窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

ジャパンラグビートップリーグ2011 プレーオフ決勝戦

2012年02月27日 | スポーツ観戦記


  2012年2月26日、北風の吹く薄曇の寒い日でしたが、ジャパンラグビートップリーグのプレーオフ決勝戦、パナソニックvsサントリーの一戦を観に行ってきました。昨年と同一チームによる決勝戦です。昨年には及びませんでしたが、1万人を超える観衆が秩父宮ラグビー場に詰め掛けました。



  リーグ戦総得点512点という、圧倒的な攻撃力を誇るサントリーと、今シーズンはけが人が多く影を潜めましたが、準決勝の東芝戦で持ち味の堅いディフェンスが復活したパナソニック。いわば最強の矛と盾の対決とも言うべき一戦が期待されました。



  序盤は予想通り、スピードあるサントリーの猛攻。2つのペナルティーゴールでリードしますが、中盤はややスローダウンし19分に準決勝でも大活躍したフーリー選手が両チーム最初のトライを決めると、流れがパナソニックに傾き、田邊選手とデラーニ選手による2つのペナルティーゴールで一時はパナソニックが13vs6とリードします。フーリー選手はボールのあるところではなく、ボールが行くところに働きかけられる選手で、彼のポジショニングに注目していると非常に面白いです。



  しかし、32分にデュプレア選手、36分にこの日3トライを挙げたスミス選手にトライを決められ、それぞれゴールキックも決まり、前半を20vs13、サントリーリードで折り返します。



  後半に入ると、終始サントリーペース。サントリーディフェンスの出足が非常に良く、パナソニックはなかなか攻撃のきっかけを作れないように見受けられました。サントリーのトゥシ・ピシ選手の突破も光りましたが、パナソニックは一瞬の隙を突かれ、20分、24分といずれもスミス選手にトライを決められ、点差を広げられます。



  30分、フーリー選手がインターセプトから約80mを走りきった独走トライで37vs21と追い上げますが、



  直後の36分にニコラス選手にトライを決められ、万事休す。キックの精度にムラがあるニコラス選手ですが、今回はキックも安定感抜群でした。

 

  ホーンが鳴った後のラストプレーでシオネ選手が意地のトライを返しましたが、結果はサントリー47vsパナソニック28。終始サントリーの強いプレッシャーがパナソニックを圧倒した感じでした。



  リーグ戦1位のサントリーは、昨年の雪辱と共に、4年振りのトップリーグ・チャンピオン。既に始まっている日本選手権で連覇を目指します。

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経験経済研究会でお話しさせていただきました

2012年02月18日 | リサイクル軍手の世界


  2012年2月17日、日頃お世話になっている「経験経済研究会」にて、「特殊紡績手袋よみがえり」のお話をさせていただきました。

  内容としては、以前淑徳大学でお話しさせていただいた事に、その後の展開を追加したものです。以前もお話ししましたが、「特殊紡績手袋よみがえり」の誕生には、『新訳 経験経済』の翻訳者でもいらっしゃる、東京富士大学の岡本慶一先生がらご教授いただいた学びが大変密接に関わっています。



  僕は特に何といった専門知識があるわけではありませんので、実際の仕事で起こったエビソードをお話しするしかなかったのですが、なかなか一般に馴染みのない世界であるだけに、きちんとお伝えすることができていたかどうか...



  それでも、今回ご出席いただいた皆様からは、「特殊紡績手袋よみがえり」を含むリサイクルの経験を深めるための様々なアイデアをいただくことができ、むしろお話しした僕の方が沢山のお土産をいただいたのではないかと思います。本当にありがとうございました。

  最後に、お話しさせていただいた中で登場した、「特殊紡績手袋よみがえり」の動画を2つほどご紹介させていただきたいと思います。

横浜市HPからの動画配信
「特殊紡績手袋よみがぁ~る」製造工程

[新訳]経験経済
B・J・パインII,J・H・ギルモア
ダイヤモンド社


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よみがえりマリアージュ探訪

2012年02月13日 | リサイクル軍手の世界


  おかげさまで「よみがえりマリアージュ」はその後広がりを見せています。2011年6月時点では横浜中華街の「横浜大世界」さんのみでの販売でしたが、横浜土産として、その後いくつかの店舗でもお求めいただけるようになりましたので、ご紹介したいと思います。



  まず山下公園にあるハッピーローソンさん。

Happy Lawson 山下公園店

神奈川県横浜市中区山下町279





  つづいて、ホテルモントレ横浜さん。

ホテルモントレ横浜

横浜市中区山下町6-1





  みなさまの日頃のご愛顧、心より御礼申し上げます。引き続き、「よみがえりマリアージュ」をよろしくお願いいたします。

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味処 なか野5-中洲に移転しました

2012年02月12日 | 食べ歩きデータベース


  中洲2丁目に移転後、初めての「味処 なか野」さんにお邪魔してきました。それに伴い、僕も宿泊するホテルを変えました。



  場所は変わっても、なか野さんは変わらず。到着するなり見せていただいたのが、重さ1.5kgのアオリイカ(福岡ではミズイカというのだそうです)。携帯電話と大きさを比べてみましたが、剣先イカに見慣れた僕にとっては、イカというよりエイリアン。もちろん、このあといただきましたが、とても食べ切れませんでした。



  博多の郷土料理、胡麻鯖。そのまま食べて良し、ご飯にのせて良し、お茶漬けにして良し。僕の大好物です。



  焼き牡蠣。牡蠣もそろそろシーズン終盤、今年は例年に比べあまり食べなかった気がします。



  「なか野」さんの自家製からすみ。塩が控えめで滑らか、とても食べやすく焼酎のお供にお勧めの一品です。なお、自家製の辛子明太子もあります。



  冬場はおでんも始められたそうです。



  お腹一杯なので、クエ(アラ)を少しだけ。弾力と旨みがあり、いずれ本格的に食べてみたいです。


過去の「味処 なか野」さん関連の記事はこちら。

味処 なか野1
味処 なか野2
味処 なか野3
味処 なか野4

味処 なか野

博多区中洲2丁目6-23 コウフクビル2階



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第18回YMSを開催しました

2012年02月11日 | YMS情報


  去る2012年2月8日、第18回YMSを開催しました。

  今回は『女性の起業の理想と現実-人生を無駄にしない起業のはなし』と題し、阪口社会保険労務士事務所の阪口明子先生にお越しいただきました。阪口先生には、これまでもYMSの交流会にお越しいただいています。


 「女性の起業」とはなっていますが、女性や起業家ばかりでなく、全てのビジネスパーソンにとって大切と思われるポイントがたくさんあったと思います。具体的な事例も盛りだくさんで、時間の過ぎるのも忘れ、お話に引き込まれていた気がします。物静かな語り口の下にパワフルなエネルギーを感じました。



  阪口先生は数年の会社勤務後、専業主婦を経て社会保険労務士として開業。当初、合同社労士事務所で経験を積まれる中で、直接社労士業務と関係のない仕事にも関わっていくうち、「女性起業家支援」という業務の柱を形成されました。

  先生ご自身が起業されるまでのエピソードも相当面白かったのですが、多くの企業相談に携わった結果、抽出された起業時のリスクについては、意外と多くの方が事業プランや資金繰りの計画なく、自分の自由になる時間という幻想の下に起業されているのだということに驚きました。

  さらに、独立とはその名の通り自らの足で立つということですが、そのために自分自身に全責任を負うこと、自分ではあまり意識していない一挙手一投足にまで気を使うこと、ある程度のリスクは負った上で決断することの大切さなど、起業家に限らず普遍的に大切で、かつ見落とされがちなポイントについてお話いただきました。

  興味深かったのは、共同経営を巡るトラブルの数々です。「本当にこんなことがあるのか」という、ウソのような本当のお話。しかし、考えてみれば恋人とずっと一緒に暮らす夫婦が同じでないのと一緒ですね。互いに甘えが許される状況と、リアルに現実を生きなければいけない状況とでは根本的に異なるわけで、こういう点もビジネスプランと同じくらいシビアに考えなければ、思わぬところで躓くばかりか、友情にまでひびが入ることになります。

  最後は、女性起業家として注意しなければいけないポイントについて。しかし、心得として男性が聞いておいても決して損はない内容でした。



  そして最後はいつもの通り。楽しく、真面目に、有意義に。

  次回、第19回YMSは3月14日です。

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御所ヶ谷神籠石の謎④

2012年02月10日 | 史跡めぐり
  ではなぜ『日本書紀』において、天武天皇は天智天皇の弟とされているのでしょうか?これまでの仮説が正しければ当然のことで、その必要があった、『日本書紀』の編纂を命じた天武天皇には、新興勢力である自らの王権の正当性を訴える必要があったからです。

  そもそも『日本書紀』に中大兄皇子、中臣鎌足と記されているのも変です。「那珂(博多周辺)の偉大な兄であるところの皇子」、「那珂の臣である鎌足」、いずれも元から九州にいたかのような名前です。ひょっとしたら、白村江の戦いの際、ヤマト王権の軍勢は最初、那津宮家(現在の博多付近)に入っていますから、彼らを迎えた大海人皇子が敬意を表する意味で「那珂(つまり、大海人皇子の国)の偉大な兄である皇子」および「その皇子の臣である鎌足」と呼んだことはあったかもしれません。だとすれば、それを『日本書紀』編纂の際、意図的に利用したのではないでしょうか?

  しかし、『日本書紀』の成立は720年ですから、50年前後経過しているとはいえ、まだ過去の事実を記憶している者も大勢いたはずです。それなのに、歴史をかくも簡単に歪めることが可能なのでしょうか?僕は可能だと思います。我々が認識している近現代史でさえ、相当に混乱しているのですから。

  天武系の王朝に自らの正当性を誇示する必要があったのだと考えてみると、天武系の天皇が続いた時代に起きたことが、なぜかくも日本史の中で異様であったのかが分かるような気がします。例えば、この時代にしかない四文字の年号(749年~770年)や官名を唐風に改める唐風政策。これには開元の治で絶頂にあった唐を後ろ盾にしようという意図が見えますし、長屋王や恵美押勝といった、皇族や有力豪族による相次ぐ権力闘争は、律令国家を確立し、急速な中央集権化を進めていた割には権力基盤が不安定だったことを示しています。

  さらに聖武天皇の発願による盧舎那仏(東大寺の大仏)は、当初紫香楽宮(滋賀県甲賀郡)に造営される予定でした。これは紫香楽宮という聖武天皇の離宮があったからですが、なぜわざわざ離宮の地を選んだのでしょうか?聖武天皇の遷都理由については、疫病その他諸説ありますが、個人的に想像して、当時近江はまだ天智系の勢力が強かったから、と考えては飛躍のしすぎでしょうか。以前「瞻星台」や「クトゥブ・ミナール」で述べた通り、新興の王権が自らの権威を誇示するため、支配地域に大寺院を建立するということはどこでも見られることです。まして盧舎那仏は莫大な労力と共に、大量の金・銅・錫などの使用を伴うものです。つい40年ほど前まで「金が出た」、「銅が出た」と喜んで改元していた位ですから、唐の権威に加えて、恐らくヤマトよりかなり以前から仏教を摂取していたと思われる九州王権系の文明を、莫大な財力を使って誇示する効果は、対外的にも対内的にも絶大であったことでしょう。しかし、紫香楽宮での造営は相次ぐ不審火などから中止され、結局平城京で開眼することになります。この不審火とは、恐らく天武系に反発する勢力によるテロであったかもしれません。

  なお、天武系の天皇は称徳天皇を最後に途絶え、その後は天智系の光仁天皇が復活、続く桓武天皇の794年に平安京へ遷都します。遷都の理由は平城京の仏教勢力の影響を嫌ったという説が定説ですが、桓武天皇にとって仏教勢力とはすなわち天武系の勢力であり、平安京は天智系皇統復活の象徴という意味もあったのではないでしょうか(藤原氏の話はややこしくなるので、ここでは考慮しないことにします)。

  以上、御所ヶ谷神籠石を見物し、古代妄想を巡らせてみました。

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御所ヶ谷神籠石の謎③

2012年02月09日 | 史跡めぐり


  さて、依然として疑問なのは、なぜ御所ヶ谷神籠石があの場所にあったのかという事です。まず、海からの来襲に対する備えとしては不合理な位置にあるということは前述しました。上の写真は中門から少し東門の方に上ったところから京都(みやこ)平野を見下ろした景色ですが、ここにかつて官道が通っていたということなので、その防備のためということもあるかもしれません。しかし、地形を見る限り(下写真)、ここがそれほどの要衝であるとも思えません。



  時間の都合で行けませんでしたが、御所ヶ谷神籠石の西に採銅所という地名があります。その名の通り、かつてここでは銅を産出したそうです。記録によると、養老4年(720年)、宇佐神宮の放生会に奉納する御神鏡をここで採れた銅で鋳造したそうです。しかし、恐らく銅そのものはそれより以前から産出していたのではないかと思われます。金・銀・銅・鉄は古代において経済的も軍事的にも極めて重要な戦略物資です。ひょっとすると御所ヶ谷神籠石とは、銅山の防衛を目的としていたのかもしれません。

  ここでまた仮説を立てます。養老4年というのは元正天皇の治世です。元正天皇は天武天皇の息子である草壁皇子と天智天皇の娘、元明天皇の娘です。この年、国史『日本書紀』が完成しています。701年、対馬より金が献上され、それによって元号が大宝と改められました。この時の天皇は文武天皇でやはり草壁皇子の長子です。いずれも天武天皇の系譜になる天皇の治世に対馬からは金が献上され、宇佐神宮奉納のために銅鏡が鋳造されています。

  ここでふと思ったのが、「天智天皇と天武天皇は兄弟ではないのではないか」という説です。一説には天武天皇は天智天皇より年上だったという話もあります。ひょっとして、大海人皇子(天武天皇)は元々九州王権の王族だったのではないでしょうか。唐側の記録によれば、倭国の王の姓は阿毎(あま)氏といったのだそうです。即ち、大海人皇子とは「大いなる阿毎氏の皇子」であることを暗示しているのではないでしょうか。もちろん「阿毎」は唐側の当て字ですので、日本語での意味としては海人(あまと)となります。一方、「やまと」は「山人」かもしれません。もちろん、これは勝手な想像で鵜s。

  白村江の戦いの後、大海人皇子は中大兄皇子のヤマト王権に臣従することになったのだと思います。しかし臣従とはいっても、それは豊臣政権時代の豊臣秀吉と徳川家康の関係と同じで、ヤマト王権にとり九州王権の勢力は依然として侮りがたいものであったと思われます。そうでなければ、なぜ中大兄皇子が4人もの娘を(弟であるはずのところの)大海人皇子に嫁がせたのか説明がつきません。一方、大海人皇子も娘を一人、中大兄皇子に嫁がせています。明らかな政略結婚です。そして天智天皇の死後、壬申の乱(672年)という古代史最大の内乱に勝利し、大海人皇子は天武天皇として即位します。その後、天武天皇の妃である持統天皇と、先ほどの元明天皇(いずれも女帝)を除けば、称徳天皇(孝謙天皇重祚)まで皇統はずっと天武天皇の系譜が続くことになります。

  そのように考えると、708年に武蔵国より銅が献上された時、なぜ和銅と改元されたのかが分かります。この時の天皇は天智系の元明天皇(女帝)です。これまでの仮説によれば、朝廷に献上された金や銅は、決して初めてではなかったはずです。しかし、それらはいずれも九州王権、つまり天武系の勢力圏からもたらされたものであり、ヤマト王権にとって、つまり天智系の元明天皇にとって、武蔵国というヤマト王権の勢力圏から初めて銅が献上されたということが、改元に値する大変な慶事だったのだと思います。

  なお、元明天皇の治世、710年に平城京遷都、712年に『古事記』が完成しています。漢文・編年体で書かれた唐風の史書『日本書紀』は天武系の王朝の視点で編まれたものでした。一方、『古事記』がやまと詞に漢字をあて、よく知られているように稗田阿礼の口伝を記したものででした。これは天智系の元明天皇が、『日本書紀』に対抗するため、従来口伝が主流だったヤマト王権の歴史を記録にとどめさせたかったからではないかと想像します。

<つづく>

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御所ヶ谷神籠石の謎②

2012年02月08日 | 史跡めぐり


  また、御所ヶ谷神籠石の石垣は花崗岩を成形して造られています。北九州一帯は花崗岩の産地であり、僕がこの御所ヶ岳を歩いた時も、上の写真のような巨石がごろごろしていましたから、確かに石の調達には便利な場所だったかもしれません。しかし、花崗岩は固く、決して成形しやすい石とはいえません。すなわち、そこには高度な技術力があったということになります。

  後に掲載する航空写真をご覧いただくとお分かり頂けると思うのですが、御所ヶ谷神籠石は周防灘から10kmほど内陸にあります。もし外敵からの防御を目的としていたなら、関門海峡側に築城するはずではないでしょうか。にもかかわらず。九州を除く日本海側にこうした山城が一切ないというのも腑に落ちません。



  以上のことを踏まえますと、白村江の敗戦後、急ピッチで造成した城にしては、この石垣の完成度が高すぎるのではないかと思うのです。上の写真は、現地の案内板にあった「西日本の古代山城分布図」に僕が少し加筆したものですが、博多湾より少し内陸に入った、赤い三角印が3つ固まった辺りが大野城になります(写真をクリックすると拡大します)。もし外敵からの防衛のため、御所ヶ谷神籠石が大野城と同時期に築城されたのであれば、地理的には大野城の方がはるかに重要な位置にあります。実際、大野城は水城に隣接し、大宰府を守るための重要な城でした。普通であれば、大野城の方により技術的な力を注ぎそうなものです。

  さらに不思議なのは、これほどの規模の城がどの文献にも登場していないということです。『日本書紀』や『続日本紀』には未だに存在さえ確認されていない城の名前が登場しています。史書に全ての城の名前を記載するとは限りませんが、記載するなら代表的、あるいは重要な城を挙げるはずです。ではなぜこれほど高度な技術を以て築かれた御所ヶ谷神籠石は記載がないのでしょうか?僕が思うには、既にこの城が存在していたからではないでしょうか。既に存在していた城であれば、わざわざ白村江の戦いの後に築いたことを改めて述べる必要がないからです。



  正確な年代測定を行わなければ分かりませんが、仮説として上の分布図で、緑の△印、つまり文献に記載されていない古代山城は、白村江の戦いの後になって築かれた赤い△印の城よりも前から存在していたとします。

  そこで、白村江の戦いの後に築かれた赤い△印の城を削除してみました。それが上の図です(写真をクリックすると拡大します)。話がややこしくなりますので、九州のみに限定し、改めて地図を眺めてみると何が浮かび上がるでしょう?これらの城は大陸からの侵攻に対してというより、むしろ南九州や四国・中国地方といった東部からの侵攻に対し、北九州を守るために配置されているように見えるのです。反対に、朝鮮半島に接している対馬海峡側はがら空きです。

  つまり、このことは、7世紀末頃まで北九州には畿内を中心とするヤマト王権とは別の、独立した王権が存在したということを意味するのではないでしょうか。その王権は朝鮮半島のとりわけ百済と深いつながりを持ち、ヤマト王権より高い技術力を誇っていたと思われます。

  この王権を仮に九州王権と呼ぶとすると、527年の磐井の乱は、ヤマト王権と九州王権による大規模な争いと考えることができます。結果、九州王権は敗れたものの、なお独立した地位を維持し続けました。恐らく御所ヶ谷神籠石をはじめとするこれらの山城は敗戦から立ち直った6世紀後半から白村江の戦い前の7世紀前半に造られたのではないかと想定されます。もちろん、磐井の乱でヤマト王権に急襲され敗れたという反省を踏まえてのことです。

  「大宰府政庁跡」でも述べましたが、618年に唐が成立して以降、東アジア情勢は一気に緊張したものとなります。そうした背景の中で、百済との強い結びつきにより朝鮮半島に影響力を持つ九州王権としては、勢力を拡大しつつあった東のヤマト王権に対し、ある程度臣従する形で同盟関係にあったのではないかと思います。その理由は、白村江の戦いの際、斉明天皇が、朝倉橘広庭宮に遷したことです。「大宰府政庁跡」の時掲載した地図を見ればお分かりのように、唐・新羅と大決戦を交えるというのに、こんな奥地に本陣を構えるとは不自然です。この時、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)、額田王、中臣鎌足らも九州へ赴いたことになっています。しかし、これだけ錚々たる顔ぶれを揃えながら、奥地に引っ込んでいたのでは士気も上がりません。第一、朝鮮半島に向かうのであれば文禄・慶長の役(1592年~1598年)の時、豊臣秀吉が唐津近くの肥前名護屋に大規模な城を築いたように、博多湾の近く、少なくとも対馬海峡に面した位置に陣を置くのが自然なはずです。

  では、この朝倉橘広庭宮を拠点にしたという行動は何を意味するのでしょうか?素人なので想像の域を出ませんが、斉明天皇、中大兄皇子を中心とするヤマト政権はあくまで援軍に過ぎず、前線に赴いた主力は九州王権の軍勢だったのはないでしょうか。

  白村江における敗戦の結果、九州王権は多くの軍勢を失い、大いに勢力を削がれました。この時、唐軍の捕虜となった筑紫君薩夜麻(さちやま)は恐らく九州王権のかなりの重要人物だったと思われます。そして、斉明天皇が崩御し、ヤマト王権の実権を掌握していた中大兄皇子は、唐・新羅の来襲に備えることを名目に、朝倉橘広庭宮に残っていた軍勢で一挙に九州王権の支配権を握ったのではないでしょうか。かつて訪れた時は思いもしませんでしたが、水城や大野城、そして大宰府はそうした北九州支配の動きの中で生まれたのではないかと思います。

   そして壬申の乱で皇位に就いた天武天皇は、九州・ヤマトを統一した新しい王権であることを内外に宣するため、それまでの中国側の呼び名である「倭」ではなく「日本」と号したのではないでしょうか。

<つづく>

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御所ヶ谷神籠石の謎①

2012年02月07日 | 史跡めぐり


  一昨年は水城大宰府政庁跡、昨年は大野城をご紹介しましたが、3年目の今回は、福岡県行橋市津積にある、御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)に行ってきました。



  御所ヶ谷神籠石は古代に築かれた山城で、大野城と同様、御所ヶ岳(ホトギ山)の尾根に沿って土塁をめぐらし、弱点の谷間を石塁で固めた、周囲3kmに及ぶ壮大な城です。周囲8kmの大野城には及びませんが、当時の山城としては大きなものです。



  東門跡。



  建物礎石跡。目見当ですが、1辺6~7mほどの礎石跡です。大きさと位置から考えて物見櫓の跡ではないかと思いました。

 

  写真左は中門跡です。御所ヶ谷神籠石は『日本書紀』や『続日本紀』などの文献にその存在が記載されておらず、謎の多い城ではあるのですが、定説は大野城と同様、白村江の敗戦(663年)の後、外敵からの防御を目的に築かれたであろうということになっています。

  しかし、この中門の石垣を見た瞬間、僕はその定説は違うのではないかと思いました。以下は素人である僕の推測であることをお断りした上で、お話させていただきたいと思います。

  一見して感じた疑問とは、この中門の石垣の完成度の高さです(写真をクリックすると拡大します)。見てお分かりかと思いますが、ひとつひとつ成形された石が積み上げられています。いわゆる切り込みハギと呼ばれる石垣です。切り込みハギは石同士が密着している分、排水に難があるため、写真のように排水溝が必要になります。

  一方、写真右は大野城の太宰府口城門跡です。こちらは自然石に見える不揃いの石をかみ合わせて築かれています。野面積みと呼ばれる石垣です。野面積みが原始的であるという訳では決してないのですが、一般に石垣は時代の変遷順でいうと野面積み→打ち込みハギ→切り込みハギという順で技術進歩が見られます。

  例えば、乱世に加え鉄砲戦の時代になり、築城技術が飛躍的に進歩を遂げた戦国時代、打ち込みハギの登場は安土城(1580年)が最初と言われています。切り込みハギが登場するのは1600年頃のことで、その間には20年の開きがあります。しかも1600年以降になっても近世城郭の石垣は相変わらず野面積みが主流だったのです。

<つづく>

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龍馬外伝-土佐料理

2012年02月02日 | 食べ歩きデータベース


  土佐料理といえば、前回「祢保希(ねぼけ)」をご紹介しましたが、今回はよりカジュアルに、横浜駅西口にある「龍馬外伝」へ行ってきました。こちらのグループの系列店は最近新橋でもよく見かけます。



  今回食べたメニューの詳細は上のフォトチャンネルをご覧いただくとして、その中でも何点か特にお勧めをご紹介したいと思います。



  まずは土佐料理の定番、鰹のたたきですが、こちら「かつをの炭火塩たたき」は表面を炭火で炙った鰹を分厚く切ってあり、食べ応え十分です。これを醤油ではなく粗塩を少しだけ付けて食べます。



  同じ系統になりますが、「清水鯖の焼き切り」。清水鯖というのは、高知県清水市で水揚げされるゴマサバのことで、網を使わずに立縄漁という、この土地ならではの漁法で一匹ずつ釣り上げます。これが脂の乗った清水鯖の味を左右しているようです。こちらも表面を軽く炙ってあり、厚切りの鯖を粗塩で豪快に食べます。脂が乗り、鯖独特の旨みが口に広がって、個人的には鰹よりさらにお勧めです。



 「柚つくねとたっぷり野菜の生姜鍋」。柚子と生姜は南国土佐の特産品ですが、柚子を練りこんだ鶏つくねと白菜や水菜などの野菜をサッパリとした鶏ベースのスープで仕立てた鍋です。刻み生姜が寒い冬に体を温めてくれます。

龍馬外伝

神奈川県横浜市西区南幸2-6-6



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