3月10日、
mass×mass関内フューチャーセンターにて、第124回YMS(
ヨコハマ・マネージャーズ・セミナー)を開催しました。緊急事態宣言延長に伴い、今回も懇親会は中止となりました。
「50歳の時に、100歳まで生きると決めた」
失礼を承知で言えば、一般的には変わった方に分類されるのでしょう。東京大学から銀行、警備会社へと長いサラリーマン人生を送られ、60歳で早期退職。そして落語の道へ。しかし、ご本人にとっては至って当たり前、特別なことをしているつもりはないようにお見受けしました。僕も似たようなところがありますが、平素から「80歳まで生きられそうにない」と思っていたので、これでは本当にそのようにしかならないのではないかとお話を伺って思いました。
前置きが長くなりましたが、第124回YMSの講師は、豆生田信一様。「サラリーマンから落語家へ?〜60歳の心機一転」と題してお話しいただきました。
「三つ子の魂百まで」といいますが、子供の頃のお話を伺うと、やはりなるべくして今のお姿があるのだなと感じます。豆生田さんは、幼少期から人を楽しませることがお好きで、良く大人の前で子供落語を披露するなどされていたそうです。高校1年生の時にはNHKののど自慢に出場し予選を通過したそうですが、それもただ出るのではなく、友人と「どうすればNHKの目に留まるか?」を考えたのだそうです。そこで思いついたのが、「NHKが好きな(つまりよく出演する)タレントの歌を歌う」こと。とはいえ、誰でも知っている大物では目立ちませんから、無名タレントの歌を歌い、目論見通り注目を引いたのだそうです。実はその無名タレント、後のキャンディーズだったというオチ。目の付け所がやはり、その後の人生に影響を与えているのではないかと思いました。これは我々すべてに当てはまることなのかもしれません。
そんな調子ですから、サラリーマン時代も基本的に自由人。お堅いイメージのある銀行に20年在籍した自由人の姿を想像するのは難しいですが、やはり上司の性格により向き不向きが大きかったようで。これは何となく分かる気がします。
銀行、警備会社と経て、60歳で早期退職。100歳まで生きると決めた場合、50歳で既に折り返し地点に入っていること、年齢による体力の衰え等を考慮すれば、60歳から65歳までの5年というのは貴重な5年であることなどを考えての決断だったそうです。もちろん、家族の了解を得てのこと。
50歳からは、バイオリン、読書、演劇、殺陣、MBAの経験を活かした勉強会など様々なことに取り組まれます。一見無節操なように見えるのですが、恐らくご本人の中ではちゃんと一貫性があってのことではないかと想像します。僕も33歳の時から「いつかやろう」と思っていたことの「いつか」を消すという方針で様々なことに取り組みましたが、続いているもの、続かなかったものはあるにせよ、不思議と先ほどの「三つ子の魂」にだんだん焦点が合ってきているように感じています。
豆生田さんが本格的に落語の道に入るようになったきっかけは、仕事でバンコクに赴任していた時、現地の日本人劇団に参加したことだったそうです。演劇を通じて子供の頃からやりたかったのは落語だったのではないかと気づき、2016年、三代目三遊亭遊三師匠に入門。豆生田さんをご紹介いただいたのは、2019年7月なので、それからわずか3年後のことです。
豆生田さん曰く、落語の魅力は一人でできること、すぐにフィードバックが得られること、笑いは人の役に立つと思えること、定年がないこと。体調管理やスケジュール管理など自己責任は重くなりますが、「自分で決められる」というのが自由人にとって何よりなのだと思います。そしてサラリーマン時代に築いた人間関係、知り合いを大事に思えるようになったこと、主婦業の凄さを身をもって知るようになったとのこと。
落語の世界は基本的に供給過剰。恐らくプロの噺家さんでも落語だけで食べていけるのはほんの一握りだろうということです。そういう世界で落語家としてどのようにポジショニングしていくか?豆生田さんのコンセプトは、「落語界の回転寿司を目指す」というもの。即ち、どこに問い合わせればよいのか、誰にすればよいのか、費用はどれ位かかるのかと言った具合に、何かと敷居が高いイメージのある世界にあって、分かりやすい、気楽、すそ野を広げられる活動をしていくということです。こういった点は、やはり元ビジネスマンの視点だと思いますが、それ実現するための細かい気配りもビジネスの世界では当たり前のことであって、豆生田さんの培ってきた経験が独自性を生み出しているようです。つぶさに目を向ければ、我々には必ず培ってきた独自性があるはずであり、こうした視点は参考になるのではないかと思います。「誰もが講師」を標榜して11年やってきたYMSとも通じるものを感じました。
さらにオリジナルとして「あなたのための創作落語」というのがあり、企業の社史などを落語にすることを得意としているそうです。ここにもビジネスマンとしての長い経験が生きていますね。社史だけでなく、同窓会、故人を偲ぶ落語、披露宴、地域の歴史、英語落語など、豆生田さんの人生のストックが有機的に結びつき、紡ぎ出される落語の応用範囲は実に幅広いです。逆に、その応用範囲の広さも落語の魅力とも言えるのかもしれません。
2021年1月21日付日本経済新聞:「
企業の歴史 唯一無二の落語に-会社員経験を生かしオーダーメード 笑わせるだけでなく発展を後押し」
実際、横浜の開港時、横浜と東海道を結ぶ「横浜道」の普請を請け負った軽部清兵衛の歴史落語を披露していただきました。なるほど、落語もこんな応用の仕方があるのだなと思いました。面白く学べる、これは興味深いやり方です。
最後に、ご多分に漏れず、豆生田さんの落語も新型コロナの打撃をまともに受けているそうですが、その様な中でも普及したオンライン・ミーティングツールを利用し、ギニアやメキシコなど海外にも日本文化としての落語を伝える、収録型の落語を配信するなどの工夫をされているそうです。
「自分の中にある知見、経験を活かして、何かを作り上げる」
今回のお話からの学びを一言で表すとするならば、これかと思います。だからこそ、人生は素晴らしい。歳を重ねることはむしろワクワクすることなのだと教わった気がいたします。
過去のセミナーレポートはこちら。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした