「批判」は重要で、言論の自由にも関係しています。
ただし
「批判」にもたくさんの種類があるようで、「批判」なら何でもいいとは限りません。
その典型が「 視野のひろさ 」問題でしょうか。
つまり「いい点で語っている」ような人を見つけても「狭い視点のみで語っている」ことに気付くと、しばしばがっかりするのです。
たとえば、こういう例が一番いいでしょうか。
日本政府を「いい点で批判」している人に限って中国政府や韓国政府を「批判しない」のですが、これは視野の狭さに由来します。
日本を批判するその視点で、中国~朝鮮半島を批判して欲しいのですが、そうはいかないのでした。
そんな人は、どこにでもいるでしょう(笑)。
人を観察する上で大切なことですが
-
- 何を言うかも大切(能力がそうさせる)
- 何を言わないかも大切(これを見分ける知性)
視野が狭すぎると
-
- 同じ視野の人からは「そうだそうだ」
- 異なる視野の人からは「そうでない」
- 更に広い視野の人からは「またか」
政党間の対立原因は「1.」と「2.」でしょう。
そんな人は「1.」と「2.」の対立が真実でありこれこそが生きる道だと信じています。
中国~韓国での対立も、ほとんどの場合「1.~2.」ですが、日本には「3.」を理解している人が比較的多いのでしょう。
ですから日本人は「優柔不断」「対立がない」ように見えます。
とくに
「定年までは同じ組織ゆえ、不本意ながらある方向を向いていた」
のですが、ようやく定年を終えて
「自由になったはず」なのに、染みついた「組織のある方向が消えることはなかった」
という人が多いでしょう。
いろんな事情で「本心は否定していても不本意ながら肯定してきた」人は、定年を過ぎてもしがらみがあり「ずっと肯定し続ける」ことが多いのです。
否定していたのが本心ですが、いつのまにか、本心が変わっていたのですね。
これと同じで
友が変わってしまったと嘆く人がいますが、自分が変わってしまい、必要とする友が変わってしまったのかも知れません。
他人が原因であると見なしたい人情なんでしょうが、これにウソが入ると、今の韓国になってしまいます。「ウソ」をつくやら「責任は他人にある」と信仰するやら、ろくなことがありませんね。
日本には「是々非々」という言葉がありますが
これがないのが組織の「視野の狭さ」現象で、まず「矛盾となることは言わない」ものです。
「対立ばかりの視点」からは
破壊が生まれるだけでしょうか。
「対立」が理解を助けることはあっても・・・・
さてさて、皆様はどう思われますか。