窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

ラグビー日本選手権2010決勝戦 三洋電機vsサントリー

2011年02月28日 | スポーツ観戦記


  今シーズンのラグビーを締めくくる日本選手権決勝が2月27日、秩父宮ラグビー場で行われました。新日鉄釜石、神戸製鋼に次ぐ4連覇を目指す三洋電機と、常に優勝争いに絡みながら9シーズン振りの優勝を目指すサントリーとの対戦となりました。決勝戦は昨年に続いての観戦です。



  温かな日和、そして大一番とあって学生ラグビーの人気カードでもここまで埋まることは最近ないのではないかと思うほど、ゴール裏も含めて大変な数のお客さんが詰め掛けていました。



  試合は序盤からサントリーが持ち味のスピードを活かして3トライを挙げ、24vs6で前半を終えました。三洋電機は先週の東芝戦に続いて前半に失点を重ねるという、鉄壁のディフェンスを誇ったチームとしてはらしくない展開となりました。



  後半、三洋電機がどのように修正してくるか注目していましたが、20分過ぎまではサントリーのペース。その後、連続2トライを挙げ一時は7点差まで追い上げましたが、流れを変えることはできず再び突き放されました。



  結果は37vs20でサントリーの勝利。試合後のインタビューでキャプテンが「シンプルなラグビーを心掛けた」とコメントしていましたが、モールと見せかけディフェンスを集めておいてから、青木選手が持ち込んでトライをきめるなど、随所に意外性のあるプレーが見られました。ディフェンスも最後まで激しく素晴らしい出足だったと思います。



  一方の三洋電機は後半の20分過ぎを除けば、最後までペースを掴めないまま終わってしまったように思います。しかし、決勝戦らしく両チーム共最後まで気持ちのこもった好ゲームだったと思います。



  場内では、ニュージーランド南部地震への支援募金が行われていました。ニュージーランド出身のジョン・カーワン日本代表ヘッドコーチも先頭に立って募金活動をしていました。公式の発表によれば368万円ほど集まったそうです。

  今年はニュージーランドでW杯が開催されます。ラグビーが被災した皆さんにきっと勇気を与えてくれると思います。

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仲里一郎さん②

2011年02月27日 | 講演メモ
2.理念の実践

  さて、一度挫折を味わった野菜販売ですが、「死に物狂いの営業経験、そこで培った販売の勘、人脈がその後に生きた」と先生はおっしゃっています。前述の2度の出向経験により幅広い発想ができるようになり、「仕事は枠組みを取り払いチームで行うもの(これを先生は「ビジネスインテグレーション」と呼んでおられます)」、そして「誰もが得をするのが事業本来の姿である」という想いを強くされたそうです。それが株式会社大喜コーポレーションの根幹をなす理念として結実していくこととなりました。しかし、「大喜」の社名に現れているとおり、何よりも先生ご本人が持っておられる人への想い、人への愛情、がそれを可能にしたのだと僕は思います。

  やがて中央卸売市場の横浜丸中青果株式会社さんより業務用野菜拡販のお仕事をいただけるようになった時、「横浜は西洋野菜はじめ、いろいろな物の発祥地であるにも関わらず、その食にまつわるドラマを活かしきれていない」と感じた先生は、またしても「野菜だけでは面白くない、横浜の物を横浜に売ろう」と発想されました。一例を挙げますと、得意先に、株式会社横浜ビールさんがあり、そこに野菜だけでなくシウマイも卸すようになりました。それだけなら普通の商品拡大なのですが、ここからが先生の非凡なところで、ビール工場で大量に発生する絞り粕に目をつけシウマイにビール酵母を加えた「ビールシウマイ」を発案、それが横浜ビールさんの直営レストラン「驛(うまや)の食卓」の人気メニューとなりました。因みに、横浜ビールさんも昨年、「ヨコハマ・グッズ001市長賞」を受賞されており、横浜唯一の地ビール工場としてユニークな経営をされています。お互いの思いがシンクロするのは必然だったのでしょう。

  そして、横浜ビールさんの勧めにより、驛の食卓前で毎週火曜の昼と夕方に野菜を直売する「驛テラス」を開設、好評を博しました。驛テラスは人とのつながり、地域活性化にも一役買い、それが株式会社キーストンテクノロジー、岡崎社長との運命的な出会いに発展します。



  岡崎社長は驛テラスに野菜を買いに来たお客さんで、LED照明による野菜の室内水耕栽培を研究されている方でした。岡崎社長も「みなとみらいのど真ん中で栽培された高品質の野菜を「横浜・馬車道ハイカラ野菜」として広めたい」という夢を持っておられたのですが、それが仲里先生という「触媒」を得たことにより、何と奈良建設さんが2010年7月に設立された子会社、株式会社セットアップ横浜と株式会社キーストンテクノロジーの共同出資による植物工場設備の販売会社「株式会社アグリ王」設立へと発展したのです。今からわずか3ヶ月前、2010年10月のことです。なお、「横浜・馬車道ハイカラ野菜」は驛テラスでも販売しているそうです。

3.つながりの時代

  先生のお話をまとめると、以下のことが言えると思います。

①人のつながりこそが大事、そこから予想もつかないようなエネルギーが生まれる。
②それは論理的思考を超えた因果によって結ばれるので、目先の打算は意味を成さない。
③「人を喜ばせたい」という想い、それを徹底して信じる心、素早い行動。

  仲里先生の今日はいわゆる表面的な「成功法」などでは決して導き出すことができません。強いて挙げるとすれば、先生の人に対する愛情、人に対する感謝、自分への信頼にこそその要因があり、それは時代を超えた不変の真理なのですが、過剰な競争社会に皆が疲れた今日より重要さを増してきているように思います。

  仲里先生、ありがとうございました。

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仲里一郎さん①

2011年02月26日 | 講演メモ


  先日、食品販売業、株式会社大喜コーポレーション代表取締役、仲里一郎さんのお話を拝聴する機会がありました。大変穏やかで楽しい雰囲気が溢れており、人を引き付ける魅力のあることが最初から伝わってくる方でした。大変面白い人生模様でしたので、少し長くなりますが、おさらいしてみたいと思います。

1.二度の転機、そして独立

  今でこそ食品を販売しておられる仲里先生ですが、キャリアのほとんどは建設業でした。昭和50年に大学の土木科をご卒業され、新横浜の奈良建設株式会社に入社。以来およそ15年、一貫して建築現場に携わってこられました。元々建築関係の方がなぜ食品を売るようになったのか、先生によればその転機は2回の出向経験にあったといいます。

  最初の出向は、1989年(平成元年)の横浜博覧会協会でした。そこで現在のみなとみらい21地区で開催された「横浜博覧会YES ’89」(確かそんな名前だったような…)の基盤整備事業に携わり、初めて建築関係以外の様々な業種、行政関係の人たちと関わりを持たれたそうです。そこで、異業種間のビジネス慣習や考え方の違いを目の当たりにされ、視野が大いに開ける一方、「強い理念と信頼」に結ばれたプロジェクトチームの大切さを実感されたとの事でした。

  第2の転機は、今からおよそ3年前。公共事業が激減し、建設業界を取り巻く環境が極めて悪化する中、何か従来の受注営業ではなく社会貢献性の高い事業を自分たちで生み出せないかと考えた仲里先生は、公有地有効活用の一環で都市農業を行うことを思いつきます。それがひいては建設受注にも繋がるであろうということで、この案を社内で提案、建設数社と共同出資でアグリ産業「グランパ」を設立。そこへ出向され、建築業者が野菜を売るということになりました。

  しかし、野菜は文字通り畑違いの事業。ノウハウも経験もない中で、拡販の営業には大変苦労されたそうです。最終的に、仲里先生は奈良建設株式会社の自己退社を決意されました。この時、先生56歳。

  さて、会社を辞め独立しようと考えた仲里先生。ここが並みの人でないと僕が一番感心したところなのですが、先生は56歳で「60歳まであと4年もある、だから独立しよう」と考えられたそうです。普通の人なら「俺はもう60近いし…」と愚痴をこぼしそうなものです。とはいうものの現実は厳しく、定年前の自己退社なので退職金が満額出るわけでもなく、年齢から再就職の口があるでもなく、求職活動をしていないので失業保険も出ないという状況。先生は家族を抱えながら、測量のアルバイトなどで生計を立てられたそうですが、それでも不思議と落ち込まなかったそうです。確かに怖いのだけれども、面白い。さらに、そんな先生をご家族や周囲の方々が決して責めることなく、むしろ励ましてくれたのだそうです。これなど、先生のまさにご人徳によるところでしょうが、その後の先生の事業展開を考えますと、ひとつの象徴的なエピソードのように思います。

  独立するにあたり、先生はある先輩からこんなアドバイスをいただいたそうです。

①大きくなくていい、まず家計を支える固定収入を確保せよ
②(物売りは)物を売ってナンボ
③今この瞬間から未来への種まきをせよ

これを「三分法」というのだそうですが、これをそれぞれではなく3つ同時に行うことが大切なのだそうです。このことは、先日ご紹介した深田稔社長や松浦勝人社長のお話にも通じるところがあります。

  さて、独立した仲里先生は、平成21年に株式会社大喜コーポレーションを設立。社名は、先生の御祖母の口ぐせ「喜べば、喜びごとが喜んで、喜び集めて喜びに来る」に由来するのだそうです。会社設立にあたり、先生は事業内容を以下のようにデザインされました。

「新会社の主な業務は【優れた食品を消費者に、そして企業と企業を結びつけるビジネス・インテグレーション】をビジネステーマとして、

◇青果・加工品など多様な食品をメーカーからの受託で販路開拓する。【セールス】
◇安心安全で本物の食品を最適な市場に展開する。【マーケティング】
◇食品を軸として、関連する様々な産業を有機的に結びつけて事業成立させる。【インテグレーション】
◇食品ビジネスを通じて発掘した不動産・建設ニーズのプロジェクト化。【プロデュース】

などを行って参ります。」

  この設立当初に描いたデザインを先生は違うことなく、そのまま実践し今日に至っておられます。

<つづく>

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かながわ3R祭で「よみがえり」が展示されます

2011年02月25日 | リサイクル軍手の世界


  神奈川県主催の環境イベント、「かながわ3R祭」に、第1回かながわリサイクル認定商品の認定を受けた弊社「特殊紡績手袋 よみがえり」、「特殊紡績手袋 よみがぁ~る」が展示されます。

  日時:平成23年3月5日(土)10:00-18:00
  場所:みなとみらい クイーンズスクエア横浜1階「クイーンズサークル」



  草木が芽吹くこれからの季節、ガーデニングや地域の草取りなどに、環境にやさしく丈夫な「よみがえり」・「よみがぁ~る」をぜひご利用ください。

「特殊紡績手袋 よみがえり」ができるまで(ムービー)

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一幸舎-中州店

2011年02月25日 | 食べ歩きデータベース


  この日は午後からバーテンダー技能競技大会に行く予定だったのですが、その前に朝から何も食べていなかったので、国体道路沿いの一幸舎に寄ってみました。

  一幸舎は関東でもコラボのカップ麺が売られていたり、東京・お台場にお店もありますので有名店になっていますが、僕が福岡にいた1997年当時はまだなく(2004年創業)、訪れるのは初めてです。



  お勧めの味玉ラーメンを注文。750円というのは福岡としてはやや高めの印象を受けます。豚骨ラーメンのしっかりとしたコクがある割にはあっさりとした上品なスープで、食べやすく仕上がっています。少し和風出汁の落ち着いた印象も受けました。

  若い人にはちょっと物足りないかもしれませんが、ちょうどこの日の僕のように、前日焼酎を呑み過ぎて胃が弱っているときには、かえってこってりした博多ラーメンよりもこの方が優しくて助かります。

  関東のラーメン屋が脂系の傾向を強める一方で、最近福岡ではこうしたあっさり系の豚骨が増えてきたような印象を受けます。

一幸舎中州店

福岡県福岡市博多区中洲1-4-17



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今泉珈琲店②

2011年02月24日 | 食べ歩きデータベース


  福岡の大名周辺は移り変わりが激しく、しばらく行かないと本当に分からなくなってしまうのですが、2月6日日曜日の朝、3年振りに今泉珈琲店に行ってきました。



  ちょっとした時間の合間を潰すには、ここで薫り高いコーヒーを楽しみながら静かにしているのが最高です。店内は昔のまま、驚いたことにコーヒーの値段も14年前のままでした。



  いつもの中煎り。マイルドで酸味が抑えられている分、香りを楽しめます。周辺には昔は福岡になかったスタバやベローチェができ、お店も大変だろうとは思うのですが、この思い出深いコーヒー店がいつまでも続いて欲しいと心からお祈りしています。

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新聞記事掲載のお知らせ

2011年02月23日 | リサイクル(しごと)の話
2011年2月22日(火)付の毎日新聞に弊社記事が掲載されております。

貢献人たち CSRの現場から

  どうぞ宜しくお願い致します。

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大野城⑤-百間石垣

2011年02月23日 | 史跡めぐり


  尾花地区を抜け、再び林道にでてきたものの、地図を持っていないのでどちらの方向に行けば分かりません。とりあえず直感で下り方面を選択し、相当長い間歩きました。正直に言って、いったいどこに出るのかも分かりませんでしたが、とりあえず山を抜けて町に出たらどうするか考えようということで、構わずどんどん歩き続けました。

  やがて四王寺川(これも当然後になってわかったことですが)に突き当たり、川のせせらぎに耳を傾けながら歩いていくと、突然百間石垣に辿り着きました。これはぜひ見て帰りたかったので、見つけたときは非常に嬉しかったです。



  こんな図を見ると、太宰府駅からスーツと革靴でどれだけ歩いてきたのか自分でも嫌になってしまいます(クリックすると拡大します)。しかし、この時はまだこれから宇美まで延々歩くことになるとは知る由もありませんでした。



  さて大野城は四王寺山の尾根に沿って土塁を巡らし山城としたわけですが、四王寺山は起伏が激しいために谷間はどうしても弱点になってしまいます。そこで谷間は土塁ではなくより堅固な石塁としました。この百間石垣は四王寺側に沿った部分を石塁とし、それに続く山腹部の石垣がちょうど百間(約180m)ほどであることから名付けられたものです。この四王寺川からは礎石も発見されており、この辺りに城門もあったのではないかと考えられています。



  百間石垣は平成15年7月の集中豪雨で甚大な被害を受けましたが、現在ではここまで復旧しています。繰り返しになりますが、7世紀に築かれた石塁がこれほどの規模で残っているとは本当に驚きです。この時代に北九州から瀬戸内海沿岸にかけて築かれたいくつかの古代山城以降、僕の知る限り日本で築かれた大規模な石塁には13世紀末の元寇防塁がありますが、それらは今では崩れ去ってほとんど残っていません。その後になりますと、沖縄を除けばこの規模かつこの技術水準の石塁は近世、16世紀まで待たなければならないでしょう。

  この百間石垣をもって、僕の大野城見物は終わりました。Face Bookにチェックインした履歴によれば、宇美駅に着いたのは、太宰府口城門を出てから1時間後のことです。

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大野城④-尾花地区・焼米が原

2011年02月22日 | 史跡めぐり


  太宰府口城門から土塁に沿って登っていくと、尾花地区という野原に出ます。ここ尾花地区は6.3m×10.5mで統一された10棟の建物群の礎石が見つかっており、武器庫や食糧庫であったと考えられています。人の背丈ほどの高さの床を多数の柱で支える、ちょうど奈良の正倉院のような建物であったようです。



 すぐ際は焼米が原(やきごめがはら)と呼ばれ、ここの建物が焼けたという言い伝えがあり、黒く炭化した米が今でも拾えるとのことでしたが、見つけることはできませんでした。



  8世紀、四王寺の僧、玄清法印の墓がここにあります。

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大野城③-太宰府口城門跡

2011年02月21日 | 史跡めぐり


  増長天地区から林道を横切ると太宰府天満宮を見下ろせる高台に出ます。ここは覚えていないくらい昔、祖父に連れられ来た記憶があります。この高台の淵は外郭の土塁跡です。想像以上に高さのある、大規模な土塁であったことがここからはハッキリと分かります。



  この土塁づたいに少し降りていくと、太宰府口城門跡に出ます。その名の通り、ここから山を降りていくと現在の太宰府天満宮方面に通じます。この他にも大野城には宇美口、水城口、坂本口と4つの城門がありますが、中でも太宰府口は最大の規模を誇ります。大宰府政庁跡で掲載した地図で水城・大野城・大宰府の位置関係を見ていただきますと、この大野城は最後の砦としての役割だけでなく、水城や大宰府に対する補給基地の役割も果たしていたのではないかというのが、僕個人の推測です。



  城門の両側は堅固な石塁で固められていますが、見た瞬間思わず感嘆の声を上げました。7世紀の石塁がまだこんな状態で残っていようとは。百済人の技術の下で築かれた大野城ですが、その技術の高さを窺わせます。



  太宰府口城門は当初、写真左のような掘立柱形式の城門でしたが、後に写真右の礎石
形式へと立て替えられたことが分かっています。この点は、大宰府も同様です。

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