほうから、私(イン)という存在があることを認識し、それを肯定することが信心であるという。大きな仏という宇宙の中に生かされているという認識が持てるように考えを変革していくことが大事と言えといえよう。天井の小さな穴から空を覗くのでなく宇宙から天井の穴を覗く、そういった視点で物事を見れば煩悩に左右されないと思うのである。

 この世はご縁の世界で、良縁もあれは悪縁もあり、嫌な縁もあるのであるが、めぐり巡ってくるものとあきらめることが大事であろう。大きな仏の世界・ご縁の世界でわれわれは、生きとし生けるもの(肉を食べたり野菜を食べたり)の多大の迷惑をかけており、それを許してもらっているから私たちも他から受ける迷惑をじっと耐え忍ばせていただくことになるという認識と諦めが必要と思える。

 仏教者に近づくには、こだわりのない心で施しや業を行う。他人から受ける迷惑をじっと耐え忍ぶこと。いわゆる布施と忍にくの実践ができる人になるわけですが。難しいことである。