窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

横浜って結局何だろう?-第105回YMS

2019年03月19日 | YMS情報


  3月13日、mass×mass関内フューチャーセンターにて、第105回YMS(ヨコハマ・マネージャーズ・セミナー)を開催しました。

  今回は、横浜生まれの横浜育ち、横浜地元で仕事をする「地産地消編集長」、横浜ウォーカーの山本篤史様より、「『横浜ウォーカー』から考える“ジモト”って何だろう?」と題してお話しいただきました。



  僕はYMSが始まって以来、初めて2カ月続けて出席できませんでした。そこで今回もご参加いただいた方の感想をご紹介したいと思います。

1.
まずは横浜ウォーカーが、ベイスターズが優勝し、神大が箱根優勝、横浜高校(松坂)が春夏連覇した(ほかにも関東学院ラグビー優勝、フリューゲルス優勝など)の98年に創刊したこと、まさに横浜イヤーに登場した雑誌であることを知り、めぐり合わせというのはあるんだなと感じました。〇〇ウォーカーという中でも横浜ウォーカーというのはとても特殊な雑誌らしく・他の〇〇ウォーカーと違って横浜ウォーカーだけ市の名前がタイトル(他は関西ウォーカーや東海ウォーカーなどの経済圏)・この出版不況の中、隔月発行から月間発行へ・表紙をベイスターズの選手が飾る非常に珍しいエリア情報誌(他のエリア情報誌ではないらしい・・)などなど、あと面白い企画でいうとムックではあるが全ページ全て崎陽軒情報の崎陽軒ウォーカーなど独特のスタイルで横浜ウォーカーが作られていること、これが非常に興味深かったです。

何故このような雑誌を作ることができるのか、それは編集長曰く「ジモト愛」!
歴史がたかだか160年しかないからこそ、貪欲に新しいものを取り入れてきた横浜、そのスピリットが横浜ウォーカー作っているのだという説明に妙に納得してしまい、また現在の横浜が置かれている状況(外国人は素通りするまちなど)強烈な危機感をもっていらっしゃることに感銘を受けた次第です。

そしてまた一人横浜のことを大好きなひとと巡り合いました。


2.
横浜ウォーカーの山本さんのお話を伺い、地元にいながらわかってないことばかりである事を知りました。
外国人から見た横浜の行きたいところがまずラーメン博物館、そしてカップヌードル館との事を聞き、横浜ってそんなもの?という印象でした。
横浜ウォーカーの周年号はベイスターズの選手が飾るという他にはないレアなケースであることも興味深かったです。(地元愛はある)
世論調査で住みたい街のトップになってもそれじゃ何があるか?というとこれといって何もない。
イメージだけでなく、何かこれといったものを打ち出していくことがハマっ子達のテーマなのでしょう。


 これまでYMSは、幅広い分野の勉強会と共に、地元横浜について知識を深めるための会も数多く開催してきました。

第10回 町興しとビジネスについてのフリートーク
第21回 横浜の農業事情と食  
第52回 横濱の歴史を知ろう!
第87回 『横濱市民酒場』とはなにか?
第88回 素晴らしきかな大岡川
第101回 ヨコハマ横浜YOKOHAMA横濱よこはま 誕生とみらい
第104回 ”TOKYOディープ!”が見たYOKOHAMA

  その度に思うことですが、今やメディアを通じて全国に知られ、時には鼻持ちならないとさえ言われる「濱っ子のヨコハマ好き」。しかし、当の濱っ子は横浜についてどれだけのことを知り、何にアイデンティティを見出しているのでしょうか?実質的にわずか160年ほどの歴史しか持たないこの町の、つい数十年前のことさえ知らない。さらには、現在の姿さえ知らないことも多いのではないでしょうか?ひょっとすると、「ヨコハマ」というイメージの良さに自分を投影させ、それを地元愛だと錯覚しているのかもしれません。しかも、そのイメージの良ささえ、自分たちがそう思っているだけではないのか、と。

  しかし、これまでの講師の方々、また今回の山本様のように、熱い思いをもって活動していらっしゃる方も少なくありません。そうした方々のネットワークとして、YMSが果たすべき役割は、まだまだあるように思います。

過去のセミナーレポートはこちら

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鶴齢の試飲会に行ってきました

2019年03月11日 | ワイン・日本酒・ビール


  3月7日、新潟・青木酒造さんの「鶴齢」試飲会へ行ってきました。試飲会場は東神奈川の「ほっこり酒処 千」です。

  新潟県南魚沼市にある青木酒造さんの創業は1717年。新潟県で三番目に古い酒蔵だそうです。生産するお酒の約6割は新潟県内で消費されるそうですので、県外に流通する量はあまり多くないお酒と言えます。

 今回試飲したのは、次の6本です。



・鶴齢 純米大吟醸 槽搾り
・鶴齢 純米吟醸
・鶴齢 特別純米 越淡麗 生原酒
・鶴齢 特別純米 山田錦 生原酒
・鶴齢のにごりさけ
・雪男 純米酒



  初めに「鶴齢 純米大吟醸 槽搾り」から。純米大吟醸のもろみを伝統的な槽(ふね)で搾り、原酒を瓶詰めした本数限定のお酒です。槽搾りというのは、酒袋と呼ばれる袋にもろみを入れ、上からゆっくりと圧力をかけて搾る方法です。以前、富山の「吉乃友酒造」さんを見学した時に見た気がします。機械による圧搾に比べ、圧力が弱いので能率は悪いですが、雑味の少ないお酒になると言われています。

  山田錦37%精米、アルコール度数16%、日本酒度-9.5、酸度1.6。口に含むと、これぞ米の中の米という、お米の甘みと旨味が凝縮された、大変美味しいお酒です。その割に確かに余計な雑味がなく、飲み口が良いのですいすいと飲めてしまいます。料理と別にしてお酒単体で楽しみたいお酒。恐らく、あっという間に無くなってしまうでしょう。



  次は一転してスッキリとした飲み口の「鶴齢 純米吟醸」。越淡麗55%精米、アルコール度数15%、日本酒度+2.0、酸度1.4。越淡麗は、山田錦と五百万石の交配から生まれた、新潟の酒米だそうです。スッキリとしながらもお米のふくよかな甘みがあり、魚沼の柔らかな雪解け水を連想させます。因みに仕込み水ですが、魚沼の雪解け水はミネラルが豊富と言われ、去年行った「上善如水」の試飲会で飲んだ白瀧酒造さんの仕込み水はやや硬い感じがしました。しかし、今回は非常に軟らかい印象を受けました。実際、青木酒造さんの仕込み水は軟水だそうです。青木酒造さんと白瀧酒造さんは距離にして13㎞ほどしか離れていないのですが、結構違うものなのでしょうか。



  三杯目は「鶴齢 特別純米 越淡麗 生原酒」。越淡麗55%精米、アルコール度数17%、日本酒度+3.0、酸度1.6。料理に合わせて飲むなら、今回の中で一番好きなお酒。力強い米の旨味、控えめな甘さ、ややアルコールを強く感じます。鴨のロースト、焼き鳥、塩気のある食べ物に合わせたいです。雪深い魚沼では保存のため味付けの濃い食文化が育ったのだそうです。その土地の食に合うようにできている、日本酒でなくても言えることですが、そこがお酒の神秘的なところであり魅力でもあります。



  四杯目は「鶴齢 特別純米 山田錦 生原酒」。山田錦55%精米、アルコール度数17%、日本酒度+3.0、酸度1.8。全体として厚みはありますが、控えめな甘さとキレ、アルコールを感じます。先ほどのお酒の後ということもあって、何となく若々しさというかギャップを感じてしまうのですが、山田錦が晩稲の品種であるということも関係しているようです。



  「鶴齢のにごりさけ」。山田錦60%精米、アルコール度数17%、日本酒度-3.0、酸度1.8。見た目と違い、すっきりとしたキレのあるやや辛口。軽く発泡しており、酸味も感じます。飲みやすいです。



  最後は「雪男 純米酒」。美山錦60%精米、アルコール度数15%、日本酒度+7.0、酸度1.5。これまでのお酒とは大きく違う、しっかりとした辛口。清水のようで、最後だけに余計ギャップを大きく感じました。テーブルでも好みの分かれたお酒でした。

ほっこり酒処 千



神奈川県横浜市神奈川区西神奈川1-8-11



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意外なことに初登場、角平-横浜・平沼

2019年03月06日 | 食べ歩きデータベース


  初めてではないのですが、意外なことにまだブログに挙げたことがありませんでした。横浜は平沼にある「つけ天そば」で有名な「角平」です。

  今年は特に珍しく横浜でも雪がチラついた2月9日。当社の近所の忠勇もそうですが、最近はこういう昔ながらの店でゆっくり飲むのが良いと思えるようになりました。



  戦前からこの場所に店を構えている角平。もともとは豚カツ屋さんだったそうです。座敷では大きなウミガメの剥製が一際目を引きます。



  飲みながらの打ち合わせだったので、名物「つけ天そば」ではありませんでしたが、普通に天ぷらの盛り合わせも美味しいです。特にふっくらした鱚の天ぷらが美味しかったですね。天つゆは昔ながらの濃い目。



  初めて食べたのですが、富山の棒麩というらしいです。まるで輪切りにしたフランスパンのよう。これをたっぷりのネギで豪快にいただきます。棒麩、チーズをのせるとか洋風にもアレンジできそうですし、色々な料理に使えそうです。



  寒いので、熱燗は何本呑んでもすぐ無くなってしまいます。そこでそば湯をで芋焼酎を割ったお湯割りで体を温め。

  話も弾み、楽しい夜でした。

角平



神奈川県横浜市西区平沼1-36-2



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孫武苑-中国・蘇州

2019年03月05日 | 史跡めぐり


  続いて、同じ穹窿山にある「孫武苑」へ。現存する最古にして最も広く読み継がれている兵法書『孫子』を著した孫武がここに隠遁し、孫子十三編を著したと考えられているところです。


 
  ただ、初めに断っておかなければならないことは、孫武は史書にほとんど記述がないことから、実在したかどうか不明だということです。まして本当にここに隠遁していたかどうかは、伝説の域を出ません。1972年、中国山東省銀雀山で、前漢時代の墓より「孫子」の竹簡(竹簡孫子)が発見されました。しかしそれも、『孫子十三篇』と『孫臏兵法』が別物であったことが証明されたにすぎません。また、『孫子』自体も後代に書き加えられたり、順番が入れ替わったりしており、謎が多いのも事実です。その割には、巨大な資料館あり、博物館ありと随分大々的に観光地化したものだと思います。したがって、以降の孫武の記述については、あくまで伝説であることを前提として進めていきたいと思います。

  因みに、上の写真の「兵聖孫武」の「武」の字が変ですが、ガイドによれば「武」の字を分解すると「二つの戈を止める」となり、「兵は国の大事なり、察せざるべからず」、「戦わずして勝つ」と兵書でありながら、不戦を強調した『孫子』に通じるのだとの説明でした。日本でも武道の世界で同じことを聞いたことがあります。即ち「武道」とは「争いを止める道」なのだと。しかし、「武」の「止」は「とめる」ではなく「足」であり、「武」とは、「戈(ほこ)」と「止(あし)」を組み合わせた象形文字です。もちろん、「戈を持って戦いに行く」というのが本来の意味です。ただ、説得力はあります。


【孫武の時代の世界(クリックすると拡大します)】

  孫武は今から約2500年前、春秋時代末期の人物。斉(現在の山東省)の生まれで、後に斉を乗っ取り王族となる田氏の出だとされます。その後、陳、孫と姓を変え、斉を出て当時の新興国、呉(現在の蘇州)にやってきます。すぐには仕官せず、ここ穹窿山に隠遁し『孫子十三篇』を著したとされます。

  その後、呉の宰相であった伍員(子胥)に見出され、呉王闔閭に謁見。その才能を認められ、将軍として登用されます。将軍となった孫武は、柏挙の戦いの陽動作戦で大国楚を破り、余勢を駆って楚の都、郢城を陥落させるなど、才能を発揮しました。その後も呉の太子不差を補佐し、対立する越(現在の浙江省)を滅亡寸前に追い込むなど活躍したとされます(「臥薪嘗胆」の故事で有名)。

  しかし、その後のことは全く言い伝えがありません。呉王不差は、越王勾践を破ったものの、その後、奸臣伯嚭の讒言などから功臣伍子胥を自決に追い込み、公子慶忌も誅殺、また勾践の謀略で中国四大美女の一人に数えられる西施に溺れるなどし、挙句勾践の反撃に遭い、呉は滅亡します。『孫子』(計篇)には、「将し吾が計を聴きて、之を用うれば必ず勝つ、之に留まらん。将し吾が計を聴かずして、之を用うれば必ず敗る、之を去らん」、つまり、「もし私の戦略を呉王が聴き入れ、私に将帥として呉王の軍隊の作戦を指揮させるのであれば、必ず勝利する。よって私は呉国に留まろう。もし私の戦略を呉王が聴き入れないのであれば、私が将帥として呉王の軍隊の作戦を指揮したとしても、必ず敗れる。よって私は呉国を去るであろう」という記述があることから、呉王不差に見切りをつけ、去ったのかもしれません。



  さて、孫武苑を中に入ると、茅蓬塢(孫武草堂)という庵があります。香港の企業家である方潤華という人から寄贈されたもので、春秋時代の生活風景が再現されています。



  同行していた同い年の中国人社長が、「自分が子供の頃もこんなだった…」と言っていたのが少しショックでした。



  智慧泉。伝説によれば、孫武は穹窿山で甘水を飲んで足が動かなくなり、この地で隠遁生活を始め、『孫子十三篇』を書きあげたそうです。



  有名な「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」(謀攻篇)の碑。よく見ると、毛沢東の書となっています。毛沢東の『持久戦論』からは、彼が『孫子』を深く理解していたことが窺われます。



  『史記』に登場する、有名な「孫子姫兵を勒す」の壁画。



  資料館には、矛・戈・弩・戦車・軍船といった春秋時代の兵器の模型が展示されていました。しかし、上の写真は山西万栄廟出土「呉王僚戈」とあります。呉王僚は、闔閭の前の王。まだ公子光だった闔閭は、無類の魚好きだった僚を太湖に誘い出し、食客の専諸を使い、僚に供した魚の腹の中隠した小剣(魚腸剣)で僚を暗殺ました。銘文には「王子干戈」とあります。なぜ呉から遠い山西省から出土したのか不思議ですが…



  こちら、我が家にある『孫子』の竹簡。もちろん、おもちゃです。

  いずれにせよ、悠久のロマンを感じる楽しい場所ではありました。

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穹窿山・上真観-中国・蘇州

2019年03月04日 | 史跡めぐり


  11年ぶりの中国です。雨煙る寒空の中、蘇州の有名な山、穹窿山へ行ってきました。「穹窿」には天空という意味があるそうです。さほど高い山ではありませんが、何となく良い気が流れている気がする、気持ちの良いところでした。

  さて、最初に訪れたのは「上真観」という道教寺院。記録によると創建されたのは1800年ほど前、後漢の時代。最も繁栄したのは清の最盛期で、6代皇帝乾隆帝はこの寺院へ6度も行幸し、毎回山頂にあるこの寺院まで登ってきたそうです。その後、文化大革命などもあり荒廃、現在の建物は1990年に再建されたものです。



  山門をくぐると、石段に沿って9匹の龍の彫刻が現れます。道教のことは良く分かりませんが、陰陽で九は陽を表し、龍は陽の象徴です。9匹のうち、一番上の龍が皇帝を表しています。



  「道(タオ)」の書。「しんにょう」が三点しんにょうで書かれているのは、道教で万物を表す「天・地・人」の意味を込めているのだそうです。



  余談ですが、当社の行動指針、思考の起点を表す「Ecosophy」のシンボルマークも意味の一つとして、青は「天」、緑は「地」、白は「人」を表しています。当社の新物流センター「エコムナ」の外壁もこの色です。



  三清閣。内部の写真を撮るのは遠慮しましたが、「玉皇宝殿」、「彌羅上宮」、「三清閣」の三層からなり、「玉皇宝殿」には道教の最高神である玉皇大帝、「彌羅上宮」には六十甲子と呼ばれる、十干十二支を象徴する60体の神像、最上階の三清閣には玉清元始天尊、上清霊宝天尊、太清道徳天尊の三清が祀られています。

  三清は儒教の天神が道教で神格化したもの。元始天尊は、万物より前に誕生した常住不滅の存在。霊宝天尊は宇宙自然の普遍的法則や根元的実在を意味する「道」を神格化したもの。道徳天尊は「老子」を神格化したものです。

  参拝の際は、左手親指を右手でつかみ、左手で右手の甲を覆うと、ちょうど親指の部分が「太極図」の形になります。その状態で三拝。印象的だったのは、観光ガイドは信仰上の理由で三清閣への入殿を拒否し、中を案内した道士までが三層目に上がることを拒否したということです。そこまで神聖な場所なのに、異教徒である外国人観光客が遠慮なく入れるとは不思議です。



  鐘楼の鐘。1回から10回まで、撞く回数ごとにご利益が変わるのだとか。そうとは知らず、1回で遠慮してしまいました。



  乾隆行宮。乾隆帝がここを訪れた際、宿舎としたところだそうです。



  望湖亭。生憎、雨に霞んで太湖は全く見えず。尤も開発が進んだため、晴れていても太湖は見えなかったかもしれません。



   しかし、雨に霞む景色も悪くないものです。



   望湖亭に建つ石碑、湖側は乾隆帝が1757年(丁丑)に詠んだ「穹窿山望湖亭望湖」という五言絶句。

震沢天連水
洞庭西渡東
双眸望無尽
諸慮対宜空
三万六千頃
春風秋月中
五車稟精気
誰詔陸亀蒙



  裏面は1762年(壬午)のもの。

見説古由鐘
乗閑陟碧峰
上真厳祀帝
四輔切其農
奚必逢茅固
無労学赤松
具区眼底近
可以暢心胸

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第14回ネゴシエーション研究フォーラムに参加しました

2019年03月03日 | 交渉アナリスト関係


  3月2日、日本交渉協会主催の第14回ネゴシエーション研究フォーラムに参加してきました。




  今回のテーマは「ペルー日本大使公邸人質事件を通じた海外危機管理~予備的対応と関係者の実際の事件中の対応について」。お話しいただいたのは、海外職業訓練協会国際アドバイザー、株式会社JTB LAPITAアドバイザー、日本ブラジル中央協会常務理事の酒井芳彦氏。ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません、1996年「ペルー日本大使公邸人質事件」が起こった時、ペルー味の素の社長として人質の一人となっていた方です。約3時間半にわたり、事件の渦中におられた生々しいお話を伺うことのできた大変貴重な機会でした。

  事件の記憶がない方のために簡単に整理しますと、1996年12月17日に、ペルーの首都リマで起きた、テロリスト(MRTA)による日本大使公邸襲撃・占拠事件のことです。1997年4月22日のペルー軍特殊部隊による突入、人質解放まで丸4カ月かかり、人質だったカルロス・ジュスティ最高裁判事と特殊部隊隊のファン・バレル中佐、ラウル・ヒメネス中尉が死亡、MRTAは14名全員が死亡しました。

  さて、膨大なお話を全てご紹介することはできませんので、ここでは話題を

1.事件の経過
2.監禁生活の中で
3.日本としての事件の教訓
4.ペルー味の素の当時の危機管理対策

以上の4点に絞って整理したいと思います。


1.事件の経過


  1996年12月17日、日本大使公邸ではおよそ10年ぶりとなる天皇誕生祝賀会が催され、政府・民間からの招待客640名がいました。20:20、爆音と共に隣家からトゥパク・アマル革命運動(MRTA)のテロリスト14名が公邸内に侵入、公邸を占拠しました。テロリスト側の要求は当時のフジモリ大統領の社会・経済政策の変更、投獄されている仲間の釈放(リーダーであるネストル・セルパの妻ナンシーも含む)、帰路移動の保証、そして身代金でした。

  テロリスト側も14名で640名の人質をコントロールすることができないため、21:50、まず女性全員と70歳以上の男性、使用人、226名が解放されます。その後さらに解放され、最終的に残された人質は72名でした。

  リマは南半球なので、12月~2月は日中の気温が27度位まで上がります。しかし、公邸占拠と同時に電気、水道は遮断され、飲料水の差し入れは3日後、弁当などの本格的な差し入れは2週間後からだったそうです。最初の二日目は1枚の食パンを5人で分け、3日目は乾パン1缶を5人で分けたそうです。トイレも使えず、簡易トイレが2週間後から。当然シャワーはなし。携帯電話は没収され、小型のマットレスが搬入されたのは1月30日のこと。それまでは床で雑魚寝だったそうです。衛生環境の悪化からネズミが繁殖していたとか。

  ペルー政府とMRTAとの接触は12月28日から。2月1日には、武力解決を指向するペルー政府と平和的解決を望む日本政府との間で首脳会談がカナダのトロントで行われました。2月11日から3月10日にかけては、仲介役のシプリアーニ大司教らから成る保証人委員会とMRTAとの間で10回にわたる予備的会議が行われましたが、進展なく終わりました。

  フジモリ大統領に平和的解決という選択肢はあったのでしょうか?結果から見ると、初めから武力制圧しか選択肢になかったように思われます。公邸に侵入するための地下トンネルを最終的には9本掘り、陸軍基地内に実物大の大使公邸模型を2カ月で作り、特殊部隊の訓練を繰り返しました。突入時の手際の良さも、テロリストがいつ、どこに何人いるか情報収集していたことが窺われます。公邸が占拠されてすぐに電気・水道をストップしたのもトンネルを掘るための準備だったと考えられます。

  1990年に大統領に就任したフジモリ大統領は、当時から強権的という批判はあったものの、就任時7,650%あったインフレ率を事件の起こった1996年には11.8%にまで鎮めました。特にテロ撲滅には強い態度を示し、1990年に2,779件あったテロ発生件数は1996年には589件にまで減少しています。そのような大統領がこの場合だけテロリストと平和的解決を模索したりするでしょうか?交渉理論の観点で言えば、意思決定は、当事者の持っている価値に目的および目的達成のための手段が規定されるということです。それを日本政府が知らないはずはなく、建前として平和的解決を打ち出しながらも、実際には時間稼ぎをしていたと考えるのが妥当ではないでしょうか。そもそも交渉する意思が双方にない限り、交渉は成立しません。

2.監禁生活の中で

  占拠から2週間が過ぎたあたりからの生活は非常に規則正しいものだったそうです。人質が企業のトップや外交官などであったことから、比較的統率はとれていたそうですが、極限状態にあって非公式に現れるリーダーのような者はいなかったようです。外部からの情報がなく、いつ事態が急変するか分からない不安、外出できないことによる運動不足、前述のように日中の暑さといった中で、大切なことは「絶対に死なない」という強い気持ちだったそうです。それでも14畳程度の部屋に11人が監禁されている状態が長く続くというのは、自由、尊厳、プライバシーが無いという苛烈な状況であったことに変わりはありません。

  家族との手紙はスペイン語のみ許され、MRTAの検閲の後、国際赤十字を通じ渡されますが、家族の支えは大きかったようです。実物を見せていただきましたが、酒井氏が包装紙などを剃刀の刃で切って作った、娘さんに宛てたバースデー・カードが印象的でした。



  誘拐事件や監禁事件などの被害者が、犯人と長い時間を共にすることにより、犯人に過度の連帯感や好意的な感情を抱く、ストックホルム症候群という心理現象があります。MRTA側は人質に対し、「反抗しなければ殺さない」という声明を出していたようですが、それでも彼ら自身の身が脅かされるような事態になれば、どうなるか分かりません。人質になっていた民間企業のトップの方たちは、おおむねスペイン語圏での駐在経験が長く、スペイン語ができたことから、彼らとの挨拶から始め、ピアノの弾き方を教える、オセロゲームを教える、差し入れられた日本の歌のCDを一緒に聞くなどしたそうです。彼らの中にも自分のことを語り始める者がいて、中には「この一件が片付いたら日本で警察官になりたい」とか「海軍に入隊したい」という者もいたそうです。14名も全てがプロのテロリストという訳ではなく、貧しい山岳地帯で生活のために加わったという者が少なくないようでした。中には年端も行かぬ女性が2名含まれていました。

3.日本としての事件の教訓

  当時、日本大使公邸がテロリストの標的となったのには、日本のこれまでの対テロリストに対する交渉態度、公邸の危機管理体制の甘さがあったと言わざるを得ません。当時卒業間際の学生だった僕も報道を見て感じたことですが、大使公邸は日本の主権下であるにも関わらず、憲法の制約により、その無力を世界に晒しました。その後、この事件を教訓として、危機管理センターの設置、在外公館の防犯体制強化、テロ防止の国際協力、SATの増員、除法処理能力の充実などが図られたようですが、20年経った現在でも、人質事件が起こるたび、この事件の教訓である「危機管理」という視点での議論はなされているでしょうか?

4.ペルー味の素の当時の危機管理対策

  1982年、メキシコの金融危機に端を発した債務危機は、南米諸国を深刻な経済危機に追い込みました。ペルーも1987年頃から急速に治安が悪化、経済も崩壊状態にありました。味の素のペルー進出は早く、1968年のことです。酒井氏がいた1996年当時、ペルー味の素の本社および工場がどんなテロ対策を施していたのか、最後に一端を箇条書きでご紹介したいと思います。

・塀に囲まれた本社入口は、人が二人並んで通れるかどうかの大きさ。高い塀の上にはさらに高い壁が築かれ、外から爆弾を投げ込んだり、狙撃しても弾き返せるようになっている。
・玄関わきの受付は防弾ガラス。内外の監視カメラ、監視塔の設置。
・社用車は厚さ3㎜の防弾ガラス、爆弾除けのため上下に鉄板を貼り、装備だけで250kgsの重さがある。
・営業車には社名が分かる表示をしない、後部ガラスも中の商品が見えないように覆いがしてある(現在は治安が改善し、この営業車はない)。
・工場正門は車両爆弾が突っ込めないよう、鉄のバリケードを設置。
・鉄の門は数m行ったところにもう一つ鉄の門がある。
・車両が入る前の爆弾チェック。
・通勤ルートの変更、電話の録音。
・秘書とは本名で通話しない。
・自宅を含めた24時間警備

  グローバル化が進む中、海外勤務は日本人にとって一層身近なものになっています。危機管理の徹底と「自律自衛」の覚悟が求められると、酒井氏もおっしゃっていました。

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2019年2月アクセスランキング

2019年03月01日 | 人気記事ランキング


  今日から3月ですね。2月はISO14001の更新審査やら出張やら、色々しているうちに終わってしまった感じです。先日ある人とのやり取りで、「どうして歳を重ねると時間の経つのが早く感じられるのか?」という話題がありましたが、本当にそうですね。3月、春が待ち遠しいです。

  さて、2019年2月にアクセスの多かった記事、トップ10です。

  2月は更新が少なかったこともあり、ややアクセスは低調。個別記事では定番の「エコノミーとエコロジーの語源」(23カ月連続)が3位でトップでした。そんな中でも年頭に開催した「2019年新年会を開催しました」が2カ月連続でトップ10入りしたのは大変ありがたいことです。5位「【よみがえり】400万双ありがとうございます!」にも感謝申し上げます。

  以降は1月後半の出張に伴うグルメ関連の記事。今月も出張続きで、少し太ってしまいました。

  いよいよ年度末です。今月もどうぞよろしくお願いいたします。

1 トップページ
2 その他
3 エコノミーとエコロジーの語源
4 2019年新年会を開催しました
5 【よみがえり】400万双ありがとうございます!
6 カテゴリー毎の記事一覧(リサイクル(しごと)の話)
7 津々浦々、麺の旅-富士・甲府・行橋・博多
8 住宅街に突如現れた安らぎの異空間-金蔦(博多区・春吉)
9 Yema(イェマ)-フィリピンのお菓子
10 中洲でBar2軒-Gita, Heart Strings

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