窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

ウエスものがたり【第八回】ウエスができるまで-包装

2008年06月30日 | ウエスものがたり
 
 ようやくウエスの包装です。包装は先ほど計量のときに平らに伸ばして積み重ねたウエスを二つ折りにし、ビニール袋に詰めます。こうすることでウエスを使うとき一枚一枚取り出しやすくなるのです。包装されたウエスは一袋2kgあり、5袋つまり10kgを一単位として結束され出荷されます。

 さてこれまで4回にわたりウエスができるまでの工程をお話してきました。次回からはウエスにぼろを使うことの今日的意義についてお話したいと思います。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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繊維リサイクルの歴史 【014】供給過剰によるリサイクルバランスの崩壊

2008年06月30日 | 繊維リサイクルの歴史
90年代はリサイクルに対する関心がこれまでになく高まり、「循環型社会」形成に向けた法制度も次々に施行された時代でした。ところが「循環型社会」に最も適合するはずの故繊維を含む再生資源業界はなぜか世間の関心の高まりとは裏腹に未曾有の危機に直面しました。

その原因はぼろについて言えば繊維という素材が抱える独特の難しさもありましたが、より根本的な問題は従来型の産業構造と目指そうとする「循環型社会」とに大きなギャップがあり、そのギャップを埋めるための方策が不在であったことにありました。

ある社会システムが別のシステムに移行しようとするとき、移行にかかる費用(摩擦といってもいいかもしれません)が発生するのはある程度やむをえないことです。経済学の唱えるところでは、あるシステムから他のシステムへの移行は、移行費用が不可避であるとしても原則として市場の「見えざる手」によって社会的厚生を最大化する方向へ導かれるとされています。しかしながら循環型社会への移行とは従来の経済学でいう「外部不経済」を内部化する、すなわち伝統的な経済学が対象外としてきた新しいシステムを企図した動きであったため、市場メカニズムによる調整がうまく機能しない状態、すなわち「市場の失敗」を招く結果となったのです。 90年代後半から00年代初頭にかけて故繊維業界が直面した危機は、従来の景気循環による「不景気」といったものだけではなく「市場の失敗」が現出したある意味全く新しい形の危機であったといえます。

 当時直面した課題は今後循環型社会形成を促進していく上で克服していかなければならないいくつかの重要な問題を含んでいますので、次回からは当時直面した具体的な課題について少し詳しくお話していきたいと思います。

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ウエスものがたり【第七回】ウエスができるまで-品質検査

2008年06月29日 | ウエスものがたり
 たかがウエス、されどウエス。ウエスは製品として出荷される前に何度も何度も徹底して検査が行なわれます。今日この記事を読まれることでウエスがただの切れ端ではない、立派な工業製品であるということがお分かりいただけると思います。ではその検査工程を順を追ってご説明しましょう。

 裁断が終わると、まず付属物が残っていないか金属探知機で検査を行ないます。



機械による検査で合格してのちさらに検査員による検査を行ないます。



そして良品として合格したウエスを商品として使う際に取り出しやすいように1枚1枚伸ばしながら計量用バスケットに入れ、計量を行ないます。計量する秤も正確な入数を計測するため1日に2回検査されます。その様はまるで肉を計り売りする精肉屋さんのようです。



 計量されたウエスは包装される前、さらに精度の高い金属探知機で付属物が残っていないか検査されます。この金属探知機は加工食品の検査で使われるものと同じものです。



 工程は前後しますが、この金属探知機による検査はウエスを包装した後もう一度行なわれます。



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繊維リサイクルの歴史 【013】ごみ問題の行き詰まり

2008年06月29日 | 繊維リサイクルの歴史
 71年のニクソンショック、それに続く73年のオイルショックにより日本の高度成長は終わりを告げ安定成長期に入りました。変動相場制移行に始まる日本の円高は85年のプラザ合意以降急速に進み、海外から安価な製品が流入するようになる一方、日本は世界一の物価高・人件費高の国になりました。その結果、ちり紙交換も一部の地域を除いて姿を消してしまいました。

 故繊維業界に目を向けると、ウエスや反毛の大口の需要先であった自動車業界などが積極的に海外移転を進めたことによりその需要が減少しました。中古衣料はアジアの経済発展により唯一順調に成長を続けますが、97年のアジア通貨危機、暴落した自国通貨ゆえにコスト面で相対的優位に立った韓国などの追い上げにより過当競争に陥り、価格が暴落してしまいました。

 高度経済成長のひずみによる公害問題などは60年代から出ていましたが、70年代に入り安定成長期になると発展の爪跡としての環境問題に関心が高まるようになりました。特に国土の狭い我が国では、大量生産・大量消費・大量廃棄の結果として、ごみ問題が深刻になりました。

 こうした中、今ではリサイクルという言葉が一般的にも定着しブームのようにもなっています。80年代までの故繊維業界では一貫して需要を満たすだけのぼろの供給がなく「いかに集めるか」が課題だったのですが、世間のリサイクルに対する関心の高まりと共に市民運動や行政回収が広がるようになると、ちょうど需要が減少していた折に供給だけが激増する、という業界としては前代未聞の現象が発生しました。これまで100年以上繊維リサイクルの歴史を担ってきた故繊維業界は皮肉なことにリサイクルに対する関心の高まりと反比例するかのように、供給過剰による危機的状況に陥ることとなったのです。

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ウエスものがたり【第六回】ウエスができるまで-裁断作業

2008年06月28日 | ウエスものがたり
ウエス原料が選び出されたら、次にそれらを裁断します。かつて裁断には剃刀や鎌が使われていましたが、高度成長期ごろから写真のような電動裁断機が使われるようになりました。このウエス用裁断機は日本で発明され、現在では世界中でこの形の裁断機が使われています。



 かつて日本人の衣料は和服が中心で、洋装が普及した戦後でも例えば「サザエさん」で見られるように家の中では和装ということが続きました。和服、和裁は糸をほどけば元の四角い布に戻るように作られており、着古したものを仕立て直したり、雑巾として使ったりするのが非常に便利なようにできていました。しかし昭和40年代以降、国民生活が完全に洋服中心となると立体裁断である洋服をいかにウエスとして使いやすいように平面に、しかも無駄なく裁断できるかということが課題となりました。しかも洋服は形状が極めて多岐にわたるので、洋服ごとに裁断の仕方が微妙に違ってきます。こうした課題については各々のウエス屋さんが工夫を凝らし、独自の裁断方法を編み出しているものと思います。



 しかも拭き物として使うウエスは洋服についているボタン、ファスナー、ピンや装飾などを取り除かなければなりません。この作業を裁断しながら行ないます。また、デリケートな作業に使う柔らかいウエスや薄手であることが求められるウエスの場合、拭き物に適さない襟や袖口の厚い部分も取り除かれます。そうした諸条件を満たした上でなおかつ拭き物として使うのに適した大きさでなければなりません。通常ウエスの標準的な大きさは30cm×30cm~60cm×60cmですが、それはこの位の大きさが拭き取るのに一番使いやすいからです。

 さらに一枚として同じ古着はありませんので、ウエスは都度内容の異なる原料から極力品質が一定するように調整を行なわなければなりません。この作業は丁度ワインやウィスキーのブレンダーと同じように、熟練と勘が頼りになります。ウエスというと布をただ切っただけのように思われがちですが、このように実は意外と職人技なのです。

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繊維リサイクルの歴史 【012】中古衣料輸出のはじまり

2008年06月28日 | 繊維リサイクルの歴史
逆にわが国の衣生活がますます豊かになった結果として、まだ着られる衣服がぼろとして大量に回収されるようになりました。女性用の肌着やクリーニング店の袋に入ったままの背広、レースのカーテンなどですが、これらは残念ながらウエスにも反毛原料にもなりません。しかしこうした従来の概念で「ぼろ」とはいえない再使用可能な古着がやがて中古衣料として東南アジアに向けて出荷されるようになりました。

 こうした海外市場はウエスを扱っていたバイヤーによって開拓されました。昭和45年に開催された大阪万博の折に来日したインドのバイヤーが注目したという話もあります。そうしたルートにはそれまでアメリカの中古衣料が出回っていたのですが、日本人の方が体型が似ているので、次第に日本からの衣類が大量に出回るようになったのです。

 戦前も「青島貿易」といって中古呉服の輸出が行われていたのですが、これは満州など大陸在住の日本人に向けて現地では手に入りにくい着物を供給するのが目的で、戦後はなくなっていました。しかし、戦前とは違った形で再び中古衣料の輸出が故繊維業界の主力の一つとなっていったのです。

 高度経済成長を経て故繊維業界はその業態を大きく変えることになりました。またこの時期にウエス、反毛、中古衣料という今日の故繊維業界の三本柱が形成されたのです。

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ウエスものがたり【第五回】ウエスができるまで-選別作業

2008年06月27日 | ウエスものがたり
ウエスは大抵の場合一般の家庭から回収された衣料の中からウエスに適したものを選び出して作られます。選び出されるのは一言でいえば「綿素材」ということになりますが、具体的な衣料の種類で申し上げますと、Tシャツ、肌着、シーツ、Yシャツ、ブラウス、ポロシャツ、パジャマ、エプロン、浴衣、綿スカート、綿ズボンなどになります。これらを前回申し上げた素材、色、厚みなどによってさらに細かく仕分けするのです。このようにして選び出された衣料や布をわたしたちは「ウエス原料」と呼んでいます。



 加えてウエス原料はただこうした衣料や布を分ければ良いというのでなく、第二回でお話したように水や油の吸収性に優れる「何度も洗濯を繰り返されたもの」である必要があります。例えばおろしたてのTシャツでもウエスらしきものは作れますが、決して良いウエスとはなりません。吸収性の悪いウエスでは何度も拭かなければならないので作業効率が低下する上、使用量も多くなってしまうからです。

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繊維リサイクルの歴史 【011】繊維製品多様化への対応

2008年06月27日 | 繊維リサイクルの歴史
鉄や紙は回収して溶かせばまた素材に戻ります。経済が発展し産業界は設備の拡大を続けていましたから、ぼろと違いこれらの再生資源業界は値段が上がらなくても量を扱うことによって対処できました。

 しかし素材に戻すことのできないぼろの場合は事情が異なりました。その上、故繊維事情にも大きな変化が現れました。それは繊維の種類の急激な多様化です。

 戦前、回収されてくるぼろは綿か毛織物、それにせいぜい麻と絹でした。ところが戦後も昭和30年代以降になると、化学繊維や合成繊維が急速に出回り始め、数年の間をおいてぼろとして大量に回収されるようになりました。さらにナイロン混紡、アクリル混紡といった具合に、素材を組み合わせた毛織物も回収されてきます。それらは従来の100%毛織物と同じように扱うことはできなかったので、選別をする必要があります。選別作業は大変手間とコストがかかる仕事ですから、故繊維は単純に量を扱えば儲かるという話にはならなかったのです。

 前回お話しましたように、故繊維の主力であるウエスは家庭から綿ぼろを回収する必要があるわけですが、日本中の家庭から綿ぼろだけを選びだして回収するというわけにはいきません。結局「ぼろ」という名であらゆる多様化した素材のものを一括して回収し、選分しなければならず、綿以外の余った素材をどうするかが大きな問題となったのです。

 さて、故繊維業界において当時ウエスに次ぐ大きな需要は反毛でした。しかしこれも安価な繊維製品が市中に大量に出回るようになると、品質の均一なバージン原料が好まれるようになり、扱いが難しいぼろは使われなくなりました。したがって、その後反毛は特殊紡績といって、もっぱら軍手、モップ、カーペットなどの太糸として再生する用途が主流になりました。こうした消耗品にはまだぼろの需要があったのです。というのは、特殊紡績はウエスと違い工場から大量に出る繊維屑でも作ることができますので、その分市場価格が安く推移したからです。このほか、合成繊維も使用して作られた反毛は主な用途として車の内装材やフェルト、椅子やぬいぐるみの中入綿などに使われました。

注:反毛は用途によって使用できる素材の種類が異なります。

 このほか、故繊維の再生方法として溶解して使用する方法があります。最初にお話した通りそもそも故繊維業の起こりはぼろを溶解して製紙原料として使用することでした。その需要は木材パルプの普及とともになくなりましたが、工場で発生する純綿のぼろはその後も若干ではありますが絶縁紙の材料などに使用されました。一方、合成繊維などのぼろを溶解したものは、「ルーフィング」という建築のときにモルタルを塗る前に貼る防水シートやスレートタイルの補強材として使用されました。

 しかし再生資源として再利用できるかということと、そうして作った再生品で採算がとれるかということは、今日でもそうですが全く別の問題です。繊維製品は次第に安価な使い捨ての時代に入り、売れないぼろが増加するにつれ結局ごみにせざるをえないものが増えていきました。もちろん新たな用途を探る研究開発も行われましたが、うまくいきませんでした。

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ウエスものがたり【第四回】ウエスの種類

2008年06月26日 | ウエスものがたり
さて、前回まではウエスという産業がどのようにして興ってきたのかについてお話してきました。これからはウエスというものが実際どのようなものなのか、どのようにして作られるのかなど珍しいウエスの製造過程についてお話していきたいと思います。ウエスを日々お仕事で使っていらっしゃる方でも、そのウエスがどのようにして作られるのかご存知の方はなかなかいらっしゃらないと思います。ただ初めにお断りしておきますと、ウエスの種類や名称、製造工程などは生産される地方や業者によってまちまちであり、これから申し上げることがウエス全般について必ずしも汎用的に当てはまるものではありません。その点をあらかじめご了承ください。



 一口にウエスといってもその種類は用途、素材、色、厚み、大きさなどによって実に様々であり、ナカノ株式会社で扱っているウエスだけでもざっと50種類にのぼります。これでもかなり統合・整理した方であり、かつてはさらに多くの種類がありました。したがって非常に大雑把な分類になるのですが、おおよそウエスは以下のような要件が仕様用途に応じて複合的に組み合わさって分類されます。

・素材…織物、メリヤス、タオル地など
・色…白、薄色、濃色など
・厚さ…薄手、厚手など
・大きさ…大きいもの、中位のもの、小さいもの、定型のもの

使用用途はそれこそ何かを拭く作業、磨く作業であればあらゆる所で使われますし、ちょっと変わったところでは漏水防止の詰め物として使われたりもします。一般的なところでいうと例えば色落ちの恐れのある溶剤作業や塗装作業では白色無地、柔らかいメリヤスのウエスが好まれますし、機械油をざっと拭い去るような作業では少々厚みがあり吸収性に優れたウエスが使われます。

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繊維リサイクルの歴史 【010】「ちり紙交換」の登場と故繊維業界

2008年06月26日 | 繊維リサイクルの歴史
高度経済成長により日本人の暮らしは豊かになりました。所得が上がる一方、生産方式の合理化、技術革新、また海外から原料が安価に入手できるようになったことにより、もはや再生資源の値段が上がることはなく、業者としては価格の低下分を数量で補填するしかありませんでした。

 経済発展にともなって印刷会社や製缶工場の裁断屑、縫製工場の裁断屑、鉄工所の金属屑などが大量に発生するようになりました。また流通業ではそれまでの木箱がダンボールに変わり、その屑がスーパーなどから大量に発生するようになりました。買出人や収集人が減り、屑物の集まらなくなった建場(業者がその日に集めた廃品を買取る問屋のことです)にとって、唯一の生き残りの道がこうした資源の回収を担う坪上業者になることでした。しかし高度成長で人件費が上がり、従来のような集めた種々の廃品を選分するというような手間のかかる作業はもはやできなくなりました。こうして現在のように、古紙だけ、鉄屑だけ、というような回収の専門化が進んでいったのです。

 鉄やガラスなどは工場発生の屑が大量にあり、またバージン原料も安くなったために、家庭から出る空き缶や割れた瓶など誰も回収しようとはしなくなりました。逆に古紙業界は家庭から大量の新聞・雑誌が発生することに目をつけ、昭和39年に「ちり紙交換」を始めます。この「ちり紙交換」は昭和40年には全国に広がり、今でも一部の地域では実施されています。

 こうした伝統的回収システム崩壊の流れの中で最も打撃を受けたのは、他でもない、ぼろを扱う故繊維業界でした。というのは、故繊維の主力をなすウエスは洗いざらしの布でなければ良質のウエスにならなかったため、他の再生資源のように縫製工場の裁断屑が大量に回収というわけにはいかなかったからです。しかも家庭から発生するぼろは古紙に比べればきわめて少量であるため、独自に回収車を出しては回収コストが合いませんでした。そんな中登場した「ちり紙交換」は、故繊維業界にとって「渡りに舟」だったのです。

注:メーカーのように均質で数量のまとまった廃品がでるところを「坪」といい、この坪から回収を行なう業者を坪上(つぼあげ)といいました。

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