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霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

四弘誓願(しぐせいがん)

2004-11-30 21:38:36 | 仏教/宗教
四弘誓願 宗派に関係なくあらゆる仏、菩薩が起こす下記の四つの誓願を言う。

衆生無辺誓願度・・・数限りない人々(衆生)を悟りの彼岸に渡そうという誓願
 地球に生きとし生けるものを救い、自分の利益だけではなく利他を願う気持ちを持つこと

煩悩無数誓願断・・・無数につきることのない煩悩を滅しようという誓願
 女と遊びたい、パチンコ三昧をしたい、酒をたらふく飲みたい、学問は嫌だ、仕事は嫌だ、怠けたいとか色々な煩悩がいっぱいある。あいつが仕事ができてうらやましい。そういったいろんな煩悩がいっぱいあるんだけれどそれを断たなくてはいけない。大変なことですが一生、煩悩との戦いがある。けれどもあんまり煩悩を断ってしまうと、今度は馬力がなくなってしまう。煩悩を超えなくてはならないが、どちらかといえば煩悩をいい意味で利用していく。コントロールしていくことが大事ということです。

法門無尽誓願学・・・はかり知ることのできない仏法の深い教えを学び取ろうという請願
 一般の学問に置き換えれば、学問は無数に幅広いものでほんの一部しか分っていない、例えば宇宙のなかでまだ明らかになっていないものは無数にある。あらゆる学問も奥は底知れないほど深い。一生学ぶことがこの教えといえよう。

仏道無上誓願成・・・無上の悟りを成就したいという誓願
 この上もない悟りを得たい。煩悩を絶って、多くの学問を学んで、やっと悟りに至るというけれど実際は難しい。しかし無上の悟りを得たいという気持ちを持ち続けることがこの誓願である

仏、菩薩の決意した心を示したものという。これを毎日そらんじて生きていけば少しはまともな人生が送れるものかなと思うこのごろですが、はてな?

仏教が教える4つの道徳

2004-11-29 23:01:52 | 仏教/宗教
 今も奈良で小学1年生が誘拐され殺された事件が報道されている。この数日前は若い青年が姉と母親を刺し殺した。人間が人間を平気で殺す。また自殺者も多い。命の尊さが、軽んじられているこのごろであるが、知識偏重が中心で、道徳の教えが不足しているのではないでしょうか

精進・・・こつこつと努力する。天才は1パーセントの才能と99パーセントの努力である。とよく言われますが。人が見ていようが上司が見ていようがいまいが陰日向なく努力する。嫌になるときもある、投げ出したくなるときもあるがやがて必ず報いられるということを信じて。

禅定(ぜんじょう)・・・心を集中すること。座禅は心を集中し空の状態を保つ修業であるが、この集中力があるかないかで人生大きく左右する。事業を成すにしろ。ニュービジネスを起業するにしても、仕事を成功させるには集中力がなくては成せないのである。
3年寝太郎という童話がありますが、3年間寝たようにぼんやりと過ごしていたのですが、その間考えをまとめ、イザというとき集中力を発揮して大金持ちになったという話です。

正直・・・うそをつかないということなのですが、人を悲しませないためとか、がんの告知をして落胆させないとか、親しい人を喜ばせるためにとか人生豊かに生きるためにうそも方便と謂れている。なんでも正直・バカ正直では困るが相手の気持ちを洞察しながら方便は許されるだろう。決して相手を悲しませる、陥れるうそはいけないということである。正直だったら損をすると思うかもしれないが、うそを言ってだましてもいつかはばれて、人々から信用を失いもっと損をするでしょう。

忍辱(にんにく)・・・辱めに耐えろ、ということで、侮辱されたりバカにされたり、軽蔑されたりすることがあるだろうがそれに耐えろということです。何で堪えなきゃいかんのだとぶち切れで相手を殺してしまっては、人生終わりとなります。程ほどにいなし反論し暴発はしないようにすることです。ユーモアの精神が生きてきます。
人生には失敗をして会社を辞めたい、死にたいと思うときが必ずあります。其のとき暴発したり自殺したりすることは忍が足りないということです。じっと耐え忍ばなくちゃならない。そう云うときが人生には何回もある。其のときは忍んで、辱めの耐える。是が大事です。お釈迦様は人々に崇拝されるようになっても、財産はもたず、一生乞食で生涯を閉じた。乞食をすることは人から侮られるがそれに耐えていくことは人間として難しいことですが、それでも伝道して歩いたのである。

 イジメ、暴力、犯罪行為を受けるなど違法行為はを毅然として立ち向かうのは当然なこと。告発訴訟といった手段で対抗して闘うことは当たり前です。人生の過ちミス等人間には何があるかわからないが正々堂々生きていて正しいと思ったことでも、あるいは後で間違いだと分ったことでも辱めを受けるときがあるかもしれないが、耐え忍ぶことが忍辱(にんにく)というものだろう。こういった4つの戒めを会得すれば、人をむやみに殺したり、人を陥れるような社会にはなりにくいのではなかろうか。



釈迦と凡夫

2004-11-26 22:39:57 | 仏教/宗教
 釈迦の思想はどういうことを説いたのか、一言で言えば四諦、四つのあきらめと云うことになります。この言葉は西洋的な目で解釈すると諦めと見えるかもしれないが。仏教では真理とみなすらしい。
 四諦とは苦諦(くたい)、集諦(じつたい)、滅諦(めつたい)、道諦(どうたい)の四つである。
 
 苦諦とは、人生には生老病死の苦がある。生まれる苦しみ、年を取る苦しみ、病気の苦しみ、死ぬ苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、怨憎会苦(おんぞうえく)、嫌なやつとあわねばならない苦しみとそういった人生のいくつもの苦しみは当たり前のことで死するまで、それとの戦いであることを悟れと言っているのである。苦に耐える精神力がまた必要であり、凡夫には修行が必要か?
 
 集諦とは、苦の原因は愛欲であると言うことを悟ること。欲望の深い人ほど苦しみが多い、いい大学入りたい、いい会社に入りたい、金持ちになりたい、出世したい、欲望は際限ないが挫折が待っている。色欲にむらむらする。いろんな欲望があるがその欲望がが原因となって苦を生んでいることを悟ることが大事である。しかし凡夫は欲の塊であり欲が亡くなれば死んだも同然である。悟りたいが悟れない。
 
 滅諦とは、愛欲を減らして、愛欲をコントロールする。人生の様々な愛欲ゆえにトラブルが起きる、その愛欲をコントロールする。自分の愛欲をコントロールすることができる人間になること。

凡夫には今の情報化社会のなかで様々な愛欲に対する誘惑があり自らをを律することが難しいが、自己規制を強めながらその域に近づけるよう努力するしかないか。

道諦とは、人間の心は愛欲に満たされ、愛欲に自由にされる。それではだめになる。まず道徳的規則を守る。それを戒と言う。それからもうひとつは定。定と言うのは精神を集中することで、禅宗では座禅を組み瞑想することに当たる。浄土教では極楽浄土を瞑想し行をすることになりますがいずれにしても集中力が自分に持てるようになることが大事なこてである。そのためには、スポーツでも趣味でも、常に集中心を養う努力が必要と言えます。また大事なのが慧、之は知恵を磨いて欲望のむなしさを知れということで、愛欲の浅ましさを知って、自らの愛欲をコントロールせよと警鐘を鳴らしているのである。それが慧であり、愛欲を滅ぼす方法を悟るには戒、定、慧が必要であると説いています。集中力を養って、規則を守る、そして知恵を磨いて人生を生きてくださいと説いているのである。
凡夫にとってはこの教えは厳しい自己管理と自己規制であるが、人生、今をいかに精一杯生きるかに対しては素直に教えを守り、自己管理をしていくことが大人たる者として反省するしだいである。

 

天国かあの世か

2004-11-25 21:54:13 | 仏教/宗教
 キリスト教では死すれば天国に召される。仏教では浄土へいけるといわれる。しかし悪事を働けばどちらも地獄へ行くといわれている。臨終前の人にあの世は天国・浄土と云うしかなぐさめの言葉はないのではないかおもいます。
 さて死についてですが、宇宙のエネルギーは一定で増えもしないし減りもしないといわれています。人間も宇宙のなかの小さな生物に違いはないのですから、人のエネルギーが死に際して燃え尽きるが、死ぬときのエネルギーはすごいエネルギーが宇宙に吸い取られていくといわれています。そしてそのエネルギーは宇宙の一部のエネルギーに移りそこで生きていくという考えがあります。
 また、確かなことは、人間は、死してもその人の遺伝子を子や孫に残しており、来世はその遺伝子が生きて自分の存在をその時勢で、明らかにさせており、輝いているということになる。このような遺伝子の不死は現代科学が明らかにしたものであるが、多くの宗教家が説いた魂の不死なるものも、この遺伝子の不死に、文学的な解釈がはいった言い表わしといえるのであろう。子供がいない人でも、かかわる人々に、精神的に、この世に影響を残していくのであれば遺伝子はのこているといえよう。人間が生きる。生物・植物が生きる。ということの意義は宇宙にとって欠くべからざるほど大切なことであると云えます。生きることの大切さが認識できるのではないでしょうか。

八正道

2004-11-18 23:25:09 | 仏教/宗教
八正道
 正見(しょうけん)偏りなきこころでものごとを見ること
 正思惟(しょうしい)智慧と真心でものを考える
 正語(しょうご)偏りのない言葉を用いる
 正業(しょうごう)自分の生き方を整える
 正命(しょうみょう)節度ある生涯を心がける
 正精進(しょうしょうじん)努力することにとらわれない
 正念(しょうねん)深い心で生きる
 正定(しょうじょう)平常の心を生きる中心にする
 
 日本には様々な宗派があるが其の目指すところは八正道に見られるように偏りのない、こだわりのない、生き方の中に、人としてのあるべき生き方があるのではないか、其の生き方を身に付けるのが宗教といえるのではないか、キリスト教でも真理を追究するし、仏教でも真理を求める。しかし其の真理を私物化して教団としての教えとして弟子や教徒に教え、寄付やお布施を求めていくと宗派・教団同士の争いとなる。宗教は強い排他性、差別性、暴力性を持っているので今日においても宗教戦争は起きているといえるのではないかと思います。

 宗教とは「なんとか自分の人生を行きたい。生きていて良かったというような生き方がしたい」それを探す旅のようなもので其の過程が尊く人生そのものといえるのではないか
 平凡な、生と死、老と病、その他様々な苦悩に涙し、恐れを抱いて生きる人間に安堵を与え、また生き方の軌道修正を可能にしてくれるのが宗教で之日々新たなりなのである。
 他力とは、自己の無力性に目覚め、自己の力量をもってしても目的を遂げることができないこともあるという立場から、仏の教えをよりどころにして生きる世界といえよう。
 自力の世界とは、ものを握り締める世界。他力とは、握った者を手放す世界である。われわれは努力したことを握りしめます。学歴、教養、社会的地位、財産、健康など握りしめます。そして、苦しむのです。これではいつまで経っても安らぎは望めない。握ったものを一度は手放してみるとそこから、また新しい世界が開かれてきます。
 その気になれば不可能なことはないと信じて、その道に全力でまい進する世界が自力だといえよう。
 しかし、その気になってもできないことは、いくらでもあります。わが身一つ自分の思い通りにならないということを自覚すると、自分の気持ちが楽になります。明るくなります。他力とはこのような世界と思います。
 自力とは自己閉鎖。他力とは自己解放の世界といえよう。人にとらわれ、ものにとらわれ、がんじがらめの今の生活を変えて他力の生き方を学んで行くべきことだとつくづく思っている今日この頃です。

今を生きる

2004-11-17 20:08:31 | 仏教/宗教
 親鸞の本を読んで、来世でなく今を精一杯生きること、現世を生きることが仏の教え、仏の教えにわが身をゆだねられ自己が開放されれば弥勒になれ往生できるといわれるのである。いかにもいい加減なように見えるが、そのいい加減な生き方が一番いいのであるといっているようだ。

 仏に使え仏の教えに従うことが信心であり真実を探求する。キリスト教もキリストの教えに従い真理を探究することが信心といっているが、親鸞の教えもキリスト教と同じようである。親鸞の教えは念仏を唱えようが唱えまいが真理を探究し仏の教えに従えばそれが信心であるといっている。自殺者も死ねば浄土で仏になるといってあげ誰でも平等であるが、キリスト教は自殺者は嫌い、一般の墓地には埋葬させてくれないという。仏さまはそんな分け隔てはしない。

 自力による苦難難行の修業をする僧もいるが、そうしなくても、他力本願で自己解放を図ることも信心であるといっている。他力とは仏の教え、真実の生きる智慧のことでそれにゆだね仏を信じていくことにあるといえよう。

こころ、ままならず

2004-11-16 19:57:36 | 仏教/宗教
 心ほどままならないことはない。子供を育てるよりも難しい。親鸞の言葉に「自分の心を捨てるということは、自らが身をよしと思う心を捨て、身を頼まず、悪しき心をさかしく省みず、また人の良し悪しと思う心を捨て」と述べられていますが、現代訳で言えば、「自分の独善、自分が最高の心を捨て、自分が万能の思い上がりに気付く、したり顔に自分で自分を裁かない自分不在のまま他を裁く心を捨てる」ということらしい。そういった捨てされない心そのものが罪悪であると親鸞は言っている。
 捨てきれない心・・・主観の固執ーー わが知識、わが経験、わが判断、わが立場、我が好き嫌い、我が損得ーーーそれらの我が思いを握って離さないのが罪悪の内容らしい。それらの心を捨て去り無の境地になるよう訓練することが人生修行なのかもしれない。

人間は欲深く、欲により生きている面もなくはないと思います。其の欲から、怒り、腹立ち、そねみ、妬みの心が生まれてきます。もっともっと謙虚に、素直に生きる勇気と強い意志が必要であるとつくづく思います。