
太宰府口城門から土塁に沿って登っていくと、尾花地区という野原に出ます。ここ尾花地区は6.3m×10.5mで統一された10棟の建物群の礎石が見つかっており、武器庫や食糧庫であったと考えられています。人の背丈ほどの高さの床を多数の柱で支える、ちょうど奈良の正倉院のような建物であったようです。

すぐ際は焼米が原(やきごめがはら)と呼ばれ、ここの建物が焼けたという言い伝えがあり、黒く炭化した米が今でも拾えるとのことでしたが、見つけることはできませんでした。

8世紀、四王寺の僧、玄清法印の墓がここにあります。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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