どこにも向かわない行き詰まりの中で
自分と向き合う苦痛を感じながらも、それでものろまな考え事をじっとしている。
真綿で首を絞めるという表現があるけれど、
別に僕は真綿で自分の首を絞めてるわけでもないと思う。
けど、外に対する期待がほとんどかなり大部分失われているのも確かで
未来に対する自分の展望が無いということもゆゆしき事態だけれど、
それよりは他人に対して一切何も期待できなくなってきている事の方が
よっぽど重大な問題じゃないかと思ったりする。
元々自分と向かい合う作業や、一人で黙々とパズルを解き続けるような行為の方が多くて
人と話すことにはあまり向いてないような気はしていた。
でも、いつの頃からか、僕は人前に居るときの自分と、
自分一人で居るときの自分に、大きな隔たりを感じるようになっていた。
中学生の頃や、高校生の頃までは、あたまの中に広がる無数の妄想人たちと
様々な会話を続けていて、それは日常会話の延長であったり、
捏造された記憶であったり、親しい人たちの性格をシミュレーションする作業の連続でもあった。
要するに人と向き合うという作業は、様々な形の鏡に向かって
自分という光を乱反射させる行為であって、
誰かに対して当てた光が返ってきてこそ、自分が何者であるかという輪郭が
ゆっくりうっすらと表れるのであって
そこに誰も居ないとき、それは主に記憶と向き合う作業で、
過去の記憶をひきずっている限り、僕は僕自身の記憶と会話し続け、
悩み続けねばならない。
別な言い方をすれば、難解なほどけない糸を抱えて絡まっている人ほど、
難しい局面を読み続ける棋士のように譜面と向かいあい続けねばならない。
僕は多くの人間を切り捨ててきたし、多くの人間を見放してきた。
そうやって要素の数を減らしながら、ずっと物思いにふける猿をし続けてきた。
けれど、タイムリミットが近づくにつれ、僕の考えている事は
整理されるどころか、思考力と記憶力が薄らいで、ずいぶんといい加減になってきてしまっているように思う。
一人の時間をたっぷりと用意し、外部と真剣に向き合うというのは、思いのほか難しい。
一人であるとき、外部がどこにあるのか、たびたび見失いそうになるからだ。
「問題」「悩み」「痛み」「感覚」そうしたものが世界の輪郭をぼんやりと僕の中で形成してるのであって、
なんらかの媒体を介さずに世界を直接感ずるというのは、やはりこれまた難しい。
土台の無い場所で、ゆっくり歩きながら走り回る地面を確認するような、
そんなへんてこな行為に似ているからだ。
二つの混乱が僕を形作り、その矛盾と混乱の中で、ハンドルをどちらにも切る事のできない自分を見つめる。
ただじっと何もしない自分を見つめて、なぜ自分に何もできないのかを考える。
行動に関するクラッチは感動だ。動機付け、期待、衝動、欲望、計画。
未来を見通せない場所で、何も期待のない場所で、頼りになるのは欲望だ。
けれど僕の生命力はとても希薄で、欲望はおそろしく少ない。
たぶんあるのだろうけれど、欲望よりも堕落の方が性に合っているから、
それがますます僕の生命力を奪っている。
努力するための目標は無い。僕は盲目だからだ。
ただ足場を固めながら、地面の確認ばかりをしている
いつも一歩を踏み出せば、その道は崩れるとばかり思っている。
実際に、歩くたびに道は消えていったのだけれど。
それが特別悲しいわけではないだろう。
むしろ今、僕が悲しいと感じられないことこそがゆゆしき問題のような気がしている。
どうしてこんなにも世界から記憶と感動は失われていくんだろう。
失われてゆくもののなかでしか、何かを大切にする事はできないからなんだろうか?
僕に何か大切なものは与えられただろうか?
僕は何か、自分で大切なものを作っただろうか.
僕は創らなかった。
大切なものが出来そうな時、ことごとく僕はそれを壊した。
僕の通った後には、廃墟のように廃れたがらんどうの欠片ばかりが残った。
主に心の通いそうで通わなかったコミュニティの残滓で、
それがなおいっそう、僕から感情を奪っていった。
たぶん、人は涙を流さなければ、次に泣く事はできないのだ。
ずっと涙を我慢していたら、もう次に泣く事はできないのだ。
今、僕に泣く事のできるものはなんだろう。
泣きたいほど、大事でかけがえのないものはなんだろう。
たぶんなにもない。
僕は自分の両手を確かめる行為ばかりを繰り返して、
何かを造ろうとはしていなかったからだ。
ただ僕は、排泄物のように、人々の心に、不在を書き込んでいった。
僕という存在の、不在を。
つまり、忘れられるためだけの、僕という謎のありかを。
それは、小さな世界にある、プランク定数のようなものとなっただろうか。
人々が心を知りたがる上での、確実でどうしようもない壁となっただろうか?
人々が、希望を失うための、絶望を確立するための、良い処方箋となっただろうか.
たぶん、ならなかった。
そしてたぶん、僕のこのテキストもまた、磨かれた鏡とはならなかった。
僕が、まだ真っ直ぐな心を手に入れていないからだ。
僕が、まだ僕の心を映し出すための、真っ直ぐに心を磨く努力をしていないからだ。
それでも僕は、できたら僕の書いたテキストが、最後の人に届けばいいな、と
願ってばかりいる。
消えゆく人が、最後に、誰かを見つめるよりも、世界を見つめるよりも、自分を見つめる事ができたらいいな、と
僕は思っている。
孤独は、いつも誰かとの間でのみ描かれる。
例えば君と、隔絶されたセカイと、僕の間であるようにして。
けれど僕は、最初からそんなものは、無ければいい な と思っている
僕も居なくて、君も居なくて、セカイも無ければいいのにな、 と思っている。
見つめるだけで浪費される世界が、今日も僕の手の上で、ほどけて解けてゆく
今日も、何もわからない僕として、、明日を待ち続ける。
自分と向き合う苦痛を感じながらも、それでものろまな考え事をじっとしている。
真綿で首を絞めるという表現があるけれど、
別に僕は真綿で自分の首を絞めてるわけでもないと思う。
けど、外に対する期待がほとんどかなり大部分失われているのも確かで
未来に対する自分の展望が無いということもゆゆしき事態だけれど、
それよりは他人に対して一切何も期待できなくなってきている事の方が
よっぽど重大な問題じゃないかと思ったりする。
元々自分と向かい合う作業や、一人で黙々とパズルを解き続けるような行為の方が多くて
人と話すことにはあまり向いてないような気はしていた。
でも、いつの頃からか、僕は人前に居るときの自分と、
自分一人で居るときの自分に、大きな隔たりを感じるようになっていた。
中学生の頃や、高校生の頃までは、あたまの中に広がる無数の妄想人たちと
様々な会話を続けていて、それは日常会話の延長であったり、
捏造された記憶であったり、親しい人たちの性格をシミュレーションする作業の連続でもあった。
要するに人と向き合うという作業は、様々な形の鏡に向かって
自分という光を乱反射させる行為であって、
誰かに対して当てた光が返ってきてこそ、自分が何者であるかという輪郭が
ゆっくりうっすらと表れるのであって
そこに誰も居ないとき、それは主に記憶と向き合う作業で、
過去の記憶をひきずっている限り、僕は僕自身の記憶と会話し続け、
悩み続けねばならない。
別な言い方をすれば、難解なほどけない糸を抱えて絡まっている人ほど、
難しい局面を読み続ける棋士のように譜面と向かいあい続けねばならない。
僕は多くの人間を切り捨ててきたし、多くの人間を見放してきた。
そうやって要素の数を減らしながら、ずっと物思いにふける猿をし続けてきた。
けれど、タイムリミットが近づくにつれ、僕の考えている事は
整理されるどころか、思考力と記憶力が薄らいで、ずいぶんといい加減になってきてしまっているように思う。
一人の時間をたっぷりと用意し、外部と真剣に向き合うというのは、思いのほか難しい。
一人であるとき、外部がどこにあるのか、たびたび見失いそうになるからだ。
「問題」「悩み」「痛み」「感覚」そうしたものが世界の輪郭をぼんやりと僕の中で形成してるのであって、
なんらかの媒体を介さずに世界を直接感ずるというのは、やはりこれまた難しい。
土台の無い場所で、ゆっくり歩きながら走り回る地面を確認するような、
そんなへんてこな行為に似ているからだ。
二つの混乱が僕を形作り、その矛盾と混乱の中で、ハンドルをどちらにも切る事のできない自分を見つめる。
ただじっと何もしない自分を見つめて、なぜ自分に何もできないのかを考える。
行動に関するクラッチは感動だ。動機付け、期待、衝動、欲望、計画。
未来を見通せない場所で、何も期待のない場所で、頼りになるのは欲望だ。
けれど僕の生命力はとても希薄で、欲望はおそろしく少ない。
たぶんあるのだろうけれど、欲望よりも堕落の方が性に合っているから、
それがますます僕の生命力を奪っている。
努力するための目標は無い。僕は盲目だからだ。
ただ足場を固めながら、地面の確認ばかりをしている
いつも一歩を踏み出せば、その道は崩れるとばかり思っている。
実際に、歩くたびに道は消えていったのだけれど。
それが特別悲しいわけではないだろう。
むしろ今、僕が悲しいと感じられないことこそがゆゆしき問題のような気がしている。
どうしてこんなにも世界から記憶と感動は失われていくんだろう。
失われてゆくもののなかでしか、何かを大切にする事はできないからなんだろうか?
僕に何か大切なものは与えられただろうか?
僕は何か、自分で大切なものを作っただろうか.
僕は創らなかった。
大切なものが出来そうな時、ことごとく僕はそれを壊した。
僕の通った後には、廃墟のように廃れたがらんどうの欠片ばかりが残った。
主に心の通いそうで通わなかったコミュニティの残滓で、
それがなおいっそう、僕から感情を奪っていった。
たぶん、人は涙を流さなければ、次に泣く事はできないのだ。
ずっと涙を我慢していたら、もう次に泣く事はできないのだ。
今、僕に泣く事のできるものはなんだろう。
泣きたいほど、大事でかけがえのないものはなんだろう。
たぶんなにもない。
僕は自分の両手を確かめる行為ばかりを繰り返して、
何かを造ろうとはしていなかったからだ。
ただ僕は、排泄物のように、人々の心に、不在を書き込んでいった。
僕という存在の、不在を。
つまり、忘れられるためだけの、僕という謎のありかを。
それは、小さな世界にある、プランク定数のようなものとなっただろうか。
人々が心を知りたがる上での、確実でどうしようもない壁となっただろうか?
人々が、希望を失うための、絶望を確立するための、良い処方箋となっただろうか.
たぶん、ならなかった。
そしてたぶん、僕のこのテキストもまた、磨かれた鏡とはならなかった。
僕が、まだ真っ直ぐな心を手に入れていないからだ。
僕が、まだ僕の心を映し出すための、真っ直ぐに心を磨く努力をしていないからだ。
それでも僕は、できたら僕の書いたテキストが、最後の人に届けばいいな、と
願ってばかりいる。
消えゆく人が、最後に、誰かを見つめるよりも、世界を見つめるよりも、自分を見つめる事ができたらいいな、と
僕は思っている。
孤独は、いつも誰かとの間でのみ描かれる。
例えば君と、隔絶されたセカイと、僕の間であるようにして。
けれど僕は、最初からそんなものは、無ければいい な と思っている
僕も居なくて、君も居なくて、セカイも無ければいいのにな、 と思っている。
見つめるだけで浪費される世界が、今日も僕の手の上で、ほどけて解けてゆく
今日も、何もわからない僕として、、明日を待ち続ける。
どのくらい存在するのでしょう?
総理大臣の地位にまで上り詰めても
人は苦しんで悩んで生きているのだと、
この世の中のほとんどの人たちは皆
不本意で退屈で苦しくて、それでも頑張って
些細なことに絶望したり、小さなことに歓喜したり
そういう日常の積み重ねの中で
精一杯生きているんじゃないかって思います。
だから、好きなことだけして生きていけるあなたは
本当はとても幸せなのかもしれません。
文面を少し変えます。
この雑多で混沌とした世界で
自分の好きな事をし続ける事のできる人間は、
いったいどのくらい存在できるのでしょう?
そしてまた、何もしないでのうのうと生きていられる人間は、
いったいどれくらい居るのでしょう?
この世の中のほとんど人たちは皆、
それぞれに自分の世界の中に映る不条理と戦っているはずです。
それでも、それを投げ出さずに続けている人がほとんどで
それを投げ出している人は、
リタイア組とか、負け組とか呼ばれるのかな?
たぶん、何も呼ばれないんだろうね。
ただ、どうでもよくて忘れられていくんじゃないかな。
まぁ、よくわからんけど、
以前と文章がだいぶ変わって見えるよ。
心に秘めたものが出来たのかな?
それがテキストと向き合う事によってきっかけが
なにか変化の始まりが膨らんだものだとしたら、
それは僕としては嬉しいように思います。
まぁ、堕落家としての自覚はあるんで
メッセージはそれなりに受け取っておきます(ё_ё)b
勝ち組と負け組は存在するのです。
その言葉は、生まれてから形成されたもののみを評価する言葉ではなくて
その人の持って生まれたもの、
その人と係わる周りのすべてのものをひっくるめて
総合的に形容する言葉だから。
そして、私は間違いなく勝ち組と呼ばれています。
生まれてからずっと。
それは、幸せの絶頂にいるときも
不幸のどん底にいるときも変わりません。
人にとって、私の心の中の変化など知る意味はありませんから。
それを悟ったから
私は「演技」することにしました。
「最高の幸せ芝居」
つまり他人の評価に自分を合わせてあげることにしたのです。
これをすることによって
顔はいつも笑っていられます。
けど、勝ち組の人が負け組の人を嫉妬するってのは
いったい何によってなの?
全体的に、そのコメントは
羨望に関する話なのかな?
人生について悩んでいられる事は
それなりに自由や豊かさを持った
先進国特有の症状だという話なら、
まぁわからなくもないのだけど…
衣食住に困らない生活が前提にあってこそ、
生や死の悩みなど、
抽象的な事をぼんやりと考えていられるということなら。
まぁいずれにせよ僕が特別幸せってことは無いと思いますよ。
それはたぶんあなたもそうだと思います。
幸せな人は、このBLOGを見て立ち止まったりしない気がする。
かと言ってこのBLOGを見ると不幸になるとか、
不幸な人しかここで立ち止まらないって意味には、
もちろんならないのですけど…
しかしまぁ、なんだか不思議です。
抽象的な言葉の奥に、
まるで個人的なストーリーが見え隠れするような、
それでいて、実際には何者をも表していない。
それは結局、僕がやってる事と同じなのかもしれないですね。
ところで花水木さんってなんの仕事してんの?
まぁ答えづらかったらスルーでいいよ。
他にも書きたい事は、たぶんいっぱいあるんだろうから。