カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

批判と視野の広さ

2020年03月02日 10時42分06秒 | 生き方

「批判」は重要で、言論の自由にも関係しています。

ただし

「批判」にもたくさんの種類があるようで、「批判」なら何でもいいとは限りません。 

その典型が「 視野のひろさ 」問題でしょうか。 

つまり「いい点で語っている」ような人を見つけても「狭い視点のみで語っている」ことに気付くと、しばしばがっかりするのです。

たとえば、こういう例が一番いいでしょうか。

日本政府をいい点で批判している人に限って中国政府や韓国政府を批判しないのですが、これは視野の狭さに由来します。

日本を批判するその視点で、中国~朝鮮半島を批判して欲しいのですが、そうはいかないのでした。

そんな人は、どこにでもいるでしょう(笑)。

人を観察する上で大切なことですが

    • 何を言うかも大切能力がそうさせる)
    • 何を言わないかも大切(これを見分ける知性

視野が狭すぎると

    1. 同じ視野の人からは「そうだそうだ」
    2. 異なる視野の人からは「そうでない」
    3. 更に広い視野の人からは「またか

政党間の対立原因は「1.」と「2.」でしょう。

そんな人は「1.」と「2.」の対立が真実でありこれこそが生きる道だと信じています。

中国~韓国での対立も、ほとんどの場合「1.~2.」ですが、日本には「3.」を理解している人が比較的多いのでしょう。

ですから日本人は「優柔不断」「対立がない」ように見えます。

とくに

「定年までは同じ組織ゆえ、不本意ながらある方向を向いていた

のですが、ようやく定年を終えて

自由になったはず」なのに、染みついた「組織のある方向が消えることはなかった

という人が多いでしょう。

いろんな事情で「本心は否定していても不本意ながら肯定してきた」人は、定年を過ぎてもしがらみがあり「ずっと肯定し続ける」ことが多いのです。

否定していたのが本心ですが、いつのまにか、本心が変わっていたのですね。

これと同じで

友が変わってしまったと嘆く人がいますが、自分が変わってしまい、必要とする友が変わってしまったのかも知れません。

他人が原因であると見なしたい人情なんでしょうが、これにウソが入ると、今の韓国になってしまいます。「ウソ」をつくやら「責任は他人にある」と信仰するやら、ろくなことがありませんね。

日本には是々非々」という言葉がありますが

これがないのが組織の「視野の狭さ」現象で、まず「矛盾となることは言わない」ものです。

対立ばかりの視点」からは

破壊が生まれるだけでしょうか。

「対立」が理解を助けることはあっても・・・・

さてさて、皆様はどう思われますか。


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