窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

トヨタ博物館

2014年11月22日 | その他


  愛知県長久手市にあるトヨタ博物館へ行ってきました。同博物館は1989年(平成元年)にオープン、ガソリン車が誕生した19世紀から20世紀までの自動車約120台が展示されています。
 
  1999年(平成11年)には新館がオープン。日本のモータリゼーションの歩みが展示されています。

  まず、本館入口で出迎えるのは、1936年(昭和11年)に誕生したトヨタ初の生産型乗用車であるトヨダAA型乗用車(冒頭写真)。国産自動車の黎明期でありながら、当時流行のストリームラインを採用し、優れた乗り心地を実現するなど先進的な自動車でした。

  本館2階は19世紀末から20世紀にかけての欧米車を展示し、自動車の変遷が見られるようになっています。3階は1930年代から90年代までの日本の自動車の歴史。これだけの台数をブログではご紹介しきれませんので、下の動画に纏めることにしました。

トヨタ博物館Ⅰ 1920年代以前


  19世紀、自動車の誕生から20世紀、工業の中心がヨーロッパからアメリカに移り変わっていく様が、自動車の変遷から見てとれます。

トヨタ博物館Ⅱ 1930年代~40年代


  1930年代、日本でも自動車作りが始まります。しかし、こうして時系列で見てみると、当時の欧米との余りに大きな差に愕然とします。第二次世界大戦を経て、30年代と40年代の車のデザインが大きく変化しているのも興味深いです。

トヨタ博物館Ⅲ 1950年代


  日本の自動車産業は主に海外先進技術を吸収していた時代。マイカー時代到来以前、乗用車の主たる用途はタクシーだったようです。敗戦後の日本の事情を反映した、ユニークな車も多く、興味深いです。

トヨタ博物館Ⅳ 1960年代


  高度成長により自動車需要が拡大する中、日本の自動車産業が激しい競争の中で力をつけていったことが伺えます。そしてスポーツカーブームの時代、世界的にも自動車そのものが活気づいていた時代のように思えます。

トヨタ博物館Ⅴ 1970年代


  1973年生まれの僕は、この辺りになってくると記憶のある車になります。73年と78年の二度に渡るオイルショック、それによる省エネ指向によって、日本車が大きく躍進した時代。

トヨタ博物館Ⅵ 1980年代以降


  自動車産業が基幹産業として日本経済を牽引。一方、日米自動車摩擦が激しさを増していった80年代。バブル崩壊以降、車の魅力が低下していったように思いますが、様々な環境技術が再び日本車に革新をもたらし、現在に至っています。

トヨタ博物館

愛知県長久手市横道41-100



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熱田神宮

2014年11月17日 | 史跡めぐり


  11月15日、名古屋へ行った帰りがけに、熱田神宮の境内をぶらりと散歩してきました。

  熱田神宮は、神社本庁が包括する別表神社のひとつ。古くから、伊勢神宮に次いで権威のある神社であるとされ、宮中で一年最初に行われる行事である四方拝で、天皇陛下が拝礼される神社のひとつでもあります。



  その創建は古く、景行天皇43年(西暦113年)とされています。実際、境内からは上の写真のような弥生時代の宮廷式壷(2世紀)などが出土しており、その当時から祭祀上の重要な場所であったことが分かっています。

  これは個人的な想像ですが、古代、熱田神宮のある熱田台地は伊勢湾に突出した岬でした。熱田神宮は大和王権が東国へ勢力を拡大する戦略上の重要拠点であったかもしれません。



  主祭神は三種神器の一つである草薙剣。その為、素盞鳴尊や日本武尊など草薙剣に縁の深い神々が祀られています。社殿は明治時代に建てられた神明造のものがありましたが、空襲により消失。現在の社殿は1955年(昭和30年)に再建された新しいものです。



  前述のように境内には、本宮祭神と縁の深い多くの神々を祀る境内社が沢山あります。上の写真はその内の六末社(乙子社、姉子神社、今彦神社、水向神社、素盞鳴神社、日長神社、楠ノ御前神社)と呼ばれる御社です。



  徳川幕府五代将軍綱吉によって1686年(貞亨3年)に再建された西楽所。5月1日の舞楽神事はここで楽が奏されます。元は向かい側に東楽所もありました。



  熱田神宮は草薙剣を奉斎する神社であることから、刀剣の寄進が特に多かった神社でもあります。宝物館は撮影不可でしたが、鎌倉時代以降の刀剣が素晴らしい保存状態で展示されていました。因みに、武に関わるという点では、織田信長が桶狭間の戦い(1560年)で今川義元を急襲する際、熱田神宮に参拝したという話も有名です。

 上の写真は、室町時代(15世紀)の作、末之青江(真柄太刀)という大太刀です。刀身の長さ221.5cm、重さ4.5kgもあります。青江は備中子位荘内(現在の岡山県倉敷市)の地名で、ここには鎌倉時代から室町時代にかけて青江派と呼ばれる刀工集団が居住していました。江戸時代の大刀が大よそ刀長71cm、重さ0.9kgと言われているので、長さは約3倍、重さは約5倍にもなります。



  この大太刀は近江朝倉家の勇志、真柄十郎左衛門が所有していたと伝えられることから、「真柄太刀」とも呼ばれています。真柄十郎左衛門は姉川の合戦(1570年)で戦死、上の写真は「姉川合戦図屏風」で、大太刀を振り上げ奮戦する真柄十郎左衛門が描かれています。

  その後、大太刀は1576年(天正4年)に春日部熊野庄(現在の愛知県春日部市熊野町)の山田喜八郎吉久によって熱田神宮に寄進されたとの記録が残っています。

  その他、宝物館で印象に残ったところでは孝明天皇の「攘夷の綸旨」があります。撮影ができなかったので、ざっと見た筆跡からの印象なのですが、躍動感のある大きな文字、開明的で激動する時代に対応する目もあり、強い意思が現れていました。頑なな攘夷論者というのが現在の一般的な評価ですが、実はそうではなかったのではないかという感想を持ちました。恐らく天皇は、列強に抗するために中央集権的な統一国家建設の必要を感じ、それを国家分裂を避ける選択肢である「公武合体」によって実現すべきであると考えられていたのではないか。そのように思いました。

熱田神宮

愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1



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【診断事例19】行動力に富み、好きなことに没頭するタイプ

2014年11月16日 | 筆跡心理関係


【この方の人物像】

  大胆かつ多才。頭の回転が早く、好奇心が旺盛なので、素早い機転や当意即妙な会話で人を楽しませます。これと思ったことに果敢に取組む行動派で、衆目を驚かせるようなところがあります。社交性については、状況に応じてにぎやかに振舞ったり、控えめにしていたりと柔軟に対応できますが、内心は気が強く自信家でもあります。優れた潜在能力が備わっていることから、平凡な物事には満足できないところがあります。

  どちらかというと芸術的なものを好み、趣味など好きなことに深く取り組む方です。

【診断の感想】

  確かに、趣味は30年近く取り組んでいるものがあります。本当にあれだけの筆跡でこんなに人のことが分かるものだろうかと不思議になりました。

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【診断事例18】実直な努力家

2014年11月15日 | 筆跡心理関係


  上の画像は、クリックすると拡大します。40代・男性・製造業の会社役員をされている方です。

【この方の人物像】

  行動力があり、何事にも積極的に取組みます。好奇心旺盛で知識欲があり、思ったことは素直に口にする傾向にあります。非常に実直で、物事は中途半端にせず、きちんとやり遂げようと努力します。一方で切り替えの早いところもあり、決断や判断は機敏といえます。感受性が強く、芸術的なものを好み、好きなことにはのめりこんでしまうこともあります。

  積極的で行動力もありますが、生真面目で実直な性格が不器用さにつながってしまうこともあるでしょう。「名」・「虫」・「吉」にあるような「口」の字の左上を開けて書くようにすることで、持ち前の好奇心でさらに新しい発想を取り入れられるようになる可能性があります。また、「口」の字の右上を丸く書くようにすると、型にこだわらない、より柔軟な対応ができるようになるかもしれません。

【診断の感想】

  自分の筆跡診断の結果での感想ですが、ほぼ間違えなかったです(^^;;。 特に生真面目過ぎて不器用になるところが当てはまり過ぎて、もっと自分の口が達者になれたら良いのにとつくづく思ってしまいました。

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第52回YMSを開催しました

2014年11月14日 | YMS情報


  11月12日、mass×mass関内フューチャーセンターにて、第52回YMSを開催しました。

  今回の講師は、浜銀総合研究所の本城直樹氏。2010年(平成22年)の横浜銀行設立90周年記念事業で歴史関連施策を担当されたことがきっかけで、現在も横浜の歴史研究をライフワークとして取り組んでいらっしゃるそうです。



  今回も内容が盛りだくさんで、ここではお話しいただいたことのほんの一部だけご紹介したいと思います。

1.横浜村の場所



  現在は約369万人の人口を抱える横浜ですが、開港までわずか101戸の寒村だったことは良く知られています。その横浜村があった場所ですが、上の写真の赤い枠で囲った小さな半島状の地域にありました。文字通り、横浜だったのです。

  現在、横浜といえば名前が出てくる、関内・伊勢佐木町などは17世紀前半、徳川幕府四代将軍家綱の頃まで内海でした。ちょうど当社の事業本部近く、南区蒔田町あたりまでが海で、大岡川の河口はこの辺にありました。今でも夏になると大岡川はクラゲが大発生したりしますが、それは蒔田より先が元々海であり海水が入り混じっているためです。

2.吉田新田



  横浜の歴史は埋め立ての歴史といっても過言ではありません。その埋め立ては1656年(明和2年)の吉田新田干拓から始まりました。上の写真のオレンジ部分が吉田新田です。吉田新田と海の境が、今の伊勢佐木町大通りですが、この通りが直線なのはここに干拓のための潮除堤が築かれたためです。因みに、干拓事業を行った吉田勘兵衛の子孫は今でも横浜にいらっしゃいます。

3.関内とはどこのこと?



  今ではJR関内駅付近を一括りにして「関内」と呼ばれたりしますが、正確にはどこのことを指すのでしょう?上の写真のオレンジ部分、JR関内駅から石川町駅の間の、JR根岸線より海側の地域が関内です。この地域は横浜開港後に外国人居留地造成のために埋め立てられたところで、大岡川と派大岡川(現在は首都高速道路)、堀川という運河で囲まれた出島のようになっていました。この出島と外の地域を往来するための橋には関所が設けられ、その関所の内側ということで「関内」と呼ばれるようになったわけです。つまり、関所の外は「関外」、伊勢佐木町などは吉田橋の外ですから関外になります。元町も関外、中華街や馬車道は関内です。

  なお、関内は現在の日本大通りを境に外国人居留地(赤枠部分、現在の山下町あたり)と日本人商業地区(黒枠部分、現在の本町あたり)に分けられていました。また、開港にあたり元々横浜村に住んでいた村民が移住した地域が現在の元町になります。

4.日本一古い銀行「横浜銀行」

  横浜銀行のルーツをたどると、1920年(大正8年)に設立された横浜興信銀行になりますが、この横浜興信銀行は1928年(昭和3年)に1869年(明治2年)設立の横浜為替会社を母体とする第二国立銀行を引き継いでいます。国立銀行条例により第一国立銀行ができるのが1875年(明治8年)ですので、それより古い、日本一古い銀行ということができます。

5.原富太郎(三溪)

  横浜の偉人というとき、原富太郎を抜きには語れません。原富太郎は元々美濃(岐阜県)の生まれですが、横浜一の生糸売込商であった原善三郎の養子となりました。原は廃仏毀釈の風潮の中、失われつつあった日本の文化的建築を自宅であり現在も残る「三溪園」に移築して守ったほか、その三溪園を38歳の時には一般に開放しています。また、第二国立銀行頭取、横浜電気鉄道本牧線(後の横浜市電)開通に尽力、金融恐慌の際には無報酬・無配当で横浜興信銀行初代頭取に就任。関東大震災で横浜が壊滅した際には、横浜市復興会会長を務め、震災復興に尽力しました。また、1902年(明治35年)から1939年(昭和14年)まで、今年世界遺産に指定され話題となった富岡製糸場の経営も行っています。

  まだまだ語り尽くせいないのですが、ここまでにしたいと思います。

過去のYMS活動レポートはこちら

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島田亜紀子さんディナーコンサート2014

2014年11月13日 | その他


  11月10日、日頃大変お世話になっている島田亜紀子さんのフルートディナーコンサートへ行ってきました。

  島田さんには、今年7月に行われた弊社の創業80周年記念式典で演奏していただきましたが、コンサートは2年ぶりになります。

ディナーの写真はこちらにまとめて


  今回のテーマは映画音楽、音楽に不案内な僕でも知っている名曲ばかりです。



・踊り明かそう(My Fair Lady)
・ムーンリバー(Breakfast at Tiffany's)
・ひまわり(I Girasoli)
・ニューシネマパラダイス(Nuovo Cinema Paradiso)
・男と女(A Man And A Woman)
・ある愛の詩(Love Story)
・マイ・フェイヴァリット・シングス(Sound of Music)



・ドレミの歌(Sound of Music)
・タイタニック(Titanic)
・アナと雪の女王(Frozen)
+
ダンスメドレー
・Mamma Mia!
・Dancing Queen
・Can't Take My Eyes off You



  今回もしっとりと聞かせる曲からポップな曲まで、フルートってこんなに幅広いものなんだなと感じさせる2時間でした。

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第19回燮会(やわらぎ会)に参加しました

2014年11月12日 | 交渉アナリスト関係


  第8回ネゴシエーション研究フォーラムに続いて、NPO法人日本交渉協会の第19回燮会に参加しました。

  今回の講師は交渉アナリスト1級会員の齋藤由利子さん。病院の看護部長であり、全国でも数少ない看護部出身の副院長をされている方です。何より凄いのは、医療現場の改善のため、自ら行動を起こし影響を与えてきた方だということです。



  そんな齋藤さんより、「医療現場の交渉と私の交渉事例」と題してお話いただきました。

  初めにコンフリクトマネジメントと交渉について。まず第22回YMSでも行ったCAPS分析をアイスブレイクも兼ね、受講者で行いました。CAPS分析で分かることは、人の性格によりコミュニケーション・スタイルに違いがあり、その違いがコンフリクトの原因となるということです。医療現場では医療従事者間、或は患者やその家族との間に様々なコンフリクトが生じ、大きな問題に発展する可能性があります。大切なことは、互いの違いを理解し、認めてコミュニケーションを図ることだそうです。

 次に、価値観と人間関係について。人それぞれの価値観がいかに違うかを認識するために、『人間関係づくりトレーニング』(星野欣生著、金子書房)より「クルーザー」という演習を行いました。

人間関係づくりトレーニング
クリエーター情報なし
金子書房


  このワークは明らかに倫理的に問題のある登場人物たちを好き嫌いで順位付けするというもので、いざ蓋を開けてみると、驚くほど順位がばらつくのでした。つまり、自分が「常識」と思っていることが他人にとっても常識であるとは限らないということで、この価値観の違いを認識していないことがコミュニケーションの妨げになるというものです。
組織は価値観の異なる個々人の集まりです。そこで生じる対立命題を解決するため、組織内で共有された価値基準が必要になってきますが、その価値基準こそ組織のビジョンということになります。

  三番目は話すことと聞くこと。ここでは、言葉だけで伝えられた情報に基づいて参加者が絵を描き、その結果を共有するというワークを行いました。ここで分かることは、組織でよく起こる「伝えたつもり、分かったつもり」が何故起こるのかという事です。やはりコミュニケーションには「相手を理解すること」が必要になってくるのですが、そのために必要なスキルとして、「質問構成力」と「傾聴力」があるということでした。

人が反対する最大の理由は「私は聞いていない」というものである。

  5W1Hは良く知られていますが、中でも相手の真意を理解するWHYが大切になってくるということです。しかし、WHYはそのまま用いると尋問されているように受取られてしまうため、逆効果になりかねません。そこで効果的なWHYの用い方として、「事実を訊く3W」に変換する方法と「ポジティブな1H」に変換する方法があります。

【事実を訊く3W】

WHAT:こう考えた目的は何?
WHEN:どんな時そう考えたの?
WHERE:どんな場面でそう考えたの?

【ポジティブな1H】

HOW:どうやったらできたと思う?

  四番目は、病院組織における交渉スキルのポイントについて。前述のCAPS分析同様、医師、看護師、薬剤師、医療事務員それぞれ価値観やコミュニケーションに特徴があります。それを理解し、適切な伝え方があるということです。

クルト・レヴィンの公式 B=f(E,P)

B=行動
E=環境
P=個性


  最後に齋藤さんの交渉事例として、①院内感染管理体制の改善交渉、②BSC(バランスド・スコアカード)導入交渉、③看護部人事異動についてお話いただきました。

交渉力アップで看護部を変える、病院を変える
クリエーター情報なし
経営書院


  後の懇親会で齋藤さんがおっしゃっていたことですが、変化を起こすには「本人が楽しむこと」が何より大切なのだそうです。しかし、実際には今回のお話にはなかった様々なご苦労があったことだろうと思います。今回のお話を励みにしつつ、機会があればより詳しいお話を伺いたいと思いました。

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第8回ネゴシエーション研究フォーラムに参加しました

2014年11月11日 | 交渉アナリスト関係


  11月8日、第8回ネゴシエーション研究フォーラムに参加してきました。

  今回の講師は、東京大学公共政策大学院特任准教授、松浦正浩様。「交渉学からみた社会的合意形成」と題し、交渉学が公共政策でどのように使われているかについてご講義いただきました。



  松浦先生の専門は都市工学。マサチューセッツ工科大学で公共政策における紛争を解決するための手段としての交渉学、合意形成の研究をされました。

  さて、公共政策における交渉について理解するには、はじめに民間のビジネス交渉とは異なる、公共政策特有の前提をおさえておかなければなりません。その前提とは、

・ステークホルダーが多様かつ曖昧であること
・フリーライダーの存在、外部不経済のリスク
・ガバナンスが必要
・不確実性が高い
・公正性・倫理が絡む

  以上を踏まえた上で、立場ではなく利害に着目することで合意形成の糸口を探っていくという点では、それが国家間の交渉であれ、自治体と住民との交渉であれ、民間ビジネスの交渉と同じです。



  次に交渉学からみた、公共政策における合意形成について。ここでの「合意形成」とは、関係者による多者間交渉による「共存策」の模索をいいます。自治体政策を例にとると、かつて自治体が政策実施にあたりステークホルダーを巻き込む手法は「市民参加」といって、自治体が住民の多様な意見を聴取するという一方通行のものでした。しかし、一口に住民と言っても立場や意見が様々であり、この方法では合意が困難であるという欠点がありました。そこで今ではステークホルダー間の利害調整を交渉によって行う「協働ガバナンス」(以下、協働)という手法が取り入れられています。

  協働は、発議→計画・検討→実施→事後評価という、民間でいうPDCAサイクルと同じプロセスを辿ります。また合意形成までの行程は、計画策定→目標設定→代替案と評価項目の設定→代替案の比較評価→推奨案の選定というステップで進められます。これは一般の交渉プロセスと基本的には同じです(参考:「沼津高架PIプロジェクト・PI実施計画(静岡県)」)



  協働においては、ステークホルダー同士が直接対話することにより、全てのステークホルダーが受諾できる合意(コンセンサス・ビルディング)を見つけてもらいます。その際、自治体(第三者機関の場合も)の役割は、対話や利害調整を効率的に行うためのファシリテーター(状況によっては積極的介入を行うメディエーターである場合も)になります。その際、完全にとはいかないまでも、中立性をいかに担保するかが問題となります。

  さて、限られた時間の中の非常に駆け足の講義だった訳ですが、交渉学の基本から社会的合意形成に至るまでの解説は、先生の新著にまとめられています。

実践!交渉学 いかに合意形成を図るか (ちくま新書)
クリエーター情報なし
筑摩書房


  最後にお話の中で印象に残ったことをひとつ。交渉にはその国の文化や慣習が強く影響すると思いがちですが、先生が日米両国で得られた経験によると、交渉により強い影響を与えたのは文化的差異よりも国ごとの制度的差異だったということです。

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犬山城(白帝城)②

2014年11月10日 | 史跡めぐり


  天守閣。三層四階の望楼型天守。小規模ながら、古風な望楼、唐破風や入母屋破風が多用された美しい城です。



  地階。野面積みの石垣は低く、地階はほとんどスペースがありません。



  一階。「納戸の間」と呼ばれ百五十畳ほどの広さがあります。中央部が四部屋に区画されており周囲は廊下(武者走り)になっています。



  中央の仕切られた部屋は、西南部だけ床が7寸高くなっており「上段の間」と呼ばれています。創建当初、城主の居間として使われました。「君子南面す」という通り、南側を向いており、北側に護の武士が隠れる八畳ほどの「武者隠しの間」があります。この部屋だけ猿頬天井(下に行くほど猿頰面の竿縁(さおぶち)を使った天井。普通の竿縁天井より上等。)が張ってあり、床の間、床脇などの痕跡も見つかっています。



  天守正面右側(東南側)に張り出した、付櫓。天守閣に侵入しようと門に押し寄せた敵を側面から攻撃できるようになっています。



  二階。「武具の間」と呼ばれ、百四十四畳ほどの広さがあります。文字通り武器庫に使用されていた所で、中央が武具の間、そして西・北・東の三方に武具棚があります。周囲は廊下(武者走り)になっています。



  階段は階を重ねるごとに次第に急となります。三階は「唐破風の間」と呼ばれ、二十八畳、小間を合わせると四十一畳ほどの広さがあります。外観二重の屋根裏にあたり、南北が唐破風、東西が入母屋破風となっています。「唐破風の間」は築城当時にはなく、1618年(元和4年)から1685年(貞亨2年)にかけて装飾として増築されたものと伝えられています。



  最上階の望楼から望む木曽川。川の向こうは美濃(岐阜県)です。見つけられませんでしたが、遠く岐阜城や名古屋城を望むことができるそうです。望楼の廻廊も後に増築されたものだそうです。



  濃尾平野側。

<おわり>

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犬山城(白帝城)①

2014年11月09日 | 史跡めぐり


  10月26日、子供の頃から行きたいと思いつつ、なかなか行く機会のなかった犬山城へ行ってきました。現存12天守の一つ、その内国宝に指定されている四城(姫路城、松本城、彦根城、犬山城)の中でも最も古いお城です。また、2004年まで日本唯一、個人所有の城として有名でしたが、現在は財団法人犬山城白帝文庫の所有となっています。

  木曽川を望む濃尾平野の小高い丘に築かれたことから、唐の詩人李白の詩『早(つと)に白帝城を発す』に準えて、別名を白帝城と呼ばれています。なお、白帝城の命名は、江戸時代の儒学者荻生徂徠だと言われています。



  犬山城は1537年(天文6年)、織田信長の叔父である織田信康によって造られました。木曽川を挟んだ美濃と尾張の国境にあたる戦略上の要衝で、1584年の小牧長久手の戦いでは、小牧山を徳川家康に先制された羽柴秀吉が12万余りの大軍で犬山城に入城しました。

  現在の犬山城は1618年(元和4年)、尾張藩の付家老、成瀬正成(上写真)によって築かれたものです。1871年(明治4年)の廃藩置県により廃城となり、天守を除くほとんどの建物が取り壊されました。



  したがって、天守以外の遺構はほぼ残っていません。上の写真は、黒門跡。礎石が一つ残るのみです。


 
  岩坂門跡。登城道を上った最後に位置していた門。



  本丸門跡。現在は観光用に櫓門が建てられていますが、旧門とは関係ありません。ここは本丸入口にあたり、元々は外側に鉄を貼った鉄門でした。

<つづく>

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