9月13日、mass×mass関内フューチャーセンターにおいて、第87回YMS(ヨコハマ・マネージャーズ・セミナー)を開催しました。
今回は「『横濱市民酒場』とはなにか?」と題し、星羊社の星山健太郎様 成田希様に横浜にしかないレトロ酒場「市民酒場」の歴史とその楽しみ方についてお話しいただきました。
セミナー開始にあたり、惜しくも2015年に閉店してしまった野毛の市民酒場「武蔵屋」で供されていた「櫻正宗」が振る舞われました。
そも「市民酒場」とは何か?そのルーツは、今からおよそ90年前の昭和13年(1938年)まで遡るそうです。僕の生家であり、現在は弊社の事業本部となっている南区新川町から歩いて500mほど、中村橋近くに今も残る、ふぐとすっぽんで有名な「忠勇」の店主永島四郎氏によって創設された「横浜市民酒場組合」が始まりです。
前年の昭和12年(1937年)に盧溝橋事件が発生すると、そこから戦局は日支事変に拡大。次第に食糧事情が厳しくなっていった時代でした。その様な情勢の中、飲食業のつながりと団結が必要と考え作られたのが横浜市民酒場組合。やがて、酒も統制される時代に入り昭和19年(1944年)に東京で国民酒場制度が始まると、全国に「国民酒場」や「勤労酒場」と呼ばれる配給組合が設立され、横浜市民酒場組合もその配給組合の一つとし活動していくことになります。戦後、全国の配給組合はその役割を終え消滅していきましたが、横浜市民酒場組合は元々民間組合だったことから、そのまま存続しました。このような経緯で、横浜には唯一「市民酒場」と呼ばれる居酒屋が今も数十軒残っているそうです。
星羊社さんから出版されている「横濱市民酒場グルリと」には、現存する(前述の武蔵屋のみ廃業)横浜市民酒場18店舗が紹介されています。貴重な昔の写真や当時を知る人たちの様々なエピソードなども盛りだくさんですので、ぜひご一読ください。
<同書に掲載されている店舗所在地>(地図をクリックすると拡大します)
そもそも星羊社さんは、この横浜市民酒場を取材し紹介する地域に根差した出版社として設立された星山さんと成田さんの会社です。お二人は元々出版とは無関係の業界を志望しており、野毛や都橋など横浜の下町に集まる居酒屋に通うごく普通のお客さんだったそうです。その下町の雰囲気に刺激を受けていたある時、戸部の「常盤木」というお店で「横浜市民酒場」について知ることになります。そこから市民酒場について取材を重ねていくうちに酒場を通じた横浜の歴史を世に伝えるべく、2013年に星羊社を設立しました。会社の所在地も、大正14年(1926年)に関東大震災の復興助成で建てられた伊勢佐木ビルディング(通称イセビル)という由緒ある建物の中にあります。
2009年に京阪神エルマガジン社より、「横浜本」という開港150周年に合わせた下町グルメを詳しく紹介する本が出版されました。大変優れた本だったそうですが、残念なことに出したのは大阪の出版社。やはり地元から地域の情報を発信すべく、先の市民酒場を話題の軸に2015年、手作り感あふれる「はま太郎」第1号が創刊されました。
はま太郎 13号―横濱で呑みたい人の読む肴 | |
クリエーター情報なし | |
星羊社 |
1冊60ページ前後の本を企画から納品までお二人だけで手掛け、居酒屋でつながった様々なご縁などもありながら、第10号を区切りに新聞などにも取り上げられるようになりました。そうして出されたのが先にご紹介した「横濱市民酒場グルリと」です。
横濱市民酒場グルリと―はま太郎の横濱下町散策バイブル | |
クリエーター情報なし | |
星羊社 |
「酒場」をキーワードとして広がるお話は、あまり語られることのない下町の歴史、まさに横浜の商人と労働者の歴史でした。そして僕にとっては7歳まで生まれ育った故郷(会社もここにあります)の歴史でもあります。
例えば横浜の下町には前述の「忠勇」を始め、今でも「ふぐ」を供するお店が数多くあります。忠勇さんのお話によれば、お店の前を流れる掘割川という運河から船を出すと本牧沖では正才ふぐやうなぎが沢山獲れたそうです。今や高級魚のふぐですが、当時とらふぐより安い正才ふぐは庶民に親しまれた安価な魚だったそうです。今は埋め立てが進み、ちょっとイメージがしにくいですが、当時は掘割川から2㎞ほど下ると八幡橋の向こうはもう海でした(下の地図をクリックすると拡大します)。
忠勇からほど近い、睦橋の袂には、今でもうなぎで有名な川魚問屋「江戸家」があります。ここは大岡川の支流である中村川と掘割川がちょうど合流する所にあります。弊社の創業地である伊勢佐木町7丁目に「愛知屋」という有名なかに屋があるのですが、そこは獲れすぎたワタリガニを運んで川を上がってくる舟からカニを買い付けたのが始まりだそうです。今は埋め立てられていますが、当時、掘割川は中村川と交差し、新吉田川(現在の大通公園)、新富士見川となって、大岡川につながっていました。因みに近くには永真遊郭街(1958年廃止)がありましたから、当然飲食店も集まる立地だったわけです。
町は今やその面影すらありません。しかし、市民酒場の中には豊かな漁場だった海と、川と運河による水運で栄えた、かつての横浜の下町文化が今も息づいています。そんな消えつつある歴史と文化を伝えるべく、コンセプトとターゲットを極限に絞り、人の縁によって活動を続ける星羊社さんには、何かYMSと相通ずるものを感じました。それと共に、物事を突き詰めることの大切さを改めて学んだ気がします。
最後に、お二人から締めくくりにいただいたこの言葉を。
「酒場には人の素顔が出る、良き酒場に良き客あり」
過去のセミナーレポートはこちら。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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