窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

繊維リサイクルの歴史 【018】安全保障とリサイクル

2010年10月27日 | 繊維リサイクルの歴史
  2010年、中国が日本に対するレアアース(希土類)の輸出を禁止するという騒ぎがあり、資源の多くを輸入に依存する我が国の脆弱性が改めて浮き彫りとなりました。

  しかし、資源の多くを輸入に頼っているということは今に始まったことではありません。「繊維リサイクルの歴史 【006】軍需景気で活況を呈するが」でもお話しましたとおり、戦時中における再生資源活用は国家レベルの課題でした。その後も、1973年、78年のオイルショック、近いところではつい数年前に天然ガスの供給元であるロシアとEUとの対立が激化した件など、資源確保がわが国の生命線であることを認識させる出来事は枚挙に暇がありませんでした。それにもかかわらず、不思議とそれらに対する危機感は、戦後史を通じ一貫して希薄であったといわざるを得ません。

  冒頭の件で改めてリサイクル、つまり再生資源の活用を捉えなおしてみますと、それは1990年代以降注目されてきた環境保全としての意義だけでなく安全保障の面からも極めて重要であることが明らかとなります。再生資源を活用し、資源効率性を高めることは、わが国の危機管理面からより意識されて当然のことであるはずです。

  これを繊維リサイクルに当てはめてみれば、日本の産業を裏方で支えているウエスや反毛フェルトなどのリサイクル商品をいかに活用するかということにつながります。「繊維リサイクルの歴史」をお読みの方はお気づきと思いますが、これらは繊維リサイクルの観点からも無視できない消費量であるばかりか、今なおわが国の基幹産業である自動車や鉄鋼などで欠くべからざる役割を担っています。もしこれらが活用されなければ、何らかの形で新たな資源を代替投入して補わなければなりません。資源の対外依存度はますます高くなるということになります。

  もちろん、再生資源も元をただせば輸入に依存する資源ですから、再生資源の活用度を高めることが必ずしもこの問題に対し万能であるわけではありません。しかし、多少なりとも資源供給に何らかの障害が発生したとき、経済に与えるマイナスの波及効果を再生資源の活用が緩和することはできます。前回の「繊維リサイクルの歴史【017】再生資源価格の高騰と繊維リサイクル」で、原油価格の高騰がリサイクルウエス、フェルトへの回帰を生んだというお話をしましたが、これはまさに「原油価格の高騰」という危機の波及を再生資源が緩和した一現象でもあったのです。

  「限りある資源を有効に使う」ということは、何か高いところに掲げた理想などではなく、われわれ日本人にとって常に隣り合わせの危機にどう対処するかという恒常的かつ重要な課題なのです。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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繊維リサイクルの歴史 【017】再生資源価格の高騰と繊維リサイクル

2008年07月03日 | 繊維リサイクルの歴史
 故繊維に限らず90年代から00年代の苦境は再生資源業界に共通した出来事でした。しかし長く続いた再生資源業界存亡の危機にようやく底を打つ大きな変化が2000年代半ば頃から見られるようになります。まず21世紀になり2008年の北京オリンピックを目指し高度成長を続ける中国の旺盛な需要に支えられ、屑鉄や古紙などの再生資源が急速に値上がりを始めました。一時この動きに便乗し古紙や金属類の持ち去り、盗難が相次いで発生しマスコミでも大きく取り上げられました。しかし同じ再生資源業でも故繊維はこれら価格高騰の流れには乗れませんでした。それは既にご紹介の通り中国市場では故繊維類の輸入が禁じられていること、それに何より繊維は他の資源物と異なり元の素材には戻らないという特殊事情がありました。要するに繊維リサイクルは中国需要による価格高騰の恩恵を受けることができなかったわけです。

 ところがその故繊維業界にもささやかながら変化が訪れます。それは10年来続いたデフレーションの終焉です。90年代からの10年というもの、安く抑えた人民元、人件費を武器に経済成長の足掛かりをつくった中国から廉価な商品が大量に流入し、日本は低価格競争の時代が続いてきました。しかし2000年代半ば頃より中国政府は人民元の切り上げ、労務面や環境面の法規整備、規制強化、輸出促進のための増値税を撤廃あるいは減率するなど、それまでの方針を転換し始め必ずしも中国製品が安いとは言えない状況になってきました。さらに世界の余剰資金が原油先物投機に大量に流れ込み、1998年4月には1バレル13ドル程度だった原油価格が10年後の2008年4月には100ドルを突破するなど空前の高値を記録するようになりました。
 
 こうした流れを受け、これまで長い間石油原料から作った安価な不織布のウエスやフェルトに押され続けていた故繊維を原料とした伝統的なリサイクルウエス、フェルトに再び注目が集まるようになりました。さらに海外の中古衣料市場では、これもまた空前のユーロ高やアジア通貨高を受け、20年間世界一のコスト高で価格競争力を失っていた日本製品が優位に立ったとは言わないまでも、元からの品質の良さを認められ次第に受入れられるようになってきました。こうして故繊維業は2000年代の終わり頃になって、価格高騰の恩恵を受けることはできないまでも量的にはリサイクル需要を拡大することができるようになりました。このことは少なくとも故繊維業界のリサイクル率を再び上げることに貢献することになったのです。
 
 さらに国内においては地球温暖化対策としてCO2削減が国際公約となり、環境対策やリサイクルに対する意識がありとあらゆる業種に広がりを見せるようになりました。こうした動きが動脈産業と静脈産業がそれぞれ補完しあう、文字通り健康的な循環器(動脈+静脈)産業を形成していくための契機となるか、今後に期待されます。

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繊維リサイクルの歴史 【016】需要面の問題

2008年07月02日 | 繊維リサイクルの歴史
 次に需要面の問題についてまとめてみます。故繊維の用途は主に、中古衣料・ウエス・反毛の三つに分けられるということはすでにお話しました。故繊維の出口となるこれら三つの市場はそれぞれどのような問題に直面していたのでしょうか。

1.中古衣料

90年代から00年代にかけて中古衣料は輸出数量だけでみると1.5倍の成長を示しました。ところが輸出金額は半値以下に下がってしまいました。その主な要因は次のようなものでした。

1)主な仕向地が東南アジアに限られた

地域上の特徴(アフリカの決済メカニズムの不安定、中南米の輸入規制、ロシア・東欧の体型相違等)および物流上の立地から日本の主な輸出先は東南アジアに限定されていました。東南アジア市場は当然日本より南方に位置するため、毛織物等の冬物衣料はほとんど売物になりません。しかし日本人の意識としては冬物の方が購入した時の価格が高いのでリサイクルする価値があるのではないかという感覚もあってか、急速な勢いで冬物衣料の発生が増え行き場を失った冬物衣料が故繊維業者を圧迫することになったのです。

また衣類は生活必需品であると共にわが国のような先進国にあっては奢侈品、すなわちファッションであるという点も見逃せません。つまり日本では衣類に対し実用としての価値よりもブランドとしての価値に値段がつけられています。しかし中古衣料を必要としている多くの国の人々にとって、衣類はあくまで生命を守る必需品なのでありファッションを楽しむところまでいたっていません。その結果、供給側と需要側に価値の不一致が生じます。わたしたちはともすると自分たちに価値のあるものは海外の人々にも喜ばれるものと思ってしまいがちですが、必ずしもそうとは言えないのです。実際東南アジアで必要とされながら、わが国ではどちらかというと敬遠されがちな物の一例を挙げてみますと、

-ハンカチ
-女性物肌着
-バスタオル、スポーツタオルなど
-野球帽

などがあります。意外な結果に驚かれた方もいらっしゃるかと思います。ご覧のようにわたしたちの感覚ではどちらかというと「汚い」もの、使用済みとして出すには抵抗のあるものがアジアでは実用的価値のあるものとして重宝されているのです。その結果、彼らが必要としているものほど日本ではどうも出すのが恥ずかしいということで集まりにくいという結果になっています。繊維リサイクルの効率を高めるため、また海外の国々とのより良い共存共栄関係を築くためにも、わたしたち自身のパラダイム転換が必要になります。

2)中国の輸入規制

アジア市場は中国という世界第一位の人口を抱える圧倒的に大きな市場を内含しています。一見すると日本は中国の近隣に位置しまこと中古衣料にとって有利なように思われますが、この最も購買力のあると思われる中国が中古衣料に対し公正な理由のない輸入規制を敷いており、これは現在も続いています。この点が紙やプラスチックなど他の再生資源とは全く事情の違う故繊維特有の問題です。

3)カントリーリスクが大きい

中古衣料市場のほとんどは途上国であるため取引に不安定な要素が多いのも否めない事実です。衣類はかさばるわりに市場価格が下がりつづけているため、相手国や世界の経済変動の影響をまともに受けてしまいます。90年代後半はご存知の通りわが国においては史上空前の円高、東南・東アジアにおいては通貨危機があり、日本の輸出競争力が下がる一方で市場も経済破綻により縮小するという事態に陥ったのでした。

4)国際的な競争が激化

アジア通貨危機によりかつては日本の中古衣料の輸入国であった韓国や台湾が為替の上で優位に立ったことで、この頃から輸出国に転じ日本の競争相手となるようになりました。日本は人件費のみならず為替の上でも輸出競争力で劣勢に立たされることになったのです。

2.ウエス

すでにお話しましたように明治以来永らく故繊維業界の主力商品であったウエスの需要は、我が国の製造業の海外移転などにより80年代以降一貫して縮小の一途を辿りました。資源の再使用という点から見ればいかにも理に適った商品と思えるウエスなのですが、日本の工業の構造的変化、80年代以降機械工業の不振、ファクトリーオートメーション化、工場の海外移転など日本の工業そのものが構造的に変化し、国内におけるウエス需要の絶対量そのものが減少したのです。

1)代替品の登場

また90年代になるとISO14000シリーズなど環境問題への対応を名分とし大手メーカーがレンタルウエスや紙ウエスといった形でウエスの市場に参入してくるようになりました。長引く不況の中、大資本が中小・零細企業によって構成されたニッチ市場にも進出するようになったのです。 因みにISO14001、すなわち環境マネジメントシステム導入に際し工場ゼロエミッションの目標化ということでレンタルウエスなどの需要が伸びたことは、実際には使用後のウエス処分をアウトソーシングしているに過ぎなかったのですが、ウエス製造業者にとって大口ユーザーを失い、事業採算ベースにのらない事態に繋がったのです。

2)輸入原料の流入と国産原料の不能物化

85年のプラザ合意以降の円高とこれまで輸出先であったヨーロッパが環境意識の高まりにつれ自国回収を急速に進めたことで逆に輸出国に転じたことで、安価な輸入ウエス原料が流入するようになり、その結果国内におけるウエス原料の価格が低下することになりました。それにより従来ウエスとして活かされていた原料が供給過剰となり、結果としてその処理コスト負担が故繊維業者の上に重くのしかかることになったのです。

3.反毛

反毛は再使用の用をなさない繊維屑などを原料に戻し再商品化する、いわば「リサイクル」の代表格です。しかしこれらも90年代以降は量・価格共半分に下落してしまいました。その要因を見ていきます。

1)フェルト用途でのプラスチック系素材への代替

自動車業界を中心とする客先の品質要求アップにつれ、反毛原料主体のフェルトは次第に使用されなくなりました。自動車の遮音性、耐熱性という側面から見れば毛や綿の故繊維を使ったほうが機能的に優れていたのですが、デフレ経済下でコスト上の理由から新品のポリエステルなどに変化していきました。

2)作業用手袋分野における輸入の増加

故繊維を再生してつくる特殊紡績糸の最大用途である作業用手袋(軍手)は国内消費の約60%以上が海外の安価な輸入製品となり、反毛を原料とする国産品はそのシェアを失っていきました。

3)選別業者における反毛用途向け事業の採算割れ

反毛の生産地から遠い中国・四国以西はもとより、関東・関西地区の選別業者も反毛原料の価格低下により物流費さえまかないきれず、反毛用途向けが事業として成り立たなくなりました。その結果、各地で回収はしたものの不能物として処理せざるをえない反毛原料用途の故繊維が増加し、それらの処理負担が故繊維業者を圧迫することとなったのです。

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繊維リサイクルの歴史 【015】発生および回収段階での問題

2008年07月01日 | 繊維リサイクルの歴史
当時故繊維業界が直面した問題は、大きく二つに分けられます。一つは故繊維の供給が急増した問題。もう一つは供給の増加と同時に出口としての需要が減少したという問題です。通常の製造業における仕入と違い、故繊維業界では需要動向と無関係に供給が発生しますから、需要と供給が全く相反した動きを示したことにより、故繊維業界は突如として窮地に立たされることになったのです。

 では初めに供給面において具体的にどのような問題が発生したのかを見ていきましょう。

1.行政回収ルートの増加

 各種リサイクル法規が整備される流れの中、容器包装・古紙に次ぐ収集品目として、自治体が衣類を分別収集の対象とするケースが2001年頃このころから急激に増加するようになりました。ところが行政回収ルートの場合、市場メカニズムが機能しないため需要と関係なく供給が増加し需給バランスが崩れてしまいました。また分別収集の場合排出時の分別意識が低くなりがちで、回収物に不能物・汚れ物などの混入が多くなるなどの問題が発生しました。空き缶やビンと違い衣料は洗えば済むという物ではなく、濡れても汚れても使い物にならなくなってしまう性質があります。この点は「資源ごみ」という名が示すとおり、衣類を「ごみ」として扱う前提に今日でも改善すべき課題があるのですが、同じ再生資源の中でも特に繊維は上記のような独特の難しさを抱えており、より良い行政回収の仕組みを作っていくためにはこうした点について事前に慎重に検討していく必要があります。

2."リサイクル"を謳う一方的な回収の増加

 長引く不況やデフレの影響もあってか、このころから販売促進効果を狙った衣類の「下取りセール」などが目立つようになってきました。小売店による衣類の下取りそのものは悪いことではありませんが、回収した衣類がきちんとリサイクルされるか否かの根拠なく安易に販促や企業イメージ向上だけを狙った回収も決して少なくありませんでした。

第14回でお話しましたとおり、リサイクルシステムの構築とはこれまで「外部不経済」とされてきた廃棄の問題を経済システムの中に「内部化」する動きのことであり、そのためには内部化するコストをいかに配分するか、わかりやすく言えば各経済主体がリサイクル費用を応分に負担することどうすれば合意できるかが大きな問題となります。解決の一端としては、リサイクルを要請する側と引き受ける側双方が責任ある経済主体であり、回収した衣類を確実にリサイクルすることを保証できるサプライとリサイクルをつないだチェーンを構築する必要があるのです。

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繊維リサイクルの歴史 【014】供給過剰によるリサイクルバランスの崩壊

2008年06月30日 | 繊維リサイクルの歴史
90年代はリサイクルに対する関心がこれまでになく高まり、「循環型社会」形成に向けた法制度も次々に施行された時代でした。ところが「循環型社会」に最も適合するはずの故繊維を含む再生資源業界はなぜか世間の関心の高まりとは裏腹に未曾有の危機に直面しました。

その原因はぼろについて言えば繊維という素材が抱える独特の難しさもありましたが、より根本的な問題は従来型の産業構造と目指そうとする「循環型社会」とに大きなギャップがあり、そのギャップを埋めるための方策が不在であったことにありました。

ある社会システムが別のシステムに移行しようとするとき、移行にかかる費用(摩擦といってもいいかもしれません)が発生するのはある程度やむをえないことです。経済学の唱えるところでは、あるシステムから他のシステムへの移行は、移行費用が不可避であるとしても原則として市場の「見えざる手」によって社会的厚生を最大化する方向へ導かれるとされています。しかしながら循環型社会への移行とは従来の経済学でいう「外部不経済」を内部化する、すなわち伝統的な経済学が対象外としてきた新しいシステムを企図した動きであったため、市場メカニズムによる調整がうまく機能しない状態、すなわち「市場の失敗」を招く結果となったのです。 90年代後半から00年代初頭にかけて故繊維業界が直面した危機は、従来の景気循環による「不景気」といったものだけではなく「市場の失敗」が現出したある意味全く新しい形の危機であったといえます。

 当時直面した課題は今後循環型社会形成を促進していく上で克服していかなければならないいくつかの重要な問題を含んでいますので、次回からは当時直面した具体的な課題について少し詳しくお話していきたいと思います。

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繊維リサイクルの歴史 【013】ごみ問題の行き詰まり

2008年06月29日 | 繊維リサイクルの歴史
 71年のニクソンショック、それに続く73年のオイルショックにより日本の高度成長は終わりを告げ安定成長期に入りました。変動相場制移行に始まる日本の円高は85年のプラザ合意以降急速に進み、海外から安価な製品が流入するようになる一方、日本は世界一の物価高・人件費高の国になりました。その結果、ちり紙交換も一部の地域を除いて姿を消してしまいました。

 故繊維業界に目を向けると、ウエスや反毛の大口の需要先であった自動車業界などが積極的に海外移転を進めたことによりその需要が減少しました。中古衣料はアジアの経済発展により唯一順調に成長を続けますが、97年のアジア通貨危機、暴落した自国通貨ゆえにコスト面で相対的優位に立った韓国などの追い上げにより過当競争に陥り、価格が暴落してしまいました。

 高度経済成長のひずみによる公害問題などは60年代から出ていましたが、70年代に入り安定成長期になると発展の爪跡としての環境問題に関心が高まるようになりました。特に国土の狭い我が国では、大量生産・大量消費・大量廃棄の結果として、ごみ問題が深刻になりました。

 こうした中、今ではリサイクルという言葉が一般的にも定着しブームのようにもなっています。80年代までの故繊維業界では一貫して需要を満たすだけのぼろの供給がなく「いかに集めるか」が課題だったのですが、世間のリサイクルに対する関心の高まりと共に市民運動や行政回収が広がるようになると、ちょうど需要が減少していた折に供給だけが激増する、という業界としては前代未聞の現象が発生しました。これまで100年以上繊維リサイクルの歴史を担ってきた故繊維業界は皮肉なことにリサイクルに対する関心の高まりと反比例するかのように、供給過剰による危機的状況に陥ることとなったのです。

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繊維リサイクルの歴史 【012】中古衣料輸出のはじまり

2008年06月28日 | 繊維リサイクルの歴史
逆にわが国の衣生活がますます豊かになった結果として、まだ着られる衣服がぼろとして大量に回収されるようになりました。女性用の肌着やクリーニング店の袋に入ったままの背広、レースのカーテンなどですが、これらは残念ながらウエスにも反毛原料にもなりません。しかしこうした従来の概念で「ぼろ」とはいえない再使用可能な古着がやがて中古衣料として東南アジアに向けて出荷されるようになりました。

 こうした海外市場はウエスを扱っていたバイヤーによって開拓されました。昭和45年に開催された大阪万博の折に来日したインドのバイヤーが注目したという話もあります。そうしたルートにはそれまでアメリカの中古衣料が出回っていたのですが、日本人の方が体型が似ているので、次第に日本からの衣類が大量に出回るようになったのです。

 戦前も「青島貿易」といって中古呉服の輸出が行われていたのですが、これは満州など大陸在住の日本人に向けて現地では手に入りにくい着物を供給するのが目的で、戦後はなくなっていました。しかし、戦前とは違った形で再び中古衣料の輸出が故繊維業界の主力の一つとなっていったのです。

 高度経済成長を経て故繊維業界はその業態を大きく変えることになりました。またこの時期にウエス、反毛、中古衣料という今日の故繊維業界の三本柱が形成されたのです。

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繊維リサイクルの歴史 【011】繊維製品多様化への対応

2008年06月27日 | 繊維リサイクルの歴史
鉄や紙は回収して溶かせばまた素材に戻ります。経済が発展し産業界は設備の拡大を続けていましたから、ぼろと違いこれらの再生資源業界は値段が上がらなくても量を扱うことによって対処できました。

 しかし素材に戻すことのできないぼろの場合は事情が異なりました。その上、故繊維事情にも大きな変化が現れました。それは繊維の種類の急激な多様化です。

 戦前、回収されてくるぼろは綿か毛織物、それにせいぜい麻と絹でした。ところが戦後も昭和30年代以降になると、化学繊維や合成繊維が急速に出回り始め、数年の間をおいてぼろとして大量に回収されるようになりました。さらにナイロン混紡、アクリル混紡といった具合に、素材を組み合わせた毛織物も回収されてきます。それらは従来の100%毛織物と同じように扱うことはできなかったので、選別をする必要があります。選別作業は大変手間とコストがかかる仕事ですから、故繊維は単純に量を扱えば儲かるという話にはならなかったのです。

 前回お話しましたように、故繊維の主力であるウエスは家庭から綿ぼろを回収する必要があるわけですが、日本中の家庭から綿ぼろだけを選びだして回収するというわけにはいきません。結局「ぼろ」という名であらゆる多様化した素材のものを一括して回収し、選分しなければならず、綿以外の余った素材をどうするかが大きな問題となったのです。

 さて、故繊維業界において当時ウエスに次ぐ大きな需要は反毛でした。しかしこれも安価な繊維製品が市中に大量に出回るようになると、品質の均一なバージン原料が好まれるようになり、扱いが難しいぼろは使われなくなりました。したがって、その後反毛は特殊紡績といって、もっぱら軍手、モップ、カーペットなどの太糸として再生する用途が主流になりました。こうした消耗品にはまだぼろの需要があったのです。というのは、特殊紡績はウエスと違い工場から大量に出る繊維屑でも作ることができますので、その分市場価格が安く推移したからです。このほか、合成繊維も使用して作られた反毛は主な用途として車の内装材やフェルト、椅子やぬいぐるみの中入綿などに使われました。

注:反毛は用途によって使用できる素材の種類が異なります。

 このほか、故繊維の再生方法として溶解して使用する方法があります。最初にお話した通りそもそも故繊維業の起こりはぼろを溶解して製紙原料として使用することでした。その需要は木材パルプの普及とともになくなりましたが、工場で発生する純綿のぼろはその後も若干ではありますが絶縁紙の材料などに使用されました。一方、合成繊維などのぼろを溶解したものは、「ルーフィング」という建築のときにモルタルを塗る前に貼る防水シートやスレートタイルの補強材として使用されました。

 しかし再生資源として再利用できるかということと、そうして作った再生品で採算がとれるかということは、今日でもそうですが全く別の問題です。繊維製品は次第に安価な使い捨ての時代に入り、売れないぼろが増加するにつれ結局ごみにせざるをえないものが増えていきました。もちろん新たな用途を探る研究開発も行われましたが、うまくいきませんでした。

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繊維リサイクルの歴史 【010】「ちり紙交換」の登場と故繊維業界

2008年06月26日 | 繊維リサイクルの歴史
高度経済成長により日本人の暮らしは豊かになりました。所得が上がる一方、生産方式の合理化、技術革新、また海外から原料が安価に入手できるようになったことにより、もはや再生資源の値段が上がることはなく、業者としては価格の低下分を数量で補填するしかありませんでした。

 経済発展にともなって印刷会社や製缶工場の裁断屑、縫製工場の裁断屑、鉄工所の金属屑などが大量に発生するようになりました。また流通業ではそれまでの木箱がダンボールに変わり、その屑がスーパーなどから大量に発生するようになりました。買出人や収集人が減り、屑物の集まらなくなった建場(業者がその日に集めた廃品を買取る問屋のことです)にとって、唯一の生き残りの道がこうした資源の回収を担う坪上業者になることでした。しかし高度成長で人件費が上がり、従来のような集めた種々の廃品を選分するというような手間のかかる作業はもはやできなくなりました。こうして現在のように、古紙だけ、鉄屑だけ、というような回収の専門化が進んでいったのです。

 鉄やガラスなどは工場発生の屑が大量にあり、またバージン原料も安くなったために、家庭から出る空き缶や割れた瓶など誰も回収しようとはしなくなりました。逆に古紙業界は家庭から大量の新聞・雑誌が発生することに目をつけ、昭和39年に「ちり紙交換」を始めます。この「ちり紙交換」は昭和40年には全国に広がり、今でも一部の地域では実施されています。

 こうした伝統的回収システム崩壊の流れの中で最も打撃を受けたのは、他でもない、ぼろを扱う故繊維業界でした。というのは、故繊維の主力をなすウエスは洗いざらしの布でなければ良質のウエスにならなかったため、他の再生資源のように縫製工場の裁断屑が大量に回収というわけにはいかなかったからです。しかも家庭から発生するぼろは古紙に比べればきわめて少量であるため、独自に回収車を出しては回収コストが合いませんでした。そんな中登場した「ちり紙交換」は、故繊維業界にとって「渡りに舟」だったのです。

注:メーカーのように均質で数量のまとまった廃品がでるところを「坪」といい、この坪から回収を行なう業者を坪上(つぼあげ)といいました。

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繊維リサイクルの歴史 【009】伝統的回収システムの崩壊

2008年06月25日 | 繊維リサイクルの歴史
昭和29年の秋、東京や大阪の一部の学校で廃品の「学校回収」が行われました。今日行われている「集団回収」と似ていますが、これは児童に家庭から古新聞や古雑誌、ぼろ、空き瓶、鉄くずなどを持ってきてもらい、それを売却して学校の諸経費に当てようというものでした。

 今日ならば学校の集団回収に文句をいう人はいないでしょうが、当時この運動は買出人や建場(収集人から再生資源を集荷する業者)関係者の反発を招きました。このころはまだ都内だけで買出人と収集人合わせて二万人近い人が屑物を集めて生活していましたから、それなりに抵抗があったのです。しかしこのような今からではちょっと考えにくい問題も、やがて物が豊富に出回る時代になると自然に消滅していきます。日本は歴史を通じて常に物の足りない時代であったのですが、高度経済成長を遂げたことにより初めて「物が余る」という時代に突入したのです。

 物余りの時代になったことにより、「くず屋」と呼ばれた資源回収業者は資源を回収しても生活できないという事態に直面するようになりました。東京都内のデータによると、わが国の経済発展とは裏腹に屑物の買出人や収集人の数は昭和27年をピークに減少の一途をたどっています。商売として成り立たなくなったこと、後継者がいなかったことなどが原因と考えられています。こうした動きに昭和39年に開催された東京オリンピックが拍車をかけました。この年、都内だけで収集人が一度に2000人も減少しました。その理由は、東京オリンピックを控え都内からゴミ箱が一斉に撤去されたためです。

 東京都のごみ収集は当時、「厨芥」と「雑芥」の二分別で行われていました。「厨芥」とは台所の生ごみのことで、「手車」という大八車に木枠を取り付けたような車が回収しました。「雑芥」は紙屑や木屑、ぼろ、空き缶、ガラスなど、生ごみ以外のごみを言います。これは家の外の道端に設置したゴミ箱に捨てました。これを荷車やトラックに積んで回収していたのです。お金を払って資源を回収する買出人に対して、道端からごみを拾い集める業者を「ばた屋」とか「拾い屋」と言いました。彼らにとって文字通り道端のゴミ箱が大切な生活源だったのですが、これが東京オリンピックで景観を損なうという理由から一斉に撤去されてしまったことにより、大勢の収集人が廃業に追い込まれたのでした。いずれにしても物が余るようになりつつあった時代ですから、遅かれ早かれ商売替えせざるを得なかったのかもしれません。

 東京オリンピックを機にゴミ箱が一斉撤去されたことにより、ゴミ収集は今日行われている「ステーション方式」に変わります。これは業者が回収にくるのを待たなくても良いので住民には当初から好評でした。しかしこうしたごみ収集の近代化が、一方では何でも気軽に捨てるという習慣を助長した一因になったのかもしれません。

 いずれにせよ時代の流れとはいえ、江戸時代から続いた町のくず屋さんという生業はこうして衰退してゆき、屑物が建場に集まり、選分され、問屋を通して工場に送られるという伝統的な資源回収システムは昭和30年から40年の初めごろにほとんど崩壊してしまったのです。

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