また、御所ヶ谷神籠石の石垣は花崗岩を成形して造られています。北九州一帯は花崗岩の産地であり、僕がこの御所ヶ岳を歩いた時も、上の写真のような巨石がごろごろしていましたから、確かに石の調達には便利な場所だったかもしれません。しかし、花崗岩は固く、決して成形しやすい石とはいえません。すなわち、そこには高度な技術力があったということになります。
後に掲載する航空写真をご覧いただくとお分かり頂けると思うのですが、御所ヶ谷神籠石は周防灘から10kmほど内陸にあります。もし外敵からの防御を目的としていたなら、関門海峡側に築城するはずではないでしょうか。にもかかわらず。九州を除く日本海側にこうした山城が一切ないというのも腑に落ちません。
以上のことを踏まえますと、白村江の敗戦後、急ピッチで造成した城にしては、この石垣の完成度が高すぎるのではないかと思うのです。上の写真は、現地の案内板にあった「西日本の古代山城分布図」に僕が少し加筆したものですが、博多湾より少し内陸に入った、赤い三角印が3つ固まった辺りが大野城になります(写真をクリックすると拡大します)。もし外敵からの防衛のため、御所ヶ谷神籠石が大野城と同時期に築城されたのであれば、地理的には大野城の方がはるかに重要な位置にあります。実際、大野城は水城に隣接し、大宰府を守るための重要な城でした。普通であれば、大野城の方により技術的な力を注ぎそうなものです。
さらに不思議なのは、これほどの規模の城がどの文献にも登場していないということです。『日本書紀』や『続日本紀』には未だに存在さえ確認されていない城の名前が登場しています。史書に全ての城の名前を記載するとは限りませんが、記載するなら代表的、あるいは重要な城を挙げるはずです。ではなぜこれほど高度な技術を以て築かれた御所ヶ谷神籠石は記載がないのでしょうか?僕が思うには、既にこの城が存在していたからではないでしょうか。既に存在していた城であれば、わざわざ白村江の戦いの後に築いたことを改めて述べる必要がないからです。
正確な年代測定を行わなければ分かりませんが、仮説として上の分布図で、緑の△印、つまり文献に記載されていない古代山城は、白村江の戦いの後になって築かれた赤い△印の城よりも前から存在していたとします。
そこで、白村江の戦いの後に築かれた赤い△印の城を削除してみました。それが上の図です(写真をクリックすると拡大します)。話がややこしくなりますので、九州のみに限定し、改めて地図を眺めてみると何が浮かび上がるでしょう?これらの城は大陸からの侵攻に対してというより、むしろ南九州や四国・中国地方といった東部からの侵攻に対し、北九州を守るために配置されているように見えるのです。反対に、朝鮮半島に接している対馬海峡側はがら空きです。
つまり、このことは、7世紀末頃まで北九州には畿内を中心とするヤマト王権とは別の、独立した王権が存在したということを意味するのではないでしょうか。その王権は朝鮮半島のとりわけ百済と深いつながりを持ち、ヤマト王権より高い技術力を誇っていたと思われます。
この王権を仮に九州王権と呼ぶとすると、527年の磐井の乱は、ヤマト王権と九州王権による大規模な争いと考えることができます。結果、九州王権は敗れたものの、なお独立した地位を維持し続けました。恐らく御所ヶ谷神籠石をはじめとするこれらの山城は敗戦から立ち直った6世紀後半から白村江の戦い前の7世紀前半に造られたのではないかと想定されます。もちろん、磐井の乱でヤマト王権に急襲され敗れたという反省を踏まえてのことです。
「
大宰府政庁跡」でも述べましたが、618年に唐が成立して以降、東アジア情勢は一気に緊張したものとなります。そうした背景の中で、百済との強い結びつきにより朝鮮半島に影響力を持つ九州王権としては、勢力を拡大しつつあった東のヤマト王権に対し、ある程度臣従する形で同盟関係にあったのではないかと思います。その理由は、白村江の戦いの際、斉明天皇が、朝倉橘広庭宮に遷したことです。「
大宰府政庁跡」の時掲載した地図を見ればお分かりのように、唐・新羅と大決戦を交えるというのに、こんな奥地に本陣を構えるとは不自然です。この時、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)、額田王、中臣鎌足らも九州へ赴いたことになっています。しかし、これだけ錚々たる顔ぶれを揃えながら、奥地に引っ込んでいたのでは士気も上がりません。第一、朝鮮半島に向かうのであれば文禄・慶長の役(1592年~1598年)の時、豊臣秀吉が唐津近くの肥前
名護屋に大規模な城を築いたように、博多湾の近く、少なくとも対馬海峡に面した位置に陣を置くのが自然なはずです。
では、この朝倉橘広庭宮を拠点にしたという行動は何を意味するのでしょうか?素人なので想像の域を出ませんが、斉明天皇、中大兄皇子を中心とするヤマト政権はあくまで援軍に過ぎず、前線に赴いた主力は九州王権の軍勢だったのはないでしょうか。
白村江における敗戦の結果、九州王権は多くの軍勢を失い、大いに勢力を削がれました。この時、唐軍の捕虜となった筑紫君薩夜麻(さちやま)は恐らく九州王権のかなりの重要人物だったと思われます。そして、斉明天皇が崩御し、ヤマト王権の実権を掌握していた中大兄皇子は、唐・新羅の来襲に備えることを名目に、朝倉橘広庭宮に残っていた軍勢で一挙に九州王権の支配権を握ったのではないでしょうか。かつて訪れた時は思いもしませんでしたが、水城や大野城、そして大宰府はそうした北九州支配の動きの中で生まれたのではないかと思います。
そして壬申の乱で皇位に就いた天武天皇は、九州・ヤマトを統一した新しい王権であることを内外に宣するため、それまでの中国側の呼び名である「倭」ではなく「日本」と号したのではないでしょうか。
<つづく>
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
ブログをご覧いただいたすべての皆様に感謝を込めて。
よろしければクリックおねがいします!
↓